宣教 レビ記25:1-7
ここには「安息の年」について記されています。
それは天地万物を創造された神さまが、七日目に休まれたことに由来します。
聖書ではこの7という数や日、月や年が特別なものとして捉えられてきました。
安息の日ということが最初に明確にされたのは、先日礼拝で読みました出エジプト記16章にあります「マナ」が与えられた時でありました。一日目から六日目迄日毎に与えられるマナですが、六日目には主がいつもの二倍のマナを与えられたので、イスラエルの人々は七日日には働く必要がなかったのです。それはまた、神さまご自身が七日目にマナの供給を休まれたということでありました。ですから安息の日は、神さまが創造の業を休まれたことを思い起こさせるものでもあったのです。
出エジプト記23章12節以降には「安息日」についての律法が次のように記されています。
「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それはあなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。
それはまた、忙しく、慌ただしい現代社会にも通じる戒めでもあるでしょう。
さて、本日の個所はその安息日の精神が活かされるかたちで、イスラエルの人びとに対し、主のための安息を「土地にも与えなさい」というもので、七年ごとにそれを履行するよう命じられています。「6年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない」とあるとおりです。
農業やガーデニングを経験なさった方はご存じのとおりでありますが、「土地を休ませてあげることで土に養分が戻り、再び豊かな実りが与えられる」というのは今やどの国の農業でも実践されていることです。しかし、当時40年間荒野の旅をして定住するのは初めての人ばかりであったイスラエルの民にとって、それは安定した実りを得るためには素晴らしい教えとなったことでしょう。
この聖書が語ります「安息の休み」の律法については、「土地を休ませる」ということ以外にも、先ほどの安息日の律法にもあるとおり、奴隷、寄留の人はもちろん、さらに家畜や動物にまで休みを与えるというものでした。
そしてこの「主のための安息を土地に与える」ということがですね、6節以降読んでみますと「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。(植えたり、草取りや清掃をしなくてもその年には実はなりますからね。それは)あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている、滞在者、更にあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」とあるんですね。
つまり「主のための安息を土地に与える」ことが、結果的には奴隷や雇い人、滞在者、又家畜やすべての動物までもが恩恵に与る。そして共に生きる恵みを味わう、ということにつながっていくわけです。
安息の日、又年に与えられた地の産物は、人間の労働によって生じたものでないわけですから、すべてのものがその恵みに与る権利が神から与えられているということですね。
「主のための安息を土地にも与えなさい」というのはイスラエルの民にとっては律法です。
しかしそれは、すべてを創造され万物の摂理を定められた神さまの知恵であり、神の民とされた彼らへの愛の戒めなのです。人間は有ればあるだけ消費してしまう生きものです。
しかし、人間が大地の生産力を使い尽くしてはならず、時には人も、家畜も土地も本来の自然の姿に返して休ませ、それによって、労働者、又貧しい者を助け、創造されたすべての動物を生かすこと。それが主なる神さまのご意志なのです。
さてここでもう一度、安息の日について考えてみたいと思います。
十戒の第4戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とありますが、申命記5章15節には、それを支えている根拠が、つまり「どうしてそれを守るのか」という理由が次のように記されています。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」。
そうですね、この「主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された」ということがまずあって、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と主は命じておられるのです。
イスラエルの人々はかつてエジプトで奴隷として強制労働を強いられていたわけですが。彼らがその非人道的な労働から解放された事が、安息日の必要性と結びつけられているのですね。
出エジプト記5章には「モーセとアロンがファラオと交渉する」場面が記されておりますが。それは荒れ野で主なる神を礼拝するために数日間労働を免じて休暇を与えてほしい、という訴えでした。それに対してファラオは、そのような休暇を求める者たちを「怠け者」と呼び、更に過酷な苦役を課したのであります。ファラオの労働を休ませない権威的でかたくなな態度と、休暇をとって荒れ野に出て主なる神を礼拝しようとするイスラエルの人々の態度とが対照的に描かれています。
このように出エジプトの出来事は、強制的な労働を強いられていたイスラエルの人々が主なる神を礼拝するための、それは休暇の要求から始まったということです。そのような中で、イスラエルの民は、主を礼拝する安息日の休息を遵守する十戒を手にしたのです。
本日は「安息の日とは?」と題し、み言葉を聞いています。
