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「金持ちとラザロ」のたとえ

2012-02-05 17:49:11 | メッセージ
宣教 ルカ16章19~31節 

本日はルカ16章より「金持ちとラザロ」のたとえ話から、御言葉を聞いていきます。
このたとえ話は、14節にありますように、「金に執着するファリサイ派の人々」に対して語られたものです。彼らファリサイ派の人々は律法を守ってきたことを誇り、自分たちの富や財産を「神に忠実に仕えてきたことに対する当然の報酬」のように考えていたのです。彼らはイエスさまがおっしゃった「あなた方は、神と富とに仕えることはできない」との言葉をあざ笑いました。主の御言葉と教えに従い生きること。奉仕すること。これらは信仰から来る恵みであり、感謝のしるしであります。しかしそれがいつの間にか、自分はこれだけ神のため、又、人のために奉仕をしているのにと、高慢になり、いつしか人を裁くようになっていったファリサイ派の人たちや律法学者たち。遂には、神からこれだけの報いがあって然るべき、とばかりに金に執着する人たちがいたということです。
今日はそんな彼らに対して語られたイエスさまのたとえに耳を傾け、キリスト者であっても陥りかねない囚われからの解放のメッセージとして受け取っていきたいと思います。

それでは、イエスさまのたとえを丁寧に読んでいきましょう。
19節「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた」。この金持ちは、高価な紫の衣や柔らかい麻布を身につけ、自分の富、財産、名誉を着飾っていたのです。そして彼は自分の所有している地上の富を、ただ「ぜいたく」に「自分の楽しみ」だけのために用いていました。聖書は「富」や「財産」を持つことについて、悪だとしたり、非難したりしていません。それどころか旧約聖書(特に申命記)では「富」や「財産」を得ることは神にあって良いもの、祝福とみなしています。富や財産は神からの賜物。しかし、だからこそ、それらの管理を託され、任されている者。それを如何に用いていくか。そのことが問われているのです。
富や財産に執着する者。別の言い方をすれば、その使い道が私欲を満たすためのものなら、どんなに神の教えをそらんじることができたとしても、神の御心や信仰を見出しているとは言えないでしょう。なぜなら、律法の要は「神を愛し、その御心を行うことであり、自分自身のように隣人を愛する」ことだからです。お金や財産をどう管理し用いていくかという問題も、そこから考え行動するように信仰者は問われているのです。

イエスさまはここで、神からの賜物、恵みである富や財産を、我が物のようにただ己の欲望を満たすために消耗し、使っていたファリサイ派の人々の行く末に警告を発します。
同じルカ福音書12章13節以降のところには、イエスさまの「愚かな金持ち」のたとえが記されています。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは大きな蔵を建てなおし、全部しまい込んで『さあ、これから何年も生きていく蓄えができたぞ。ひと休みして食べたり飲んだりして楽しめ』。しかし神は『愚かな者よ、今夜おまえの命は取りあげられる。おまえの用意したものは一体だれのものになるのか』」。イエスさまは言われます。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

限りある人生において、私たちは豊かさをどこに見出しているでしょう。
さて、20節、今日登場する「金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来てはそのできものをなめた」とあります。
この金持ちは門前にラザロがいたのに気づかなかったはずありません。見て見ぬ振りをして放置し、関ろうとしなかったのです。できものだらけの貧しいラザロが門前に横たわっているのに、この金持ちは全く無関心であったのです。ここに犬がラザロのもとにやって来たとあります。この犬というのは先の放蕩息子のたとえで出てくる豚と並んでユダヤ人にとって汚れた動物と見なされ嫌われていたのですが。金持ちは門前のラザロのもとにもやって来ることはなかったのに、その犬はラザロのもとにやって来て、彼のできものをなめて慰めたというのです。

22、23節「やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」。
死んでからは、貧しさのゆえに多くの辛苦をなめたラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」、天の食卓にアブラハムと共に与ることができます。ところが、金持ちは多分盛大な葬式まで営まれたであろうにも拘わらず、アブラハムと共なる宴席にではなく、何と、「陰府の炎の中でもだえ苦しむ」のです。
24節、金持ちは、大声で「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」と訴え、懇願します。ここに至って両者の立場が逆転するのです。
アブラハムは25、26節「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」。金持ちの訴えは退けられます。

イエスさまはこのたとえで、この地上で富み裕福に生活を送った者の死後に必ず苦しい報いが来るとか、逆に地上で貧しく苦しい生活を送った者の死後に必ず安楽な報いが約束されているというようなことを説いているのではありません。

