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メリバ(争い)の水

2011-10-09 11:37:08 | メッセージ
宣教  民数記20:1-13

① イスラエルの人々の過ち・罪(的外れ)
荒れ野の旅40年目の最初の月、イスラエルの人々はツィンの荒れ野のカデシュの地に入りました。しかしその荒れ野には飲み水がなかったため、イスラエルの人々は徒党を組み、モーセとアロンに逆らって、こう抗弁します。「同胞が主の御前で死んだとき、我々も一緒に死に絶えていたらよかったのだ」。あの時に死のうが、今死のうが、まったく同じだと、自暴自棄の感情が現われます。さらに「なぜ、こんな荒れ野に主の会衆を引き入れたのです。我々と家畜をここで死なせるためですか。ここには種を蒔く土地も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも、飲み水さえないではありませんか」と言って、モーセとアロンが悪い所へ導いたとつぶやき、不平不満をぶつけます。
しかし、このようなつぶやきは初めてのことではありません。民数記14章に記されているように過去にも同じカデシュでなされたのです。その時も、イスラエルの民はカナン偵察にいったリーダーの報告を聞いて、夜通し泣きごとを言い。「エジプトの国で死ぬかや荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。それくらいならエジプトに引き返した方がましだ」とモーセとアロンに不平を言いました。
そのため、イスラエルの民はカナンの地に入ることを許されず、40年間荒れ野でさまよわなければならなかったのであります。

カナン偵察後の38年の時を経てイスラエルの民は再びこのカデシュに戻って来るのですが、
彼らはまたもや、モーセとアロン、そして神につぶやき、同じ罪を繰り返します。イスラエルの人びとの心が全く変化しなかったことが分かります。

イスラエルの人々の過ちは二つあります。
一つは、彼らは、荒れ野で困難な状況に遭うたびにエジプトを思い起こしました。エジプトがまるで楽園であるかのように語り、そこに帰ることを望みました。しかしどうでしょうか。彼らは、エジプトの時、厳しい苦役を課せられた奴隷でした。ある程度の食べ物が与えられていたかも知れませんが、支配されていた奴隷には変わりなかったのです。
彼らはそのことを忘れ、いろんな食べ物を食べたことだけを回想しています。過去の奴隷生活を回想する彼らに未来は見えませんでした。

二つ目は、確かに荒れ野に水がないというのは、死活問題であり深刻であったことは理解できますが。しかし彼らは、そこで主に寄り頼み、助けを求めることをせず、モーセとアロンを責め立てました。神に対する信仰を失えば、困難に陥る度に不平不満を言う悪循環を繰り返すようになります。

② モーセの過ち・罪(的外れ)
さて、そのようなイスラエルの人々に対して、主はモーセに「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と、仰せになります。主は、水がなくて不平を言う民を責めず、彼らに水を与えてくださいます。

ところが、モーセは民に対して、「反逆する者らよ、聞け。この岩から「私たちが」(原語に忠実に訳せば)あなたたちのために水を出さねばならないのか」と、怒りをぶつけました。そして、「モーセが手を上げ、その杖で岩を二度打つと、水がほとばしり出たので、共同体も家畜も飲んだ」とあります。

すると、そのすぐ後に主は、モーセの過ち・罪を厳しく指摘されます。
それは、主がこのモーセのとった態度を非常に不愉快に思われたということであります。
主はモーセに、「わたしを信じることをせず、イスラエルの人々の前に、わたしの聖なることを示さなかった」と仰せになります。

ではこの「わたしの聖なることを示さなかった」、そのモーセの過ち・罪とは具体的に何でしょうか。
それはひと言でいえば、怒りの感情に捕われてしまって罪を犯したということです。
モーセは「反逆する者らよ」と、民に怒りをぶつけます。それはまた、「私たちがあなたのために水を出さねばならないのか」と言うつぶやきでもありました。さらに、「杖で岩を二度打った」とありますが、これも主が「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と言われたことを聞かず、怒りに任せて杖で岩をバンバンと二度打ったんですね。一言岩に向かって「水を出せ」と命じたなら水は出たはずなのですが。
モーセは怒りの感情に捕われて、自分を見失い、神になり代わって民を罪に定めたということが示されています。姉ミリアムの死という悲しみを負っていたモーセに、民たちの不平不満と反逆はそれに追い打ちをかけ相当の重荷となってのしかかっていたことでしょう。モーセの心境も分かる気がいたします。
しかし聖書は怒りという人間の感情を押し殺せとは言っておりません。イエスさまも福音書で何度か厳しく怒りをあらわにされたからです。大切なのはその怒りは主の御心に沿ったものか否かという点であります。

主は、罪を犯し、逆らい続ける民に対し、怒られるのではなく、7節「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と仰せになられたんですね。そのように罪深い者であっても、その必要を満たされるお方なのです。モーセにとっては、ここで、「主があなたたちのために水を与えてくださる」と、主に栄光を帰すことこそ重要な役割であったのです。

主はそのモーセとアロンに対して、「あなたたちはこの会衆を、わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」と言われます。モーセとアロンはカナンの地に入ることができないと主は宣言されるのです。これはあまりに厳しく、重たい審きの言葉ではないでしょうか。しかし、これはモーセが人間の怒りの感情でもってそのまま人間を裁いたこと、又主のイスラエルへの深い憐れみを受けとめず、「主の聖なることを示さなかった」ことへの、厳しい審きであったのです。

③ 「メリバ(争い)の水」から私たちへのメッセージ。
本日の個所には、イスラエルの会衆の罪とその指導者モーセとアロンの罪が記されています。私たちは今日の個所を通して、自分たち自身の立ち位置を再確認していくことが必要であります。まず、会衆の一人ひとりの不平不満はモーセらを責め立て、主への不信仰を示していました。私たちも日常生活において、また教会生活においても、時に不平不満やつぶやきが募り溜まることがあります。それは有る意味人間のもつ弱さゆえです。
しかし主は、罪を犯し、逆らい続ける民に対して、怒られず、「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい」と仰せになられたように、罪深い者の必要を満たされるお方なのです。私たちの不平不満やつぶやきが、他者を攻撃したり、非難したり、排斥したり、裁くものにエスカレートしていくことがないように、まず主の御前にあって主にそのあるがままの思いを注ぎ出して、訴え、祈る道が備えられているということを再確認してまいりましょう。

また、指導者のモーセが人間の怒りの感情に捕われて、怒り任せに罪を犯してしまいました。このようなことは牧師も犯しやすい過ちでもあります。又、信徒同士の間にあっても犯しやすい過ちでもあります。感情を制するというのは本当に難しいことです。ただ主はここで、「彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませなさい」と命じられたように、たとえ罪ある民であっても恵みを与えようとしておられるのです。これが「主の聖なること」であり、「主の御心」なのであります。怒りの感情に捕われた人の裁きではなく、主の御憐れみを態度で示すよう主に召された私たちは招かれているのです。

この主の「聖なること」が示された究極は、イエス・キリストの十字架であります。神に不従順である人間の罪を自ら担い、贖い、解放してくださった主イエスの十字架。
先日の安藤榮雄先生は、主イエスが「わたしの手を見なさい」と仰せになったみ言葉の真髄を私たちに力強く語って下さいましたね。私たちの罪のために十字架にかかって釘打たれたままの主の御手こそ、主の聖なることの証しであり、私たちの救いと解放の原点であります。「メリバ・争いの水」ではなく、主イエスによって戴いた「命の水」「生ける水」を共に戴いた者として、主の聖なることを指し示す証し人とされていきましょう。

イエスさまは言われました。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:14)

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