宣教 創世記1章1~3節、26節~31節
これから3カ月の予定で創世記からみ言葉を聞いてまいります。
科学者によれば、「150億年前の宇宙の誕生から今日までを1年として見るなら、宇宙カレンダーという概念では、人類の歴史は12月31日の最後の10秒に過ぎない」ということです。これは如何に人間の歴史や個々の人生の時間が宇宙的にみれば微々たるものであるかということ。創世記が神の天地創造完成までに6日かかったというのも不思議で興味深いことであります。その1日のもっている意味は宇宙カレンダーでは計りがたい「神の時」という暦の中での創造であったことでしょう。新約聖書のペトロ第二の手紙3章8節にも「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されている通りです。そのように私どもの命や人生は実に限られたものであります。しかしながら、この宇宙全体から見れば極々限られた時間、小さな人の命を神は祝福されたと聖書は記しているのです。
① 初めに
ユダヤ教の正典でありますヘブライ語の旧約聖書は、創世記に「ベレーシート」というタイトルがつけられています。それは1章1節の「初めに神は天と地を創造された」とあるこの「初めに(ベレーシート)」という言葉から取られたものだということであります。
では、なぜユダヤの人々は「初めに」(ベレーシート)ということにこだわったのでしょう。そもそもユダヤ教の正典であるヘブル語訳旧約聖書は、紀元前6世紀頃、バビロニア帝国に敗れ捕囚のとなった人びとによって編纂されたものです。
2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と記されています。これはエルサレムが滅び、国を奪われ、家族も財産も失い、イスラエルの民もバビロンの捕囚として散らされしてしまうというまさに混沌とした中、又先の見えない闇のような中でなされた労作でした。「神はどこにおられるのか?」「救いはどこにあるのか?」「私たちは一体何者なのか?」「何のために生きているのか?」というような問いの中で創世記は編纂されていったということです。それは今一度自分たちのアイデンティティー、自分が何もので、何によって立っているのかという存在そのものの意味を確認する作業であり、人として最も根源的な問いに対する答えを模索していく作業であったのです。
私たちはそれぞれの人生の歩みの中で、「初心に帰るとか」「ふりだしに戻ってとか」「ゼロから再出発」という事を口にすることがあります。物事が順調にいっている時は、そんなことを考えることもありませんが。何かが崩れてしまった時、何かを失った時、行き詰まった時、先の見通しがつかなくなった時、そして悲しみの中で、苦しみの中で、「初め」のことに思いを馳せることがあります。混沌とした状況、先の見えない闇の中におかれた状況のもとで、「初めに」ということを意識する時、人は今一度、生きる力を取戻すことが出来るでしょう。
さて、同じ2節に「神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった」と記されています。ここに実は人間の最も深いところで与えられた答えがあるのです。
ユダヤの人びとにとって、国が滅び、民族が離散してバラバラになり、すべてがゼロになってしまったと思えるような状況で、しかし、神は滅ぶままにはなさらない。水もまた混沌を意味する言葉でありますが、神がその水のうえを覆いかぶさるようにして滅びの勢いをせき止められて、光をお造りになって闇を照らし出される。そこに希望の「光」が示されています。4節を読むと、「神が光と闇を分けられた」との記載がありますが。これは、神が「もはやここまで、これ以上は闇の勢力が及ぶことを許されない」ようにされたということであります。創世記は「初めに」ということを大事にしているということを申しあげましたが。「初めに、神が天地万物を創造された」。そこにすべての始まり、根源があると聖書は語りかけています。混沌とした、闇が深淵の面にあるような中に、「光あれ」と言葉を発し、世界を新しく創造される方がおられる。み手のみ業が織り成される。これが聖書全体を貫く希望のメッセージとして、まず聖書の一番初めに示されているのであります。
今、日本はあの未曾有の震災による災害と、現実とは思い難い原発事故の危機を前にして、文明の力、経済力、人間の知恵や知識ももはや及びもつかないような状況にあります。あのどこまでも続く膨大な瓦礫の山と、建屋が吹っ飛び無残な姿で放射能をまき散らす原発の姿。あれを混沌と言わずして何でありましょう。
「長い歴史を経て、人間世界の発展と繁栄によってこれらの自然災害に打ち勝つ防具を手に入れたものの、時代はまわります。今度は、薬品や核物質、電磁波等等、人間の営みが生み出したある意味での「地の産物」に人間が支配され、振り回され、命が脅かされる時代となってしまいました。私たちは再び、本当の意味で「地を治める」ことを真剣に求める時代を迎えているのだと思います。」(聖書教育4~6月号 P.87引用)
今、日本に住む多くの人々も又、このような事態の中で、「人は一体何ものなのか?」「何のために存在するのか?」というような根源的な問いかけに対する答えを暗中模索しているのではないでしょうか。
