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ヨセフの骨

2020-09-06 18:41:19 | メッセージ

召天者記念礼拝宣教 出エジプト記13章17-22節20/9/6

 

予想もしていなかったコロナ禍で、縮小したかたちでの召天者記念礼拝を行うこととなり、この場に集いたくても集うことができないご遺族の方々もおられますが。例年と変わることなく今年も先に天の御国に帰っていかれた兄弟姉妹を偲び、祈りつつ復活の希望の主に礼拝をお捧げしています。

本日の箇所は、奴隷の地エジプトから逃れたイスラエルの民を、神はカナンの地へとまっしぐらのペリシテ街道には導かれず、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられたという箇所であります。主はその旅路を昼は雲の柱によって砂漠の焼けつく暑さから守り、夜は火の柱をもって暗闇を照らし寒さから守られ、民に先立ち導かれるのです。ここには、「迂回の道」「ヨセフの骨」「雲の柱と火の柱」の3つのエピソードが続きますが、今日はこのところからメッセージを共に聞いていきたいと思います。

「迂回の道」

イスラエルの民は遂にエジプトを脱出しました。その目的地は、遥か昔彼らの父祖であったアブラハムとその子らに神が与えられると約束された、乳と蜜の流れる地、故郷カナンの地であります。けれども世代がすっかり入れ替わった彼らには、その目的地がどこなのか定かでありませんでした。そんなイスラエルの民の先頭を何と神ご自身が導いていかれるのです。 

神はエジプトを脱出したばかりのその民を、近道となるペリシテ街道には導かれません。この道はペリシテ街道を経て入るのが一般的ルートであったのですが、そうはなさらず荒れ野の道に迂回させられるのです。神がそのようになさった理由については、「民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれないと思われたからである」と記されています。エジプトとパレスチナを結ぶ公道として様々な民が往来するその道に、ゆうに200万人を超えるかというようなイスラエルの民が踏み入るなら、他民族との衝突が生じて争いになりかねなかったでしょう。

幾世代も奴隷の身として生活を余儀なくされてきたイスラエルの民が戦闘状態に陥った時、人々は恐れ、後悔してエジプトに再び帰ろうとするかも知れない。しかしそれは、再び奴隷の身として繋がれた囚われの日々でしかありません。神は近道の滅びに至る道ではなく、「荒れ野の道」にあえて迂回させられたのです。ここに神さまのイスラエルの民に対するご配慮を知らされます。まあ、スムーズに進むことのできる近道を通って目的地につけるのならそれに越したことはないと思うのが私たちであります。けれども神さまはそのように導かれなかった。私たちのその時々の状況、心理的状態までも見通しておられ、必要な最善の道へと導かれるのです。

 

「ヨセフの骨」

さて、モーセはイスラエルの民の父祖ヤコブの子ヨセフの骨を携えていました。    創世記50章24-25節に「ヨセフの遺言」が次のように記されています。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」「神は、必ずあなたたちを顧みてくださいます。そのときには、わたしの骨をここから携え上ってください」。

ヨセフは10人の兄たちの策略によってエジプトに奴隷として売られましたが、逆境を忍んでエジプトの大臣にとなりますが、その兄たちを恨むどころか許して和解して、エジプトに呼び、飢饉から救い出します。

ヨセフはエジプトで満ち足りた人生を送りながらも最期には、神の約束の地に埋葬されることを望んだのです。こうしてヨセフが死んで400年以上の時を経て、その骨はついに神の約束の地に埋葬されるためにエジプトを出立するのです。気の遠くなるような永い年月を経て、ヨセフの願いどおりその骨は遂に神の約束の地に戻っていくことになるのですね。そこに神さまの顧みがあったということを、イスラエルの民は知ることになるのです。