ここに「この金持ちは生きている間は良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた」とあります。それは、両者の置かれていた境遇を直接的には指しているといえます。けれども、この良い、又、悪い状況は何か宿命的なもの、絶対的なものでありません。神さまはそれらを人間に与えながら、如何にそこで人間が生きるかを見極め、導かれるのであります。私たちは自分の生れた国、その境遇、家族を選ぶことができません。
例えば、世界には一部の富む国と多くの貧しい国があります。しかし、それを私たちは自分で選んで生まれて来たのではありません。私がどこに生まれ、どういう環境で育ち、今何を与えられているか。すべては主の御手のうちにおかれています。そこで、主を知る者は「如何に主のみ心に従って生きるか」。それが肝心なのだ、と聖書は語ります。

本日のイエスさまのたとえは、少なからず「良いもの」を与えられた者へのメッセージです。「良いもの」とは、富や財産、健康、又、広義で「幸せ」や「平和」といえましょう。たとえのなかで、貧しきラザロが一言も語らず、金持ちとアブラハムとの対話がなされているのも、神から良いものを与えられた者の側に向けた勧めと促しである事が分かります。

26節に、アブラハムが「わたしとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」とあります。それはどこか決定的な審判のように強く響いてきます。
が、しかしこれはたとえ話であります。金持ちとラザロとの間にある大きな淵、深淵。
その言わんとしている事、それは「交わりの断絶」であります。隣人との交わりの断絶、そして神との交わりの断絶です。ですから、イエスさまはこのたとえを聞く者に向かって「命ある今、あなたの傍らにいる貧しい隣人ラザロを、アブラハムの子、兄弟として迎え入れていくように」と勧め、促しておられるのです。

さて、炎の中で、もだえ苦しむ金持ちは、「せめて自分の兄弟の5人が、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」と、アブラハムに懇願します。
それに対してアブラハムは、「お前の兄弟たちにはモーセと預言者とがいる。彼らに耳を傾けるがよい」と答えます。

このところを読みますと、この金持ちも、まあ兄弟のことを心配しているので、アブラハムからもう少し慈悲深い返事が返ってきてもよいのではなどと思えたりもしますが。
事はそういう次元ではないのです。「モーセと預言者」の言葉である聖書。その神の言葉である聖書を通して、「あなたはこの地上において、如何に生きるべきかもう十分語っているではないか。それ以上のことを伝える必要はない」ということです。

金持ちはくいさがって、「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれか兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と訴えます。
それに対してアブラハムは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と、答えたというのです。

ファリサイ派の人々はしるしや奇跡を求め強調し、又、死者の復活を信じていた人たちです。イエスさまは、その彼らに対して、「聖書によって示されている神の言葉に耳を傾けようとしない者は、たとい死者の中から生き返る者の言葉を聞いても、悔い改めることはない」と、おっしゃっているのです。
主は私たちに必要なすべてを、御言葉(聖書)のなかに備えておられます。
そしてその教えは、どこをとっても「神の愛と隣人愛に生きる」ことを示しています。
私たちはイエスさまを通して、神との交わりの断絶を解かれる悔い改めへと招かれました。又、隣人との交わりの断絶をも解かれる道へと招かれています。この悔い改めは「隣人への憐れみと施し」へとつながっていきます。同じルカ福音書20章では、イエスさまを迎え、悔い改めた徴税人のザアカイは「自分の財産の半分を貧しい人々に施しました」。「今日救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから」。「神の国は、実にあなたがたの間にある」とイエスさまがおっしゃっているように、真御言に聞き従って生きていく時、まさにこの神と人との間に、人と人の間に和解が起こされていくのです。

イエスさまはこのたとえを通して、金に執着していたファリサイ派の人々に向け、「あなたがたのなすべきことは、新しいことではなく、すでにモーセ(律法)と預言者から聞いているとおりである。それはまさに「神を愛し、自分自身のように隣人を愛する」ということに尽きる」と、お示しになられました。

生かされ、与えられている「今」。私たち一人ひとりは、その与えられている「良いもの」をそばにいる隣人、又、助けを必要としている人を活かすために用い、使うように招かれています。神の前に豊かに生きる人生。それは、神と人、人と人をつなぐ真に豊かな人生であります。与えられている「良いもの」を主に感謝し、喜びをもって捧げ、今必要としている人のために、活かして用いていきましょう。主の栄光のために。
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