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神の武具を身に着けなさい

2022-08-07 17:42:12 | 教会案内
礼拝宣教 エフェソ6章10~20節

今日は8月最初の礼拝ですが、8月は平和を覚えて祈る平和月間として過ごしてまいります。昨日は人類史上初めて広島に原子爆弾が投下されてから77年目となる平和記念式典が行われました。広島市長は平和宣言の中で、「ロシアによるウクライナ侵攻は、罪のない市民の命や日常を奪っています。世界中で核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増しています。1945年8月6日の地獄絵図の再現を許さないよう、一刻も早く全ての核のボタンを無用なものにしなくてはなりません。ロシアの文豪トルストイの『他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない』という言葉をかみしめるべきです」と訴えられました。何とその同日、ロシアが支配するウクライナ最大のザボロジエ原発が砲撃されるという恐るべき事態が起こりました。ロシアとウクライナは双方を非難しているとのことですが。放射能漏れはないのか非常に心配です。ロシアとウクライナの戦争が長期化しています。この間、国連はじめどこも戦争を止められないことに無力さを覚えます。ウクライナの難民数は500万人を超えて900万人とも伝える報道もあります。戦争がすでに長期化し消耗戦となり、世界規模で平和が脅かされるような情況もあります。経済危機もさらに高まってきています。それは温暖化の加速と並行して世界的な食糧難と価格上昇を作り、一日の食事さえままならない今まさに命の危機に直面している人がいたるところにおられます。それは決して人ごとではありません。神がお造りになった世界はすべてつながっています。このような「百害あって一利もない」戦争が一刻も早く終息するようにと願うばかりです。また、ウクライナの難民支援のための第二次募金を募っております。日本バプテスト連盟が集約し世界バプテスト連盟(BWA)に送金され、用いられています。私たちも共に覚え、祈り続けてまいりましょう。
                                          さて、7月から礼拝で「エフェソの信徒への手紙」を読んできましたが、本日は最後の6章から御言葉を聞いていきます。祈祷会の聖書の学びの時に、エフェソ1章の書き出しのところの2節に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにありますように」とあり、そして最後の6章の終わりのところにも23節にも「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから。兄弟たちにあるように」とあり、そのどちらにも「平和」という言葉が書き記されていることに気がつきました、とある方が言われました。初めと終わりに共通した「平和」の挨拶に始まり「平和」への祈りで閉じられるこのエフェソの信徒への手紙の中心的なテーマは、この語りかけられている「平和」にあるということができるでしょう。                                 
平和といえば地上で戦争が行われていない状態がまず思い浮かびますが。以前にもお話したように、平和はギリシャ語でエイレネー、ヘブル語でシャロームですが。それは神との壊れた関係性、人と人との平和の回復を意味します。地上の平和と祝福は全てそこから回復されるのです。創造主である神がご自分にかたどってお造りになったのが本来の人であり、神の似姿として人は造られたのです。神は人とともにおられ、人は平和・平安、シャロームのうちに生きていました。ところが、創世記3章にありますように、最初の人アダムとエバは神の前から身を隠しました。これを聖書では罪、神に対して的外れの状態を表すのです。それは、神が「それをしてはならない。すれば死ぬことになるから」とおっしゃたことをしてしまったからです。神の愛と信頼の関係をアダムとエバは損なったのです。罪を犯すと人は神の前に出ることができなくなるのです。神との関係性が壊れていますので、アダムとエバのうちには平安がなく、たえず神の前から隠れ、自分の都合の悪いことは誤魔化したり人のせいにしました。しかしそれは人、誰もが抱えている性質なのであります。「あなたはどこにいるのか」と呼びかけられる神。その愛に背き続けて神の前から身を隠し、自分の都合の悪いことは誤魔化そうとする。その心には絶えず不安や恐れがつきまとい平安がありません。平和が損なわれているのです。この神さまとの信頼回復こそが真の平安をもたらすのです。神さまが自分の何もかもをご存じであるということが、呪いではなく、希望の喜びとなるのです。それはどんなに幸いなことでしょうか。                   
                                                            さて、今日の箇所の小見出しに「悪と戦え」とつけられていますが。悪と戦うことによって神さまとの平和、平安をいただくことができるというその意味をご一緒に読み取っていきたいと思います。
まずパウロは11-12節で次のように書き記しています。「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」            
 この「悪と戦え」とは、悪いものに対して力によって戦い挑めとか、正義を振りかざし力づくで屈服させるということではありません。敵対心、憎悪、恨みといった血肉の戦いは暴力や暴言となります。それを受けた人は恨みや憎しみの感情をもち悪循環の連鎖が起こっていきます。戦争や民族紛争はそうして血肉の連鎖による分裂と分断を生じさせているのです。悪魔の作略とはまさに人間同士を血肉の争いによって分裂させ、破壊することにあります。
パウロは「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではない」と言い、13節で「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」と勧めます。                         悪魔の策略に対抗して神の前に生きるための秘策、その神の武具とは「真理の帯」「正義の胸当て」「平和の福音を告げる準備の履物」「信仰の盾」「救いの兜」、そして「霊の剣・神の言葉」です。       

