日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

恐れることはない

2021-02-07 10:47:09 | メッセージ

主日礼拝宣教 マタイ10章26節~31節 

宣教音声データ→https://drive.google.com/file/d/1J8LB0vNJKJyA9LSV0PrAs8aMGYdrBO1L/view?usp=drivesdk

 

本日は「恐れることはない」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。

先週読みましたようにイエスさまは、12人の弟子たちを選ばれます。それは「天の国は近づいた」ことを宣べ伝え、救いの業を証しし、行なわせるためでした。イエスさまは弟子たちを派遣するにあたり行くべきところ、なすべきことなどをお示しになります。それを聞いていた彼らは、選ばれ遣わされていく高揚感とともに、「よし、イエスさまの弟子としてここはひとつ頑張ろう」とこぶしを握りしめていたのではないでしょうか。

けれどイエスさまは本日の箇所の前のところで、「わたしはあなた方を遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と、迫害と苦難の予告をなさいます。

そしてさらに「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方議員に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出され、彼らや異邦人に証しすることになる」と仰せになります。。

しかしここをよく読みますと、イエスさまは弟子たちに対して単に迫害や苦難があるというのではなく、そこで「証しすることになる」とおっしゃっているのです。

皆さんはどうでしょう。主イエスを信じてクリスチャンとなったはいいが、思いがけず身近な人から心無い中傷に遭ったり、非難されたりと、そういう経験をされた方もいらっしゃるかも知れません。私たちがこの世の中で主イエスに聞き従っていこうとする時、そこには多かれ少なかれ摩擦や私たちを信仰から引き離そうとする力が働きます。時にはただイエスさまを信じているだけなのに、そんな理不尽な、と思うようなこともあるかも知れません。けれどもイエスさまは、まっすぐに主なる神に聴き従って生きようとする者にある意味必然的にそういったことが起る、ともおっしゃっているのです。

町内会で、職場で、学校で、そして家族、親族、友人にも、キリストを信じて生きる者であることを意志表明するのは、時に恐れを伴うことがあるかも知れません。又、昨今の状況下において、違った意味で人と接することの不安や恐れもあるかも知れません。

先日、「コロナ禍の教会」というテーマで、牧師会が開かれました。

ある牧師は、「この状況下、人と会話する中で人が見えてきた。その根底にあるのは恐れではないのか。信仰の厚い人が意外にもこういうことを言われるのか。人のことがわかったつもりでいたけれどもわかっていなかった。コロナ禍を通して相互理解を深めていくことの大切さを知らされた」等と、おっしゃっていました。

信仰をもっているとはいえ、人間である以上恐れや不安が湧き上がってくることもある私たちです。

そこでイエスさまは26節「人々を恐れてはならない」と言われます。しかしそこでただ恐れるなというのではなく、一つの大きな希望として「覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」と、おっしゃいます。

この覆われているもの、隠されているものとは、「神の福音」、「よき知らせ」のことであります。

ヨハネ黙示録はギリシャ語の「アポクリファ」ですが。それは「覆いを取り除く」ということです。イエス・キリストが救いの御業を成し遂げられたことで、覆い隠されていた神の真理とその救いのご計画が明らかにされたということです。イエスさまは、どんなに世の力が働き、封じ込めようとしても、やがて必ず明らかにされ、すべての人に知られるようになる、と希望を語られるのです。

黙示録も非常に厳しい迫害の最中に記された書物ですが。そのような時代の中で主を信じ従っていった信徒たちは、キリストの来臨によってすべてが明らかにされるその時を待ち望み、苦難の中でなお福音の証しを立てていったのです。

闇のような時代の中でも、27節「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」と、イエスさまが命じられたように、今日に至るまで確かに神の福音は伝えられ続けているのです。

28節には「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と、力強いお言葉が語られます。

むろん体が傷つけられたり、ましてや殺されたりなどと考えたくもないことですので、ここを読むと怖い気がいたします。しかしイエスさまがおっしゃるのは「人ではなく、神こそ恐るべきお方である」ということです。むしろ「魂までも滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とおっしゃるのです。

この地獄と訳された「ゲヘナ」。それは架空のものではなく、実は東エルサレム郊外にそういう名の谷があり、そこにはいわゆる廃棄物焼却場があったんですね。まあ、そこですべてが灰になるまで焼き尽くされるように、体ばかりでなく魂までも地獄で滅ぼすことのできるものすごい権威ある神こそ恐れよと、イエスさまはおっしゃるのです。

