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神の恵みの約束

2019-05-12 15:18:27 | メッセージ

礼拝宣教「神の恵みの約束」ガラテヤ3章1-14節、26-29節                              

 

先週は「神の恵みを捨てないで」と題して、御言葉を聞きました。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

私たちクリスチャンは、キリストによる救いを、信仰もって受け入れることで救われているのでありますが。それはただ神の御恵みであり、恩寵というほかありません。ところがガラテアの教会では、律法を守らなければ救われない、割礼を受けなければ神の民とされない、そういう教えが入り込んで信徒を惑わせました。

残念なことにそれが主イエスの救いの福音をむしばんで、キリストのからだなる教会の中で分断を引き起こしていたのです。そのようなガラテアの信徒たちに対して、パウロは「神の恵みである福音の真理」救いはただ主イエスの十字架の贖いによって成し遂げられているというその神の恵みを無駄にしてはいけない、キリストの死を無意味にしてはならない、捨ててはならないと強く訴えたのであります。

今日の3章も、クリスチャンの救いは信仰によるものであることを、信仰の父祖であるアブラハムのエピソードを交えながら、パウロはこんこんと説いているのでありますが。

まず冒頭で「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と厳しい言葉がありますけれども。

それは、ガラテヤの信徒たちに対して愛をもって日々祈りとりなすパウロであったからこそ、本来の救いの喜びに立ち返ってほしいとの願いがこのような強い語調になったのでありましょう。

まあ私たちは自分の気づかなかった過ち、問題点を人から指摘された時、大概素直にありがとうなどとは思えないことのほうが多いのではないでしょうか。自分を守ろうとして言い訳したくなったり、余計なお世話だほっといてほしい、と思うことも時にはあるかもしれません。要(よう)は忠告が人からのものであるか、神からのものであるかを聞き分ける耳なのかなぁと思います。ガラテアの教会の人々には、パウロのこういった主のもとにある愛と祈りから出た𠮟咤激励を真摯に受け止め、キリストによる救いの信仰を再確認し、危機を免れる道が備えられていたのであります。 

さて、パウロはここでガラテヤの信徒たちに「あなた方が“霊”を受けたのは律法を行ったからか、福音を聞いて信じたからか」と問いただします。

聖霊はキリストの教会に注がれ、主の御心を実現したもう神の力であって、同時に私たちの救いの証印としておいで下さるお方でありますが。

すでに読んでまいりましたように、私たちは律法の行いによるのではなく、主イエスとその贖いの御業によって聖霊を受けています。それは信仰による神の驚くばかりの御恵みであります。

パウロはその恵みの確認のために、ここで旧約聖書の、信仰の父祖であるアブラハムを例に出します。「アブラハムは神を信じた。それによって彼は義とみとめられた」(創世記15章6節)。こどもがいなかったアブラハムは、いつも「こどもを私たちに授けてください」と、妻のサラと一緒にお祈りをしました。しかし一向にこどもは生まれません。そのうち二人はだんだんと年寄りとなり、もうこどものことなどすっかりあきらめてしまっていました。ところがある夜、アブラハムがお祈りをしようと戸の外に出た時のこと、空には満天の星が間近に輝いていました。その星を見つめていたアブラハムに神さまはこうおっしゃいました。「天を仰いで星を数えることができるなら数えてみなさい。」

まぁこの大阪の街では、夜空を見上げても三つか四つ、多い日も30くらいしか星を見つけることが出来ませんが、空気の澄んだ日に高い山に登って満天の星空を仰ぎますと、とても数えられませんね。神の創造の御業に畏敬の念を覚えるものですが。

神さまは、アブラハムを祝福して「あなたの子孫はあの星のように多くなる」と言われたのです。

アブラハムはその時100歳近かったし、サラも90歳でした。アブラハムは神さまに「冗談でしょう。そんなことあり得ません」とは言わず、彼は神さまがいわれた約束の言葉を聞いて、そのまま「信じた」のです。神さまは、このアブラハムの信仰を喜ばれ祝福されました。「アブラハムは神を信じた。それによって主は彼を義とみとめられた」のです。

パウロは7節以降でこう述べます。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

血筋によるのではなく、能力によるのでもなく、ただ信仰によって、私たちはアブラハムの子、その祝福にあずかる神の民とされているんですね。ここにおられるみなさんお一人お一人が、信仰によってあの時アブラハムが見上げた星の輝きなんですね。すばらしい神さまの恵みにただ感謝でありますが。

まあ「アブラハムの子」と言えば、その血肉の子孫であるイスラエル、ユダヤの人たちだということが常識としてあったわけですけれども。彼らは神さまがアブラハムと結んだ契約によってその祝福の民のしるしとして割礼を受けていました。