モーセがヨセフの骨を携え上った。これは先祖や遺骨の崇拝をするためではなく、必ず自分たち顧みてくださるという神さまへの信仰であり、その行為なのです

先に荒れ野への「迂回の道」についてお話しましたが。それは人間的に見れば回り道といえるものでした。この「ヨセフの骨」のエピソードも、ヨセフの遺言が語られてから、イスラエルの民がエジプトの奴隷となり、400年以上もの年月を経て遂に実現するのであります。その間ずっとヨセフの兄弟、子、孫、ひ孫、玄孫、後世のイスラエルの民に神さまの祝福の約束は語り継がれていくのですね。時代は移り変わろうとも、神さまはそのお約束を決して変更されることなく、イスラエルの民を顧みられて、エジプトの囚われの身から解き放ち、先祖に約束された地へと導かれるのであります。人の眼には、忘れられたかのような年月がかかりましょうとも、神さまが約束なさったゆえに必ず実現するのです。そのことがこの「ヨセフの骨」のエピソードに証しされているのですね。

本日は奇しくも先に天に召された敬愛する信仰の先達を偲び、覚えつつ、主に礼拝をお捧げしています。私たちもこのヨセフに続く者でありたいものです。主が来臨されるときに共々に主と顔と顔とを、又主にある兄弟姉妹と顔と顔とを合わすことができる希望の信仰を堅くもって、地上での生涯を主にあって歩み続けてまいりましょう。

 

「雲の柱、火の柱」

次に3つ目の「雲の柱と火の柱」のエピソードについて見てみましょう。

21節に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」と記されています。

これは、神さまが荒れ野の道を行かせた民を絶えず導いていて下さるしるしです。荒れ野の日昼は暑さが非常に厳しいです。そういう中を旅することは困難を極めたでしょう。その真昼の道のりにおいて民が日照りの突き刺すような暑さに疲れをおぼえるとき、神は大きな雲の柱を立て強烈な日照りから民を守り導いてくださったというのです。又、荒れ野の夜は一転して急激に冷え込みます。真っ暗で不安も襲って来たでしょう。そこは強盗をはじめ、猛獣や毒蛇に襲われる危険もありました。そういう時神は火の柱を立てて民を照らし、襲ってくるものから守ってくださったというのです。イスラエルの民はそうして神さまの導きによって昼も夜も平安を得て、行進することができたのです。

イスラエルの民の総人数は男女子ども含めますと200万人以上はいたかと思われますが。その人々を先導していった「柱」とは一体どういうものであったのか、まあそれだけの人たちが目撃し、導かれた神の柱ってほんとすごいな、と思うわけです。一説には火山の活動に伴う現象かとも言われていますが、定かではありません。いずれにしろ大事なのは、それが民を守り導かれる神さまの御意志よって現れたという事です。「昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」。先頭を行く者が道を間違えれば大変なことです。神さま自ら、民の先頭を離れることなく導かれる。これ以上確かなことはありません。                                                          

私ども主の共同体も同様なのではないでしょうか。この地で主の福音宣教が開始されて70年という様々な時代の流れを経て今日がありますのは、主ご自身が私どものあゆみの先頭を決して離れることなく、昼は雲の柱、夜は火の柱を立てて守り導いて下さったからにほかなりません。この民の先行きが見えないような荒れ野の旅に、ずっと伴って歩んでくださる主。

この後、「たとえばわたしが」という親友が作った賛美歌を歌いますが。その元となったのがマーガレットF・パワーズさんの詩「フットプリンツ~足あと」です。機会ある度にご紹介していますが、もう一度その詩をお読みします。

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」   

イスラエルの民のみならず私たちも又、自分の願いとは異なる困難ともいえるような荒れ野の険しい道を行くような時、疲れや不安を覚え、ひとり孤独な思いに陥ることもあります。しかし、たとえ私たちが気づかないうちにも、主は私たちと共にいてくださる。先立って進み、昼は雲の柱、夜は火の柱で守り導いてくださるお方であります。主の確かな愛と顧みに堅く信頼しつつ、今週の歩みをここから新たに始めてまいりましょう。

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