現代の私どもは、かつてのイスラエルの人々が奴隷であった時のように過酷な労働に強いられたり、搾取されているとはいえないでしょうが。逆に、不況や景気の低迷によって、仕事を失ったり、又仕事がないという問題が深刻にあります。
そういう中で、日曜日を主のために礼拝を捧げるということが難しい方々も確かにおられることも実情であります。もちろんキリストの福音によって救われている私どもは、律法主義的にそれを強制したり、捕われたりする必要はありません。主イエスご自身がおっしゃったように、「安息の主」が共におられること、それこそが真の安息の日なのです。
そういう中でも、やはり私どもは共に礼拝し、共に恵みに与っていく「安息の日」が必要なのであると、聖書は語ります。
今日の聖書から特に目に留まったのは、「主のための安息」というみ言葉であります。
この安息の日ですが、これはクリスチャンにとっては、イエス・キリストが死よりよみがえられた日曜日、「主の日」を示しております。それはまさに主が、罪人である私たちの罪を担い、贖いと解放をなしてくださった日であり、そのことを覚える日であります。
この主の日が、旧約の安息の日のように、真の休息と解放の日なのであります。
イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃって今日も私どもすべを招いておられます。ほんとうにありがたい、ほんとうに十字架のイエスさまにしか語ることのできない招きであります。主の日の礼拝に与ることは、まずこの主にあって休む、憩うということなのであります。
しかしその一方で、イエスさまは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃいます。
礼拝に集い休みと憩いを得て、そこで終わりじゃないんですね。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる」というのです。ここが肝心だと思います。この安らぎは、主のために働く、又イエスさまと共に働くことによって得られる恵みなのです。このように「休み」と「安らぎ」という二つの恵みに与る日、これが安息の日であり、主の日であります。
安らぎは、単にじっと静かにしていれば得られるというものではありません。
主のために、安息の日の律法にあるように隣人や他者のために奉仕して体がへとへとになっていても、どこか魂に安らぎや平安を得ているということが確かにあります。それが礼拝というものがサービス、奉仕と呼ばれているゆえんです。それは仕事ではなく奉仕、仕え合う愛の日なのです。今日もう一度、安息の日、主の日について、その原点を見つめ直し、互いに主の日が来るのがわくわくして待ち遠しい、そのような思いに満ちた一人ひとりとされていきたいものです。
ここには「安息の年」について記されています。
それは天地万物を創造された神さまが、七日目に休まれたことに由来します。
聖書ではこの7という数や日、月や年が特別なものとして捉えられてきました。
安息の日ということが最初に明確にされたのは、先日礼拝で読みました出エジプト記16章にあります「マナ」が与えられた時でありました。一日目から六日目迄日毎に与えられるマナですが、六日目には主がいつもの二倍のマナを与えられたので、イスラエルの人々は七日日には働く必要がなかったのです。それはまた、神さまご自身が七日目にマナの供給を休まれたということでありました。ですから安息の日は、神さまが創造の業を休まれたことを思い起こさせるものでもあったのです。
出エジプト記23章12節以降には「安息日」についての律法が次のように記されています。
「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それはあなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」。
それはまた、忙しく、慌ただしい現代社会にも通じる戒めでもあるでしょう。
さて、本日の個所はその安息日の精神が活かされるかたちで、イスラエルの人びとに対し、主のための安息を「土地にも与えなさい」というもので、七年ごとにそれを履行するよう命じられています。「6年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない」とあるとおりです。
農業やガーデニングを経験なさった方はご存じのとおりでありますが、「土地を休ませてあげることで土に養分が戻り、再び豊かな実りが与えられる」というのは今やどの国の農業でも実践されていることです。しかし、当時40年間荒野の旅をして定住するのは初めての人ばかりであったイスラエルの民にとって、それは安定した実りを得るためには素晴らしい教えとなったことでしょう。
この聖書が語ります「安息の休み」の律法については、「土地を休ませる」ということ以外にも、先ほどの安息日の律法にもあるとおり、奴隷、寄留の人はもちろん、さらに家畜や動物にまで休みを与えるというものでした。
そしてこの「主のための安息を土地に与える」ということがですね、6節以降読んでみますと「安息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。(植えたり、草取りや清掃をしなくてもその年には実はなりますからね。それは)あなたをはじめ、あなたの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている、滞在者、更にあなたの家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」とあるんですね。
