主日礼拝 テサロニケ二2・1-17
今年はまだ梅雨明け宣言が出されていません。温暖化による気候変動や自然界の厳しい状況を見せられるとき、聖書の「全被造物のうめきの中にあって、神の子の出現を待ち望んでいる」(ローマ8章)とのお言葉が胸に迫ってまいります。水害で被災された方々がおられます。又、このコロナ禍の状況がございます。引き続き祈りつつ、どうか主が日々を守り、導いて下さいますよう願います。
本日はテサロニケ二2章から御言葉を聞いていきたいと思います。
本日の箇所も先週に引き続き「終末における主の来臨」に対して、クリスチャンは如何に生きるかという事を説いていますが。
パウロはまずテサロニケの信徒たちに対して、次のように述べます。
「兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。」
それは、パウロが先のテサロニケ一4章13節以降において「主が来られる」ことについて述べているように、主イエスが来られる時、既に眠りについたクリスチャンたちと、又地上に残された主を信じて生きるクリスチャンたちは、主の御前に集められ、共に引き上げられるという希望であります。
けれどもパウロは、そのことについてテサロニケの信徒たちに念を押してお願いします。
「霊や言葉によって、あるいは、わたしから書き送られたという手紙によって、主の日が既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」と。
テサロニケの教会の信徒の一部には、「主の日がすでに来てしまったかのように」言いふらす者がおり、それを聞いた人の中には「では今現在の信仰の目的は何なのか?」「どこに希望をおいて信仰生活をなしていったらよいのか?」と、思い悩む人々が出てきたのでしょう。
パウロはそのことで、あなたがたは「すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい」と訴えます。
マタイ福音書24章で、イエスさまは「その日。その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父(の神)だけがご存じである」(36節)と言われ、更に「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ(救世主だ)』と言って、多くの人を惑わすだろう」と、おっしゃっておられます。
まあ、近年においてもキリスト教と称する教団で、主の再臨は何年何月何日だと熱狂的に訴えるが、結局「主の再臨」は起こらず、世間を騒がせて批判をあびるといったことが幾度もありました。まあ、私たちもそのような偽りの教えや言葉にだまされないようにしなければなりません。
パウロは「主の日」「主の来臨」の前兆として、「神に対する反逆」が起こり、「不法の者」、つまり、「滅びの子」が出現すると述べます。
世の中が終末的様相を呈してきますと、その不安や恐れを悪用して神の愛とキリストの救いの福音から引き離そうとする反キリスト的勢力の働きがより活発になってくるということです。
そうして主を信じて生きる信徒たちをたくみにだまし、再び罪と滅びへ誘うというのです。ですから、パウロは「だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません」と、強く訴えます。それだけ主の日、主の来臨については多くの人がだまされやすいからです。大切なのは、神の愛にとどまりつつ、主の日に向けた私たちの生き方そのものです。
今一度、「主イエスが来られる時、既に眠りについたクリスチャンたちと、又地上に残された主を信じて生きるクリスチャンたちは、主の御前に集められ、共に引き上げられるという希望」をしっかり保ちつつ、どのようなときも主イエス・キリストにあって霊的に目を覚まし、日々主と向き合って生きる信仰の歩みを大切にしてまいりましょう。
ところで、4節に「この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、遂には神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです」とありますが。ダニエル書11章には「あの王はほしいままにふるまい、いよいよ驕り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向かって恐るべきことを口にし、怒りの時が終わるまで栄え続ける」と、預言されています。
まあ、この王は紀元前2世紀にエルサレム神殿を踏み荒らしたシリアの王アンティオコス・エピファネスのことだろうとか。あるいはパウロの時代のローマ帝国の皇帝カリグラだとも言われていますが。
ただ、ここでの神に対する反逆(アポスタシア)という用語は、元々は軍隊の司令官が国を捨てて相手側につく行為から生まれたものだそうです。
4節のこの「すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗し」とは、もともと神に仕えていた者が神を裏切り、神に反抗する勢力、反キリストとなって人々を惑わし、神の愛から引き離そうとする力として働いているということです。
パウロはそれを「暗闇の世界の支配者」とエフェソ6章12節で述べていますが。聖書の記述によれば、サタンは元来天使の頭でしたが、神の栄光を奪って自分が神になろうとしたため神の怒りを招いて、天から地に落とされたのです。
しかしそんな高慢も悪も全能なる神の前では打ち砕かれてしまいます。
イエスさまは「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた」(ルカ10章18節)と言われました。
サタンの働きはやがて訪れる終わりのときまで今なお人を神から引き離そうとそそのかし続けています。
こうした反キリストの勢力、神に仕えていた者が神に反逆し、神に反抗して神のように君臨するような反キリストの働きは一時代に限ることではなく、どの時代にあっても日常的に起こり続けています。
しかし、パウロは確信をもって語ります。主が来られる時、8節「その時が来ると。不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。」
