日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

あなたにしかできないこと

2013-09-22 13:07:20 | メッセージ
礼拝宣教 エステル記4章 

本日はエステル記4章より「あなたにしかできないこと」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。まずは、このエステル記は、ユダヤ民が異邦の地バビロン、さらにペルシアの捕囚の地にあって先祖から受け継いできた神への信仰・神の教え(律法)を棄てることなく堅く保ち続けてきた。又、逆境にあってなお神の民として生きるユダヤの人々の骨太な信仰に焦点があてられています。

「3章までの粗筋」
4章に至るまでの粗筋を少し御話しますと。ペルシア王クセルクセス王の祝宴の招きを断った王妃ワシュテはその王妃の位を剥奪されてしまいます。王の家来たちはワシュテに代わる新しい王妃を選ぶことを王に提案し、新しい王妃を選ぶこととなります。
その頃、ユダヤ人の捕囚民で王宮に仕えていたモルデカイという人がいました。彼にはエステルという養女がいました。エステルが両親を亡くしていたので、いとこでもあったモルデカイが娘として引取り育てていたのです。そしてこのエステルが、ペルシア王の王妃に選ばれたのであります。

その後、クセルクセス王は、アガク人のハマンを引き立て、同僚の大臣のだれよりも高い地位につけました。このアガクとはアマレク人の王のことであり、ハマンはその子孫でした。イスラエルとアマレクは昔から敵対関係であったのです。モルデカイはアガクを滅ぼしたサウル王の子孫であったのですね。そういう因縁の関係にあったハマンが王の側近として地位につきます。そこで事件が起こるのです。
王宮の門にいる役人は皆、王の命に従ってハマンにひざまずき敬礼していました。
ところが、モルデカイはひざまずかず、敬礼しなかったのです。モルデカイにとってアマレク人にひざまずく事は、神への背信である程にあってはならない事だったのでしょう。
ハマンはモルデカイがひざまずいて敬礼しなかったのを見て、腹を立てます。そしてモルデカイが宿敵ユダヤ民族に属するのを知るや、彼一人を打つだけでは不十分だと思い、ペルシアの国中にいるモルデカイの民、ユダヤ人を皆、滅ぼそうと企てます。ハマンはクセルクセス王に、「ユダヤ人を絶滅するとユダヤ人たちからの納税金がなくなって国家財政が厳しくなりますから、その分わたしが銀貨1万キカルを国庫にお支払いいたします」との提案をし(1万キカルとはおおよそ当時ペルシアの国家予算の60パーセント・3分の2に相当するそうですが。)、王はそのハマンの申し出を了承しました。そしてアダル(12)の月の13日に、その一日のうちにユダヤ人は老若男女を問わず一人残らず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、その持ち物は没収される、という勅令が発布されることとなったのです

「モルデカイとエステル」
ここからが本日の4章の箇所であります。
モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげました。
モルデカイは、まさに心痛の極みであったでしょう。ハマンにひざまずいて敬礼しなかった自分の行動のために、自分だけでなく、捕囚民とすべてのユダヤ人が滅ぼされてしまう事態に至ったことに対し、どれほど深く嘆き悲しんだことでしょう。又、「ユダヤ人絶滅の勅書が届いたペルシアのどの州でも、ユダヤ人の間に大きな嘆きが起こり、多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」とあります。
何も知らない王妃エステルは、女官と宦官に王宮の門の前で粗布をまとうモルデカイのことを聞かされ、非常に驚き、モルデカイの粗布を脱がせようと衣服を届けますが、モルデカイは受け取ろうとしません。

「あなたにしかできないこと」
モルデカイは事の一部始終を遣いのハタクに聞かせ、同時にハタクに「エステル王妃自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように」との伝言を託します。モルデカイからの伝言を聞いたエステルは大変戸惑ったことでしょう。王からの召しもないのに王のもとに行く事(直訴すること)は誰であれ法律によれば極刑を免れ得なかったからです。しかし、モルデカイはそれでもエステルに伝えます。「この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

さて、このモルデカイの言葉を聞いて、皆さまはどのようにお感じになったでしょうか。何だかあまりにも彼は強引すぎるように思えます。けれどもこの言葉の背後に、モルデカイの信仰、「主は生き働いておられる、御言葉の約束をもって今も働いておられる」という信仰を見ることができます。
異邦の捕囚民として漂流地にあっても、決して流され得ない、自分たちは神の民であるという強い確信と共同体意識。そういうバックボーンがあってこそのモルデカイの発言であります。