つまり「主のための安息を土地に与える」ことが、結果的には奴隷や雇い人、滞在者、又家畜やすべての動物までもが恩恵に与る。そして共に生きる恵みを味わう、ということにつながっていくわけです。
安息の日、又年に与えられた地の産物は、人間の労働によって生じたものでないわけですから、すべてのものがその恵みに与る権利が神から与えられているということですね。
「主のための安息を土地にも与えなさい」というのはイスラエルの民にとっては律法です。
しかしそれは、すべてを創造され万物の摂理を定められた神さまの知恵であり、神の民とされた彼らへの愛の戒めなのです。人間は有ればあるだけ消費してしまう生きものです。
しかし、人間が大地の生産力を使い尽くしてはならず、時には人も、家畜も土地も本来の自然の姿に返して休ませ、それによって、労働者、又貧しい者を助け、創造されたすべての動物を生かすこと。それが主なる神さまのご意志なのです。
さてここでもう一度、安息の日について考えてみたいと思います。
十戒の第4戒に「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とありますが、申命記5章15節には、それを支えている根拠が、つまり「どうしてそれを守るのか」という理由が次のように記されています。
「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」。
そうですね、この「主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された」ということがまずあって、「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と主は命じておられるのです。
イスラエルの人々はかつてエジプトで奴隷として強制労働を強いられていたわけですが。彼らがその非人道的な労働から解放された事が、安息日の必要性と結びつけられているのですね。
出エジプト記5章には「モーセとアロンがファラオと交渉する」場面が記されておりますが。それは荒れ野で主なる神を礼拝するために数日間労働を免じて休暇を与えてほしい、という訴えでした。それに対してファラオは、そのような休暇を求める者たちを「怠け者」と呼び、更に過酷な苦役を課したのであります。ファラオの労働を休ませない権威的でかたくなな態度と、休暇をとって荒れ野に出て主なる神を礼拝しようとするイスラエルの人々の態度とが対照的に描かれています。
このように出エジプトの出来事は、強制的な労働を強いられていたイスラエルの人々が主なる神を礼拝するための、それは休暇の要求から始まったということです。そのような中で、イスラエルの民は、主を礼拝する安息日の休息を遵守する十戒を手にしたのです。
本日は「安息の日とは?」と題し、み言葉を聞いています。
現代の私どもは、かつてのイスラエルの人々が奴隷であった時のように過酷な労働に強いられたり、搾取されているとはいえないでしょうが。逆に、不況や景気の低迷によって、仕事を失ったり、又仕事がないという問題が深刻にあります。
そういう中で、日曜日を主のために礼拝を捧げるということが難しい方々も確かにおられることも実情であります。もちろんキリストの福音によって救われている私どもは、律法主義的にそれを強制したり、捕われたりする必要はありません。主イエスご自身がおっしゃったように、「安息の主」が共におられること、それこそが真の安息の日なのです。
そういう中でも、やはり私どもは共に礼拝し、共に恵みに与っていく「安息の日」が必要なのであると、聖書は語ります。
今日の聖書から特に目に留まったのは、「主のための安息」というみ言葉であります。
この安息の日ですが、これはクリスチャンにとっては、イエス・キリストが死よりよみがえられた日曜日、「主の日」を示しております。それはまさに主が、罪人である私たちの罪を担い、贖いと解放をなしてくださった日であり、そのことを覚える日であります。
この主の日が、旧約の安息の日のように、真の休息と解放の日なのであります。
イエスさまは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃって今日も私どもすべを招いておられます。ほんとうにありがたい、ほんとうに十字架のイエスさまにしか語ることのできない招きであります。主の日の礼拝に与ることは、まずこの主にあって休む、憩うということなのであります。
しかしその一方で、イエスさまは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とおっしゃいます。
礼拝に集い休みと憩いを得て、そこで終わりじゃないんですね。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる」というのです。ここが肝心だと思います。この安らぎは、主のために働く、又イエスさまと共に働くことによって得られる恵みなのです。このように「休み」と「安らぎ」という二つの恵みに与る日、これが安息の日であり、主の日であります。
安らぎは、単にじっと静かにしていれば得られるというものではありません。
主のために、安息の日の律法にあるように隣人や他者のために奉仕して体がへとへとになっていても、どこか魂に安らぎや平安を得ているということが確かにあります。それが礼拝というものがサービス、奉仕と呼ばれているゆえんです。それは仕事ではなく奉仕、仕え合う愛の日なのです。今日もう一度、安息の日、主の日について、その原点を見つめ直し、互いに主の日が来るのがわくわくして待ち遠しい、そのような思いに満ちた一人ひとりとされていきたいものです。
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