水曜日の祈祷会に、元教会員の姉が出席されました。京都に用事があったそうですが、大阪教会の皆さんに震災の被災地石巻へ救援物資を送って戴いたお礼が言いたいということで立ち寄られました。皆様に宜しくお伝えくださいということでした。そしてこの創世記の箇所と震災に遭遇された自らの体験を重ね合わせながら、姉は「神さまが人を造られたのは、人が生きるように造られた」。「生きよ」。それが人の本能であり、それを「実感」したとおっしゃっていました。とても重たい言葉でありますが、被災地の人たちが真に生きようとしている思いと姿が伝わってきました。
今日の世界情勢や日本の状況を見ますと、先行きが見通せない、又いつ何が起こるか分からないといった不安と恐れに覆われた時代であることを私たちはそれぞれに実感しながら過ごしているのではないでしょうか。確かに聖書は終末について触れております。しかしそれは、映画や小説にあるような世界の滅亡といった世の終わりのことではありません。それは様々な多くの試練や苦難を経ながらもなおも、その究極には、「神は見捨てられない」「どこまでも共におられる」との命の初めである方への確信と平安がある。聖書が示すのは、終末の恐怖ではなく、終末の「希望」であります。真の創造主を知り、救いの約束を胸に、主と共に在る掛け替えのない命の日々を、やがて地上の歩みを終える日が訪れても、それは主と相見える喜びの始まりの日であるのです。だからこそ、私たちの「初め」なる真の創造主を知り、信じて生きる者は、この地上にある限り、創造主のみ思いに応えて精一杯「生きる」のであります。
②神の創造世界と人間
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。」(26~27節)
ここには私たち人間は神に似せて造られたというまことに驚くべきこと、畏れ多いことが書かれています。この神はヘブライ語で「エル・ヒム」と「我々」と複数形で表されております。それを聞きますと「神は唯一というのに他にも多くの神々がいるとか」「八百万の神々」というようなものを連想されるかも知れません。そういうことではないのです。それは、世界中には今や80億以上ですか、どれくらいの人がおられるのか正確には分かりませんが。天地創造の神は、実にその一人ひとりを掛け替えのない存在として、生きた交わりを持たれる神であられる。その一人ひとりの神として存在なさるお方であられるということであります。だからこそ、その一人ひとりは本当に尊い存在であり、その人がその人として創造されたまさに「神の作品」であるということであります。ですから、聖書はそのわたしに、あなたに、掛け替えのないその命と与えられた時を、「生きよ」とエールを送っているのであります。
神の似姿として創造された私たちは今一度、本当に人間らしい生き方とはどのようなものか、ということを創造主の御前にあって、「初めに立ち帰り」それを「再び見出していく者」とならねばなりません。
これから3カ月の予定で創世記からみ言葉を聞いてまいります。
科学者によれば、「150億年前の宇宙の誕生から今日までを1年として見るなら、宇宙カレンダーという概念では、人類の歴史は12月31日の最後の10秒に過ぎない」ということです。これは如何に人間の歴史や個々の人生の時間が宇宙的にみれば微々たるものであるかということ。創世記が神の天地創造完成までに6日かかったというのも不思議で興味深いことであります。その1日のもっている意味は宇宙カレンダーでは計りがたい「神の時」という暦の中での創造であったことでしょう。新約聖書のペトロ第二の手紙3章8節にも「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」と記されている通りです。そのように私どもの命や人生は実に限られたものであります。しかしながら、この宇宙全体から見れば極々限られた時間、小さな人の命を神は祝福されたと聖書は記しているのです。
① 初めに
ユダヤ教の正典でありますヘブライ語の旧約聖書は、創世記に「ベレーシート」というタイトルがつけられています。それは1章1節の「初めに神は天と地を創造された」とあるこの「初めに(ベレーシート)」という言葉から取られたものだということであります。
では、なぜユダヤの人々は「初めに」(ベレーシート)ということにこだわったのでしょう。そもそもユダヤ教の正典であるヘブル語訳旧約聖書は、紀元前6世紀頃、バビロニア帝国に敗れ捕囚のとなった人びとによって編纂されたものです。
2節に「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」と記されています。これはエルサレムが滅び、国を奪われ、家族も財産も失い、イスラエルの民もバビロンの捕囚として散らされしてしまうというまさに混沌とした中、又先の見えない闇のような中でなされた労作でした。「神はどこにおられるのか?」「救いはどこにあるのか?」「私たちは一体何者なのか?」「何のために生きているのか?」というような問いの中で創世記は編纂されていったということです。それは今一度自分たちのアイデンティティー、自分が何もので、何によって立っているのかという存在そのものの意味を確認する作業であり、人として最も根源的な問いに対する答えを模索していく作業であったのです。
私たちはそれぞれの人生の歩みの中で、「初心に帰るとか」「ふりだしに戻ってとか」「ゼロから再出発」という事を口にすることがあります。物事が順調にいっている時は、そんなことを考えることもありませんが。何かが崩れてしまった時、何かを失った時、行き詰まった時、先の見通しがつかなくなった時、そして悲しみの中で、苦しみの中で、「初め」のことに思いを馳せることがあります。混沌とした状況、先の見えない闇の中におかれた状況のもとで、「初めに」ということを意識する時、人は今一度、生きる力を取戻すことが出来るでしょう。
