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時が来た

2016-02-17 14:23:43 | メッセージ
礼拝宣教 ヨハネ12・20-28節 受難節(レント)

今日のお話で、まず、ユダヤの祭の時期に礼拝するためにエルサレムに上ってきた何人かのギリシャ人が、イエスの弟子のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ、と記されています。彼らギリシャ人がユダヤ教に改宗していたのか、ユダヤ教に興味を持っていたのか定かではありませんが、イエスさまのなさったしるしやお働きを耳にして何か聞いていて、何とかイエスさまにお会いしたいという思いがあったようです。けれども彼らはギリシャ人でしたから言葉がうまく通じません。そこで彼らは、ギリシャ語名をもつフィリポに話せば何とかイエスさまに取り継いでくれるに違いないと考えたのでしょう。すると、フィリポは同じようにギリシャ語名を持つもう一人の弟子アンデレにそのことを話し、二人は行って、イエスさまにそのギリシャ人たちのことを話した、とあります。

その後、イエスさまがこのギリシャ人たちと会われたかについては何も記されていませんが、ただここから読み取れるのは、彼らがイエスさまの弟子たちを通してイエスさまにお会いすることを願ったように、主の福音が弟子たちを通して、民族や言葉の違いを乗り越え伝えられていくことを象徴的に物語っているように思えます。イエスさまに「取り継ぐ、つないでいく、橋渡していく」という役目。それは今も私たち一人ひとりに託されています。昨年は大変多くの新来会者が礼拝に集われました。それも今日の聖書ではありませんが日本以外の国々の方々も多く来られ、通訳者が必要な折に、主は大阪教会に必要な通訳できる方々を起こしてくださいました。昨年の来会者の一人で台湾から日本語の勉強に来られていたクリスチャンのKさんは、台湾に帰国されて自分の教会に大阪教会のことを報告され、数か月して同じ台湾教会の青年が日本に来られた折に大阪教会を訪ねて来られたということもございました。未信者、クリスチャン問わず新来者を主イエスにあって心をこめてお迎えし、交流の時を持つ事をとおして主にある喜びを分ち合うことがこれから益々期待されています。

さて、ギリシャ人たちのことを取り継いだアンデレとフィリポらの前で主イエスは言われます。「人の子が栄光を受ける時が来た。」
この「栄光の時」とヨハネ福音書が記すとき、それはイエスさまが十字架の苦難と死を引き受けられる時のことを示している、ということを何度も礼拝宣教で話してまいりましたが。イエスさまはカナの婚礼のときに現わした、水をぶどう酒に変えられた最初のしるしの時から、幾度も様々なしるしを行われながら、「わたしのときはまだきていない」と言われたのです。ところが、まさにその時が来た、とここでおっしゃるのですね。

それまでイエスさまの宣教活動の対象はほとんどユダヤ人に限定していました。マタイ10章で主イエスは「天の国は近づいた」との福音を伝えるため弟子たちを派遣なさるのですが。それに際して弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられていました。
 しかしヨハネ福音書は、この福音の訪れから除外されていたギリシャ人たちの来訪を機に、イエスさまの「人の子が栄光を受ける時が来た」という宣言をもって、宗教的な隔ての壁や民族的な境界を越えて、福音が広く世界に及んでいくその新しい時代のはじまりを告げるのです。そうして私たちも今、隔ての壁、様々な違いを越える福音の恵みに与かっているわけです。

ところで、イエスさまはここで御自分を「人の子」と言っておられますが、それは何を表しているのでしょう。旧約聖書の預言書の一つであるダニエル書7章13-14節にこういう記事があります。「夜の幻をなお見ていると、見よ『人の子』のような者が天の雲に乗り『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み権威、威光、王権を受けた。」 まあ、このように全権をもつ王、メシア(救い主)として来られたことを世にお示しになった、と読むことができます。今日のエピソードの前には、民衆がイエスさまを熱狂的に迎える場面が記されていますが。そのようにイスラエルの民は彼をローマの圧政から解放し治めてくれる王、メシアの登場を切望していたといえます。
 それは、イエスの弟子たちも同様にそういった人の子のイメージを抱いていたことは否めません。ですから、イエスさまがここで「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたことを聞いた弟子たちは、いよいよ主がローマの支配を打ち破って、イスラエルの王国を再建なさる「時が来たぞ」と、高揚した気持になったのではないでしょうか。
ところが、イエスさまはそんな弟子たちの期待とは裏腹に、「一粒の麦」のたとえを通して御自分が「十字架の苦難と死によって栄光を現わされる」ことをお語りになるんですね。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
これはユダヤの人々をはじめ弟子たちには思いもよらぬショッキングな言葉だったに違いありません。「人の子が栄光を受けるための時が来た」と聞き、大いに期待を膨らましたのに、「人の子は地に落ちて死ななければならない」と言われ、弟子たちの心境はまさに急転直下といえるものであったでしょう。