主イエスの口から吐く息、これは神の御言葉を示しています。神の全き御言葉の前に悪は立ちえません。主イエスは神の生ける言、真理そのものであり、地上におられた時には御言葉によって病人をいやし、嵐を沈め、死人をよみがえらせ、サタンを退けられました。主の御言葉には圧倒的な力があります。その力はギリシャ語でデュナミス、ダイナマイトの語源となった言葉なのです。ですから、私たちは聖書の言葉、主イエスの福音の言葉を正しい手引きのもとによく読み、世を惑わす暗闇の世界の支配者の企てに対して、御言葉の武具をつけ、主の信仰を歩み続けることが大切です。
9-10節に、「不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業を行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅ぼしていく人々を欺くのです。彼らが滅ぼされるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです」
とあります。
主を信じてクリスチャンとなった者にとって、その信仰生活や祈りの日々を通して、主の導きや支え、守りを幾度も経験させて頂けること、これは本当に恵みであります。
主は生きてお働きくださるのですから、しるしも与えてくださるし、いやしなどの体験も与えてくださることもございます。しかし一方で、どんなに祈っても叶えられないこともあります。よかれと思ったのに自分の願い通りに行かないこともあるでしょう。
しかし、確かに主は祈りを聞いておられ、すべてを知っておられます。困難の中でなお主と向き合い、祈り、信頼していく神との生きた関係。そこに神の恵みと平安が確かにあります。
一方、不法の者、サタンの企ては、私たち信仰者が主に信頼して従うことよりも、目先の利益や奇跡やしるし、願望を叶える不思議な業が表されることを巧みに強調して、真の救いの神から引き離そうとしていくのです。
信仰も生活もどうもうまくいかなくなり、落ち込むようなときに、しるしや不思議な力や奇跡のことを吹き込まれ、神との祈りや御言葉による対話よりも、目に見える現象に心奪われますと大変危険です。
キリストにある信仰は、技や力そのものにより頼むのではなく、天地万物の創造主である神を信じ、全人類の罪を贖われた御子イエス・キリストに信頼する信仰です。そこに私たちもたち続けてまいりましょう。
さて、本日の箇所は13節以降、そのような信仰者に向けた大きな希望のメッセージとなっています。
それは、主イエス・キリストを信じる者に与えられる救いの恵みとキリストの栄光
についてであります。
まず、救いの恵みについてでありますが。
13節を口語訳聖書の方、主語がはっきりしているのでそちらでお読みします。
「神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救いを得させようとされた」ということであります。
つまり、わたしたちが救われ、クリスチャンとなり、信仰の闘いと証しを立てているのは、なんと実に初めから神さまの選びによるものであったということです。
それはヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と、あるとおりです。
パウロはエフェソ1章4節で、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」といっています。正に神の御計画、救いの摂理の底知れない恵みを感じるわけですが。
この彼らテサロニケの信徒たちの御救いは、「聖霊のきよめと真理に対する信仰」に証明されたものでした。
この福音は、神さまによる福音であって人が作り出したものではありません。
聖書の神について、所詮人間の知識や能力によって作られた神にすぎないという方が世にはおられかも知れませんが。天地万物の創造し、人に命を与え、生かしたもう神さまなのです。「人が作った神」と「人を造られた神」との違いは天と地の違いです。
その神さまの御救い、福音も又、まず神さま救いの選びが先にある。決して人が作ったものではありません。そこのところをはき違えると、全然神の福音やその救いと異なる道へ迷い込んでしまいかねません。
さらにパウロはキリストの栄光について14節、これも口語訳でお読みします。
「(神は)福音により、あなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるのである」と語ります。
まさに主の御救いに与ったクリスチャンは、主イエス・キリストの栄光に与る者とされているのです。それは先週申し上げましたように、私たちの人生の目的は、神の偉大な作品として造られた私たちが生涯を通して神の栄光を現すことにあります。
そうしてパウロは15節で「兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」と語ります。
先ほどから申していますように、この当時から偽使徒やその手紙が横行して、教会内がかき乱されるようなことがあった。
こうした事態を知ったうえで、真の神とその主イエス・キリストの救いの福音を正しく受け取り、固く守っていくことの大切さをパウロは教えているのです。
人が勝手にその福音を曲げてしまうことがあってはいけません。ですから、礼拝で共に御言葉に聴いていくとき、又、祈祷会で共に聖書を開いて学び合い、祈り合うときというのは私どもにとりましてほんとうに大切なのです。
16-17節、これはわたしたちにもパウロが祈っている言葉としてお聞きください。
「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも良い働きをし、良い言葉を語る者としてくださるように。」
先月より、テサロニケの教会の信徒たちに対するパウロの感謝と励まし、そして主の来臨に向けた信仰者の生き方に聴いてきました。
主の日が近づくしるしとして、多くの人の愛は冷めると、イエスさまはおっしゃいました。
ヨハネ福音書15章16節以降のイエスさまのお言葉を読んで、本日の宣教を閉じます。
祈ります。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」
この終末の時代において、本日のお奨めの御言葉に聴き、神の栄光を現すものとされてまいりましょう。
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