さて、同じ2節に「神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして、光があった」と記されています。ここに実は人間の最も深いところで与えられた答えがあるのです。
ユダヤの人びとにとって、国が滅び、民族が離散してバラバラになり、すべてがゼロになってしまったと思えるような状況で、しかし、神は滅ぶままにはなさらない。水もまた混沌を意味する言葉でありますが、神がその水のうえを覆いかぶさるようにして滅びの勢いをせき止められて、光をお造りになって闇を照らし出される。そこに希望の「光」が示されています。4節を読むと、「神が光と闇を分けられた」との記載がありますが。これは、神が「もはやここまで、これ以上は闇の勢力が及ぶことを許されない」ようにされたということであります。創世記は「初めに」ということを大事にしているということを申しあげましたが。「初めに、神が天地万物を創造された」。そこにすべての始まり、根源があると聖書は語りかけています。混沌とした、闇が深淵の面にあるような中に、「光あれ」と言葉を発し、世界を新しく創造される方がおられる。み手のみ業が織り成される。これが聖書全体を貫く希望のメッセージとして、まず聖書の一番初めに示されているのであります。
今、日本はあの未曾有の震災による災害と、現実とは思い難い原発事故の危機を前にして、文明の力、経済力、人間の知恵や知識ももはや及びもつかないような状況にあります。あのどこまでも続く膨大な瓦礫の山と、建屋が吹っ飛び無残な姿で放射能をまき散らす原発の姿。あれを混沌と言わずして何でありましょう。
「長い歴史を経て、人間世界の発展と繁栄によってこれらの自然災害に打ち勝つ防具を手に入れたものの、時代はまわります。今度は、薬品や核物質、電磁波等等、人間の営みが生み出したある意味での「地の産物」に人間が支配され、振り回され、命が脅かされる時代となってしまいました。私たちは再び、本当の意味で「地を治める」ことを真剣に求める時代を迎えているのだと思います。」(聖書教育4~6月号 P.87引用)
今、日本に住む多くの人々も又、このような事態の中で、「人は一体何ものなのか?」「何のために存在するのか?」というような根源的な問いかけに対する答えを暗中模索しているのではないでしょうか。
水曜日の祈祷会に、元教会員の姉が出席されました。京都に用事があったそうですが、大阪教会の皆さんに震災の被災地石巻へ救援物資を送って戴いたお礼が言いたいということで立ち寄られました。皆様に宜しくお伝えくださいということでした。そしてこの創世記の箇所と震災に遭遇された自らの体験を重ね合わせながら、姉は「神さまが人を造られたのは、人が生きるように造られた」。「生きよ」。それが人の本能であり、それを「実感」したとおっしゃっていました。とても重たい言葉でありますが、被災地の人たちが真に生きようとしている思いと姿が伝わってきました。
今日の世界情勢や日本の状況を見ますと、先行きが見通せない、又いつ何が起こるか分からないといった不安と恐れに覆われた時代であることを私たちはそれぞれに実感しながら過ごしているのではないでしょうか。確かに聖書は終末について触れております。しかしそれは、映画や小説にあるような世界の滅亡といった世の終わりのことではありません。それは様々な多くの試練や苦難を経ながらもなおも、その究極には、「神は見捨てられない」「どこまでも共におられる」との命の初めである方への確信と平安がある。聖書が示すのは、終末の恐怖ではなく、終末の「希望」であります。真の創造主を知り、救いの約束を胸に、主と共に在る掛け替えのない命の日々を、やがて地上の歩みを終える日が訪れても、それは主と相見える喜びの始まりの日であるのです。だからこそ、私たちの「初め」なる真の創造主を知り、信じて生きる者は、この地上にある限り、創造主のみ思いに応えて精一杯「生きる」のであります。
②神の創造世界と人間
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。神は御自分にかたどって人を創造された。」(26~27節)
ここには私たち人間は神に似せて造られたというまことに驚くべきこと、畏れ多いことが書かれています。この神はヘブライ語で「エル・ヒム」と「我々」と複数形で表されております。それを聞きますと「神は唯一というのに他にも多くの神々がいるとか」「八百万の神々」というようなものを連想されるかも知れません。そういうことではないのです。それは、世界中には今や80億以上ですか、どれくらいの人がおられるのか正確には分かりませんが。天地創造の神は、実にその一人ひとりを掛け替えのない存在として、生きた交わりを持たれる神であられる。その一人ひとりの神として存在なさるお方であられるということであります。だからこそ、その一人ひとりは本当に尊い存在であり、その人がその人として創造されたまさに「神の作品」であるということであります。ですから、聖書はそのわたしに、あなたに、掛け替えのないその命と与えられた時を、「生きよ」とエールを送っているのであります。
神の似姿として創造された私たちは今一度、本当に人間らしい生き方とはどのようなものか、ということを創造主の御前にあって、「初めに立ち帰り」それを「再び見出していく者」とならねばなりません。
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