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一人では負いきれない

2020-09-13 13:14:26 | メッセージ

礼拝宣教 出エジプト18章12-27節

                               

今日は先に読まれました箇所から「一人では負いきれない」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。「ああ、もうとても一人では負いきれない」と感じたり、心と体が悲鳴をあげているのに、目の前のことをとにかく私がやらなければと頑張って体調を悪くしてしまったという経験をお持ちの方もおられるのではないでしょうか。しかしあの偉大なモーセさえも実はそういう状態に陥っていました。モーセにはイスラエルの民をエジプトから脱出させた後、待ち受けていました。その一つは、今日の箇所に8回も出てきます「裁く」ということです。それはモーセがイスラエルの民と神さまとの間に仲立ちして、民に日々起こっている問題を裁くことでありました。    

イスラエルの民は、生活の困ったことや仲間同士のいさかいごと等、すべてをモーセに判断してもらおうと、モーセのところにやって来ました。神の前に何が正しいのか、悪なのか。もめごとをどうすればよいのか、彼らは公正な裁きと判断を必要としていたのです。それは「行列のできる相談所」じゃありませんが毎日途切れることなく、人々は朝から晩までモーセに裁いてもらおうと待ち並んでいたと言うのです。さすがのモーセも日々務めに追われ疲れを覚え、時には判断がつけられず苦しみ悩むこともあったのではないでしょうか。

姑のエトロがやってきたときも、大勢の人々が彼の裁きを求めて朝から晩まで並んでいました。その様子を目にしたエトロは思わずこう口にします。「あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか」。

それに対してモーセは「民は、神に問うためにわたしのところに来るのです。彼らの間に何か事件が起こると、わたしのところに来ますので、わたしはそれぞれの間を裁き、また、神の掟と指示とを知らせるのです」と答えました。そこでエトロははっきりとこう指摘します。「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ」。モーセ一人で、民の全員の相手をするのはどう考えても無理がありました。神のご意志を正しく聞き、裁くことは神が課せられた務めであるとの使命感、又責任感が強くあったのではないでしょうか。神の御前に日々立ち続けるというプレッシャーはとてつもなく大きなものであったことでしょうが、それは又、長蛇の列に並んで裁きを待ち続ける民衆にとっても大変なことだったでしょう。エトロはそれらを見抜いて指摘したのです。

こういうお話を聞きました。「ある若い牧師が、自分の初めて赴任した教会で幾つもの仕事をこなしていました。その教会では、信徒の高齢化であらゆるところにスタッフが足りていなかったのです。教会学校では、子ども向けに話をできるという人が一人しかいなかったので、牧師が月に三回メッセージの担当をしていました。パソコンを使える人がいなかったので、教会の記録や集計は全て牧師が行っていました。彼は一応オルガンを弾くことができましたが、教会には他に一人しかオルガンを弾ける人がいなかったので、牧師が奏楽とメッセージの両方をやる週もありました。牧師は毎日ヘトヘトになりながら、自分を助けてくれる人が現れるよう祈りました。「主よ、どうかこの教会に若い人を与えてください。子どもたちにお話ができる人を、パソコンで記録が打てる人を、オルガンで奏楽ができる人を与えてください」。しかし、彼がいる間、そういった人が新しく教会にやって来ることはありませんでした。数年経って、その牧師は新しい教会へ赴任することになりました。彼は疲れ果てていましたが、自分がいる間、何とかやりきったとホッとしていました。教会員の人たちも、彼が非常にがんばってきたことを知っていたので、心からの感謝をもって送り出そうとしていました。そんな時、ある信徒の一人が別れ際にこう言ったのです。「先生、本当にこの数年間、私たちの教会で多くの働きを担ってくださり、感謝しています。しかし、新しい教会へ赴任されたら、私たちの教会でやってきたように、何もかも一人で背負わないでください。たとえ、次の教会で子どもたちにお話できる人がいなくても、聖書の絵本や紙芝居なら、読み聞かせてくれる人がいるでしょう。パソコンで記録を打てる人がいなくても、手書きでよければやってくれる人がいるでしょう。オルガンを弾けなくても、ピアノだったら弾けるという人が、この教会のように一人はいるかもしれません。先生、私たちにもできることがありました。次の教会でも、あなたを助けられる人たちがいるはずです。どうか何もかも一人で背負わないでください」。牧師は思わずこう叫びました。「なぜ、皆さんは今までそれを私に言わなかったのですか?私はいつだって助けてくれる人を探していたのに!」。                       こういった意思疎通がうまく通っていなかったというような現実も、確かに至るところであるのではないでしょうか。

話を戻しますが、エトロはモーセに助言します。「あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい」。それまで民は何かあると神に問うため、すべてをモーセのところに持ってきました。けれどエトロの助言は、何か問題が起こったときには、人々の間を裁くことができるリーダを立て、その基準となる掟と指示を神から受けて、彼らに示しておくように、ということでした。つまり、モーセがなすべき務めは「常に神の御前にあって、神に御意志を尋ね求め、その神から聞き受け取ったお言葉を示す」ということです。

このエトロの助言によって、モーセはもう一度神さまが自分に託しておられる本来の役割、すなわち神の御言葉を取り継ぐことを第一とし、それを専念すべきことを再確認するのです。ひいてはそのことが、神の民全体が主なる神さまのみ言葉をしっかりと聞き、神の平和のうちに約束の地カナンへ向かう原動力となっていったことでしょう。