その恐るべき神についてイエスさまはまたおっしゃいます。

「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。

1アサリオンとは当時のユダヤの最小貨幣です。日本でいえは1円に価するでしょう。雀二羽で1円ですから。一羽の雀の価値といえばその1円の半分というということになり、もはや貨幣としては成り立たないいくらい値打ちがないものを意味しているのです。

しかし、ここが肝心なのですが。「あなたがたの父」はそのように価値の無いように思える存在をご存じでおられ、それどころかその生き死にまでも司っておられる、と言われるのですね。

さらに、あなたがたの天の父は子であるあなたがたを知らないわけがない。あなたがたの髪の毛一本までも残らず数えられている。(私はここを読むときちょっと複雑な思いがするのですが)。それほどまで知っていてくださる。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっているではないか」と、イエスさまはおっしゃるのであります。

私は今回この箇所を準備しながら大変な驚きと感銘を受けました。

それは聖書教育誌にも書かれていましたが。「その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」というのは、元の原文では「そのうちの一羽すらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」。「父なし」が元の言葉なんですね。岩波訳聖書ではここを大胆に解釈し、「地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」と脚注がつけられています。そこには父なる神の愛とともに神の独り子イエス・キリスト御自身が十字架の死を通して顕わされた、「主はどこまでも共にいてくださる」というメッセージが要約されています。そこに私は大変感動し、励まされたのです。

「小さい一羽の雀さえそのように取り扱われる。あなたがたはたくさんの雀よりはるかにまさっているではないか。だから恐れるな」。

そのようにイエスさまは弟子たちに、そして今日の時代にあって主に聴き従い、福音に生きる私たち一人ひとりを力強く励まされるのです。

今週は2月11日を迎え、私たちは「思想信条・信教の自由を守る日」として覚えておりますが。このコロナ禍にあっても世界中の国々においてそれが脅かされるような事態が相次いでいます。ものの言いにくい時代になって来たとはいえ、まがりなりにも思想信条の自由、信教の自由は守られていますが。それはこれからも守られ続けねばなりません。

この日本でもキリスト者に対する弾圧や迫害の時代がありました。近いところでは大戦の最中。鎖国の時代にもそれ以前にもずっと迫害は繰り返されたのです。

遠藤周作さんの小説「沈黙」はよく知られていますが。江戸時代1638年以降の長崎の島原や五島で起った悲惨なキリシタンへの弾圧と迫害は、映画化もされ私も観ましたが。何度も目を伏せては、ため息と涙がこぼれました。

大先輩の司祭が迫害のため棄教した・信仰を棄てたと聞いたロドリゴ(仮名)神父は、その後を追って長崎に向い、村落に隠れていたキリスト者たちから典礼を求められ、それに応えていきます。ところが彼は信仰を貫き務めることで信仰の同胞が過酷な弾圧と処刑に遭うことにこれ以上耐え難くなり、遂には自ら踏み絵の前に近づいていきます。

その時、踏み絵の銅板のキリストがこうお語りになる声を彼は聞くのです。

「踏むがいい。わたしはお前とともに苦しんだ。わたしはこのおまえの痛さを一番よく知っている。踏むがいい。わたしはおまえたちの痛みを分かち合うためにこの世に生まれた」。彼は踏み絵を踏みます。その後棄教したとされるロドリゴ神父は日本名を名乗りキリシタンご禁令の調査員として奉行所で御用され、最期は仏教の読経のもと葬られるのです。

けれども、最後に映し出された映画のシーンでは、その棺に納められた彼の手に「十字架(クロス)」が握られていたのです。そこにはローマの信徒への手紙9章38-39節に記されていますように、「どんなものも、キリストによって示された神の愛から、引き離すことはできない」ということが、証しされているのですね。「神は共におられた」と、そこに大きな希望を見た思いがいたしました。

神が沈黙しているように思われる時代を経て今、十字架の主と共にある殉教者の尊い証しと祈りを受けて、この地においてもキリストの真理と福音は確かに息づいています。

現在の状況下に生きる私たちも特有な困難があり、時に不安や恐れに萎縮しそうになることもあるかも知れません。けれど主は共にあって、神の福音の確かさと信頼へと招いておられます。

私たちもいのちの言葉に日々養われ、神の福音をたずさえ、それぞれの場において福音を証しするものとされてまいりましょう。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 主イエスに遣わされて | トップ | 来たり給うキリスト »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