前々回からありますように、ユダヤ人でクリスチャンとなった人たちの中には「クリスチャンであっても割礼を受けなければ神の祝福を受け継ぐことは出来ない」「律法も守らなければいけない」という人たちがいて、その人たちがガラテヤの信徒たちを混乱させていたのです。

クリスチャンとなったにしても律法を守り、割礼を受けなければアブラハムの子孫、神の民にはなれない、つまり神の前に義とされないという教えを説き、それを異邦人のクリスチャンに強要していたのですね。

ところがパウロ、元はユダヤ教徒であり、旧約聖書に精通している彼がここですごいことを述べるのです。

それは、もう旧約の時代から、神さまは「アブラハムの信仰」を通して、異邦人もアブラハムの子孫として祝福に入るようにとご計画しておられた、という驚くべき福音です。

8節、「聖書(これは旧約聖書のことですが)は、神が異邦人を『信仰によって義となさる』ことを見越して、あなたによって地上の氏族(異邦人)はすべて祝福に入るという福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」

それはまさに、「信仰による神の恵みの約束」であります。                                                                                                          主イエスの十字架を通して顕された「神の救い」は、その神の御業を信じるすべての人に与えられるものです。信仰によって、神さまは異邦人、すべての人、私たちに対しても恵みと祝福を与えると約束してくださっているのです。

その一方で、10節以降でパウロは次のように述べます。「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。」

それは、申命記27:26引用して「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」と書かれてあるからだといいます。

11節、律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。(中略)そして13節(ここが肝心です!)「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。

呪いという怖いことをパウロは述べますが。私たちが神さまをまだ知らないとき犯してしまった罪、神さまに対して背を向けて思うままにふるまった日々。また正しく生きてゆきたいと願いながらそうはいかない、なしえない自分の弱さや不甲斐なさ。そうして自分や人を裁いてしまい、益々神さまの愛から離れてしまって祝福を見失っている息苦しさ。裁きに対する恐れ。破滅をもたらすそのような呪い。

イエスさまは、律法がもたらした、私たちがそれをなしえないために生じる呪いから私たちを贖いだすために、私に代わって呪いの木、すなわち十字架に呪われたものとなっておかかりくださったのです。

冒頭、ガラテヤの信徒たちにパウロが、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」と訴えたのは、パウロ自身かつて律法主義に陥り、呪いのもとにあったように、「ガラテヤの信徒たちよ、決して再びそうなってはならない」。そして「主イエスが律法によっては決して義とはされないようなそんな罪深いわたしたちの贖いのために十字架につけられたのだ。いまさら律法の行いによって救いを得ようなどとして、その神の私たちに対する憐れみである主の死をあなたたちは決して無駄にするな」、と訴えているんですね。

11節「正しいものは信仰によって生きる。」アーメン!であります。

信仰によるのですから、神の救いの恵みはユダヤ人と異邦人(ユダヤ人以外の外国人)を分け隔てるものでは決してありません。もしこの福音、主の御救いが民族や国籍、人間的行為や業、能力や技量、地位や立場、性差などの違いによって得られないことになるのであれば、先週も触れましたがそれは神の恵みを捨てることになります。主イエスが十字架の死をもって私たちすべての人間の罪の贖いを成し遂げてくださった尊い恵みを台無しにしてしまうことになります。

信仰によって与えられる恵みは、神の御慈愛によるものです。

キリストの十字架にお架かりになったそのお姿に、神さまの義と愛とを思うとき、救いの確信とともに私たちの心は感謝と平安と喜びとに満たされていくのです。

26節「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」とパウロは述べます。

「神の子」とは、アブラハムの子孫と同様、旧約聖書ではイスラエル(ユダヤ人)の特権的な呼称(呼び名)でした。

しかしパウロはここで異邦人もまた神の子とされている、それは27節「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と述べます。                                     着る物は私たちの生活には欠かせないものです。そのようにイエス・キリストを日常の中でまとって生きているのがクリスチャンなのであり、その救いの衣によってクリスチャンは神の子と呼ばれるのです。

28節「そこではもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とパウロは述べます。

イエス・キリストを主と信じる信仰によって神さまとの和解を経たクリスチャンは、神の子、信仰の父祖アブラハムの子孫として立てられていることを、今日の御言葉から再確認し、律法的裁きと呪いの捕われから、また神の恵みを無駄にする高慢から解放をいただきましょう。

アブラハムの祝福が主イエス・キリストにおいて異邦人である私たちにも及んだ、その「神の圧倒的御恵み」、神の賜物としての恩寵に感謝を新たにいたしましょう。                                                                           

すべての造られた者には、主を唯依り頼んで生きるところに救いと平安がある。この福音が用意され、届けられていることを覚え、共に喜びに与るために、それぞれの日常の場へと、ここから今週も遣わされてまいりましょう。

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