「真理」とは、人となり世に現れて下さった神の子キリスト、キリストによって現された神の愛と救いの福音です。それをしっかりと腰に巻く。どんな時も帯のように身に結びつけていることが肝心なのです。                 
 次の「胸当て」ですが。命と直結する心臓や内臓を守るための護身用の装具のことです。そして正義はキリストが十字架の贖いによって現わされた神さまの正しさ、義を示します。この正義の胸当てで覆い保護すれば、どんな悪の策略による攻撃にあっても身を守ることができます。神の義、正しさこそ人を守り生かし得る命の武具なのです。
 次いで「平和の福音を告げる準備の履物」ですが。「平和の福音」は十字架を通して拓かれた神との和解、人と人との和解の道です。それが平和の福音です。神の前から身を隠すほかないような罪深い人間、滅ぶほかないような人間の罪の裁きを神の御子が身代わりになって完全に贖い、神と私たちの分裂し壊れた関係性を修復してくださったそのキリストの平和の福音です。この和解は人と人との和解をもたらします。人間関係の敵対や憎悪をもしずめ、ともに神の平和の道を歩む履物として、内に外に起こる悪との戦いに臨むのです。
 そして「信仰の盾」ですが。ローマ兵は長方形の大きな盾を使いました。信仰は神の愛と救いの力に頼り切ることです。それを盾として手に取るなら、たとえ悪魔的な火のついた矢が飛んできたとしてもそれを消すことができます。      
 「救いの兜」とは、ローマ兵は戦いの折に青銅製の「兜」被って、頭部を保護したのですが。信仰者がキリストによって実現された神の救いを確信し続けることの大切さが言い表されているように思えます。
  以上「神の武具」の5点はすべて身を守る護身用のものでありますが、最後の「霊の剣」は武器であります。武器と言っても武力や暴力ではありません。ローマ兵は戦いの折に鋭利な両刃の短刀を用いたようですが。パウロは悪の諸霊、悪魔との戦いにおいては「霊の剣」、すなわち「神の言葉」を武器として取りなさいと言っているのです。それは何か神の言葉を自分の都合のいいように利用したり、又神の言葉で相手をやり込めることとは違います。私たちの日常においても様々な戦いともいえる出来事が起こってまいりますが。その中で、私たちは御言葉をもって語りかけて下さる主の御心に生き、悪の力とその策略に抵抗するようにとの勧めです。                       
以上が、信仰者の霊的戦いに必要な「神の武具を身に着けなさい」というパウロの勧めでありますが、それで話は終わっていません。                                        

霊的な戦いは祈りの戦いでもあることが次に語られています。          18節「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とあります。祈りは自分の霊性、信仰の灯をともし続けていくうえで重要なのです。祈り求める者に聖霊は霊の油を注いでくださいます。それはまた、隣人や同胞、あるいは今助けを必要としている人、又人間関係性が損なわれているその回復のために覚えて祈る、とりなしの祈りでもあります。         

19節で、「また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのために祈ってください」と、パウロ自らとりなしの祈りをエフェソの信徒たちにリクエストしていますが。私たちは、自分のために神に祈ってくださいとお願いし合えるような関係があるでしょうか。どこか遠慮しているような面がないでしょうか。主に期待している信仰者同士、互いに祈り合い、とりなしあえることは恵みであり、幸いなことです。さらに私たちそれぞれが開かれ、そのような関係性を築いていけるよう願い祈ります。 
                                                             最後に、パウロは自分の使命が「福音の神秘を大胆に示す」ことであり、そのために自分は鎖につながれていると言っています。                  パウロはたとえ獄中にあっても、自分に与えられた福音の使命をしっかり持っていたのです。自由が制限された環境の中でも、パウロはキリストに捕らえられた僕として福音を伝えずにはおれなかったのです。その魂は決して暗闇の力に支配されることはなかったのでしょう。エフェソの信徒への手紙で語られている「キリストの平和の福音」、それはパウロが書いたエフェソの信徒たちへの手紙の結びの挨拶の言葉に、集約、結実されています。                           23節「平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように。」                        

私たちも又、この地上、世にあって様々な戦いの日々はありますが、神の武具を身に着けて、キリストの勝利に与り、神の愛に生きてまいりましょう。        主イエスはおっしゃいました。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは、世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
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