モルデカイはエステルに、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」と言っていますが。それは、そうすることが「神がエステルにお与えになった使命」であり、「エステルよ、あなたにしかできないことがある」と訴えているのです。

それを聞いたエステルも大変苦悩したに違いありません。けれども葛藤の末に手紙で次のような返事をモルデカイにしたためて送ります。
「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」 
このエステルのしたためた手紙には直接「主」や「神」という言葉は出て来ていません。しかし旧約聖書の外典(旧約と新約の間に続編としている聖書をお持ちの方もいらっしゃると思いますが。そのギリシャ語のエステル記4章には、「主よ、思い起こしてください。この悩みの時、あなたご自身をお示しください。神々を支配し、すべての主権を握る王よ、わたしに勇気をお与えください」と、エステルの切実な祈りが綴られています。

このようにモルデカイの祈り、エステルの祈り、そして異邦の地にいるすべてのユダヤ同胞の執り成しの祈りのもと、エステルは、エステルにしかできないことを成し遂げるため、王宮に向かうのであります。

「杉原千畝・幸子夫妻のこと」
本日は「あなたにしかできないこと」と題し、お話させて戴いておりますが。
私はこのエステル記を読む中で思い浮かんできましたのが、「命のビザ」を発給し、6000人ものユダヤ人の命を救った杉原千畝・幸子ご夫妻のことであります。
杉原千畝氏は、第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスという都市で、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで知られています。
ユダヤ人迫害の惨状を熟知していた杉原氏は、助けを求めてくるユダヤ人に対して、パスポート以外であっても彼らが提示するもののうち、領事が最適当と認めたものをパスポートの代替案として認め、何が何でも第三国行きがかなうべく情状酌量を求めて外務省に電報を打ちます。が、それに対する返事は、行先の入国許可手続を完了した者、つなり受け入れ先からきちんと許可された者、又、旅費及び日本での滞在費等の携帯金を有する者にのみ査証を発給せよとの指示が繰り返し回電されてきたそうです。
そういう中、杉原幸子夫人が、難民たちのなかにいた憔悴する子供の姿に目をとめたとき、旧約聖書の哀歌2章19節の「彼らはどの街角でも飢えに衰えゆく。あなたの幼子らのために両手を上げて命乞いせよ」という御言葉が突然心に浮かんだそうです。杉原氏は悩み抜いた末、夫人に「ビザを出せなかったら、神に背くことだ。わたしは自分の責任において、「領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」と問いかけます。幸子夫人も「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけど、そうしてあげてください」と同意しました。こうして杉原氏は苦悩の末、本省の訓命に反し、「人道上、どうしても彼らを拒否できない」という理由で、受給要件を満たしていない者に対しても通過査証を発給し、それによって6000人のユダヤ難民の命が救われた、ということであります。
杉原氏は満州赴任の時代に洗礼を受けておられたそうです。後日談でありますが。日本に上陸したユダヤ人を受け入れたのはホーリネス教団のクリスチャンたちだったそうです。大戦下の自分たちすら食うや食わずの状況下で、逃れて来た人達に食べ物を提供し、臭くてボロボロの衣服を洗い繕い手助けしたということです。そして「聖書には、いつかイスラエルが再建されると約束されています。あなたたちは神の選びの民です」といって励まし、それはユダヤの人々に深い感動と力を与えることとなった、ということであります。

本日は「あなたにしかできないこと」と題し、エルテル記4章から聞いてまいりました。私たちはなぜ生かされているのか。私はなぜここにいるのか。それは「あなたにしかできないことが」があるからです。
私たちは、エステルや杉原ご夫妻と比べる必要などありません。それぞれが創造主であられる神さまに意味があって、何らかの目的をもって造られた存在であることが最も尊い事です。ましてや私たちは神のご計画により、主イエス・キリストにあって贖い出された者だと聖書にあるとおりです。神さまが「あなたにしかできないこと」を与えておられます。それはとっても身近なことかも知れません。神がお用いになることに大きい小さいは問題ではありません。必要なのは神の前にまっすぐに出て立つ姿勢であります。それぞれに与えられる神からの託宣を、キリストの愛と平和の中で受け取ってまいりましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年老いていくなかで | トップ | 自分と他者をつなぐ力 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