エトロはさらに細やかにモーセこう助言します。「あなたは、民全員の中から神を畏れる有能な人で、不正な利得を憎み、信頼に値する人物を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長として民の上に立てなさい。平素は彼らに民を裁かせ、大きな事件があったときだけ、あなたのもとに持って来させる。小さな事件は彼ら自身で裁かせ、あなたの負担を軽くし、あなたと共に彼らに分担させなさい」。

新約聖書の使徒言行録6章を見ますと、信徒が増えてくる中で、生活に困っている人に対する分配に不公平が生じ、苦情が出るようになった時、信徒の中からそれに対応する七人の人々が選び出されます。それまで使徒と呼ばれる人たちが担っていたその分配の働きを、代わって担う人が立てられます。それが、今日の「執事」の起源となったと言われていますが。彼らが代わって立てられたことで、使徒たちは「わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と、言うことができたのです。これは単に組織の便宜のためとか、人々の不満を解消するためではなく、教会という主の共同体が神のみ言葉に聞き従って歩むために必要な提案であったのです。今日のこのエトロの助言も、モーセと選ばれた人たちが共に与えられた働きを担い合いながら、神の民としてみ言葉にしっかりと聞き、それに従い、神の共同体としての平和を保つように整えられていくのであります。                                                  

それにしてもモーセはエトロから助言を受ける迄、この方法に気づかなかったのでしょうか?自分が誰かに頼ること、助けてもらうことなど考えられなかったのでしょうか?確かに、今日の箇所では直接神さまがモーセに現れて、働き方の指示をお与えになったとは書かれていません。それまでモーセには、神がモーセを選ばれたときから助け手が備えお与になられていました。「自分は口が重く、舌の重い者なのです」と言うと、神さまはちゃんと考えてくださって、雄弁で頼りになる彼の兄弟アロンを遣わされます。また、エトロがモーセを訪問する前にアマレク人がイスラエル人を襲って来た時、従者ヨシュアをモーセは任命し、彼がその指揮をとるのです。また、その時の戦いで印象的だったのは、モーセが丘の頂で両手をあげている間は神が祝福されイスラエル人が優勢となり、手を下ろすとアマレク人が優勢になったため、モーセは神に祈って両手を必死に挙げ続けていましたが、手はだんだん疲れて重くなってきます。そこで、アロンともう一人、フルという人が二人でモーセの両側に立って、日の沈むまで彼の両手を支え続け、イスラエルは無事勝利を収めたのでした。実にモーセが困難な状況に陥り助けを求めると、彼を支える人、任に堪える人が与えられてきたのです。主である神さまは表の舞台に見ることができなくとも、絶えずモーセと共におられ、その時々において彼を助ける協力者を備えてくださっていたのですね。そういうことを見ていくと、モーセが一人で頑張って倒れ込む前にエテロが送られて来たとも思えます。こうしてモーセはしゅうとの言うことを聞き入れて、その勧めのとおりにし、全イスラエルの中から「神を畏れる有能な人、不正な利得を憎む人、信頼に値する人物」を選び、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長とした」ということであります。

さて、ここで大事なのは、共同体の中から選ばれた人たちが地位や立場、能力や知識というこの世的な力があったからではなく、まず何より「神を畏れる」人であった。それが選出の基準となったということです。箴言には「主を畏れることは知恵の初め」(1:7)とございます。神を畏れ敬う人は賄賂を受け取ったりせず、不正な利得を求めません。人を偏り見ず、神の前に公正な裁きを行うように努めるでしょう。もし、神への畏れがないような人がリーダーになれば、力の乱用が起こったり、賄賂を受け取ったり、不正な便宜を図ったりするかも知れません。神を畏れる心を持つ人こそ、世界の国々のリーダーになってほしいと、つくづく願い祈る昨今でありますが。

さて、モーセはエテロの助言を聴いて、選び出したその人たちに神のご意志と御言葉を語り、任を託すのであります。先のある牧師と信徒のエピソードではありませんが、モーセは神の務めをこれまで自分がやらなければならないとの思いで頑張って来たのでしょう。おそらくこのエトロの後押しがなければ、誰かに自分の責務を負ってもらうなんて考えられなかったのではないでしょうか。エトロの助言はモーセにとって大きな助け船となったんですね。        

本日は「一人では負いきれない」という題で、話をしてきました。特別に選ばれ有能な人物であったモーセでさえも、一人で負いきれるものではなかった。だからこそ共に担う人が必要であったということですね。私たちも又、家庭で、職場で、一人では負いきれないものを抱えているのではないでしょうか。どうか一人で抱え込まないでください。 主が共におられます。共に思いを分かち合い、祈り合っていきましょう。

コロナ禍で「新しい生活様式」という言葉が至るところで聞かれるようになりましたが。私たちも今この時、キリストのからだなる教会のあり方について問われているように思います。今日の礼拝の招詞としてヘブライ10章24-25節の「互いに愛と善行に励むように心がけ、あらゆる人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか」という箇所が読まれました。

この御言葉は、今の時代のように信教の自由が与えられた時代のものではなく、キリスト教の集会が公に認められず、迫害の危害が及ぶような中にあっても、なお初代教会が集会をやめることなく、互いにキリストにあって愛し合い、善行に励むために集会が続けられていたということです。私たちにとりましてその重みが以前にも増して響いてきます。コロナ禍においてここで守り捧げられる礼拝が、様々な状況の中におかれた兄弟姉妹を励まし続けていけますよう共に願い祈りつつ、今週も主が来られる日に向けて導きの中を共に歩んでまいりましょう。

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