ここでイエスさまは、イスラエルでも主食であった麦、その一粒の麦をたとえにして、
御自分の生涯、担うべき十字架の苦難と死を示されます。麦は命の糧として貴重なものです。麦は土に蒔かれると人に踏まれます。そうやって踏みつけられることによって芽を出し、しっかりと育っていきます。地に蒔かれもせず、踏みつけられないで大事にとっておかれるだけなら、それは一粒の麦のまま、何の役にも立たず人を生かす命の糧とはならないのです。イエスさまは御自分が地に落ちた一粒の麦のように、あたかも踏みつけられ、冷たく暗い土に埋められる一粒の麦のように死ぬことによって、やがて多くの実を結ぶことになるということをここで明らかにされたのですね。
イザヤ書53章11節に預言されたように、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」とあるとおりです。このイエスさまの十字架の苦難と死による実りをおぼえると共に、益々主イエス福音が実を結んでいくことを願うものです。
続く25節には、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とあります。これを世間一般の人が読むと、キリスト教の教えは難しい、と感じる方がおられるでしょう。自分の命を愛することは大事なことのはずです。そして自分の命を憎むということほど自虐的で否定的なことはないと思います。そのまま読みますと命を粗末にするような表現になりそうな言葉ですけれども。岩波訳聖書は、「自分の命に愛着する者は、それを滅ぼし、この世で自分の命を憎む者は、それを永遠の命にまで護ることとなる」と訳されています。
イエスさまは、自分の命を利己のために保とうとすればそれを失うが、自分の命を主と人のために使い果たそうとする人はかえってそれを得て、永遠の命(神の命)に至る、と言っているのですね。ここで使われている「命」は人間に備えられたあるがままの命、ギリシャ語でプシュケーです。それは生理学的な命、肉体を抱える自然的な命です。ですからやがて衰え消えゆくものです。それはある意味限界を持つ命のことですよね。けれども、神と人のために私たちがそのプシュケーの命を使い果たしてゆくとき、かえってそれを保って、「永遠の命」、ギリシャ語でゾーエーの命に至るっておっしゃるんですね。「永遠の命」という言葉が実にこれほどの重みをもっているということをここで見るのであります。

最後に、イエスさまは真に神の子でありますが、又、全く私たち同様人間としてこの地上にお生まれになり、そのご生涯を全うなさいました。先程申しました、人としての命と永遠の命のせめぎ合いのなかでもだえ苦しまれるイエスさまのお姿を、本日の27節以降のところで伝えています。それは他の共観福音書にございますゲッセマネの園で、血の汗をしたたらせながらもだえ祈られたお姿を重ねて見るのでありますが。
ここで、イエスさまはこのように訴えておられます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。父よ、御名の栄光を現わしてください。」
イエスさまが「心騒ぐ」と叫ばれた、「心」は実は「プシュケー」、人間の自然の命、限りある命を指し、そこにはイエスさまであられても想像を絶するような苦悩があられたということであります。十字架の苦難と死が差し迫る中での苦悩と恐れから、イエスさまは父なる神さまに、「わたしをこの時から救ってください」と訴えて祈られたのですね。十字架の道はイエスさまにとっても受け入れ難いものであった。
けれどもその後で、イエスさまは、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と御自分に言い聞かせるようにおっしゃって、「父よ、御名の栄光を現わしてください」と祈られるのですね。「自分の命を救ってください」という命を保つ訴えから、まさにこの時のための命として父なる神さまにすべてをゆだね切って行く決意を表されるのです。イエスさまは永遠の命の初穂となるためこのように地に落ちた一粒の麦となって下さった。この事を深く想う時、私たちも25、26節のみ言葉にア―メンと唱和させられのではないでしょうか。
イエスさまのその祈りに28節、すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現わした。再び栄光を現わそう。」
それは父なる神がこれまで御子イエスさまを通してなされた多くのしるしによってその臨在と神の国を証されたように、十字架の道を通してその大いなる栄光を遂に現わそう、という約束の声であったのですね。
そして「神の最大の栄光。」それこそは御子イエスさまの十字架の苦難と死を通してなされた全人類のための救いのみ業であります。この事実を今日も確認したいと思います。今や一粒の麦主イエス・キリストによってもたらされた救いの福音が、民族的な境界を越えて、広く世界に多くの実りをもたらして来たことを私たちは知っています。私たちも又その実りの麦であるのです。
先週読みました「イエスこそ、復活であり、命である。」3章16節の「神は、その独り子をお与えになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」その命のみ言葉が今も世界中において、又私たちのうちにも生きて働いているその幸いおぼえつつ、これからも主の救いの福音が世界の至るところに蒔かれ実り続けていくよう、この受難節より祈り、努めてまいりましょう。
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