新年礼拝宣教 ルカ3・1-20
新年最初の主日礼拝をお捧げできます幸いを感謝します。
12月はアドベントからクリスマスを迎え、天の使いが夢でヨセフに現れた個所を何度も読みましたが。みなさんは新年の初夢を見られたでしょうか。私はまだ見ていませんが。
まず新年礼拝の招きの詞として、旧約聖書イザヤ書40章3-5節の預言者の言葉が読まれました。もう一度預言者イザヤの言葉をお読みします。
「呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。」
今日の箇所と照らし合わせて読んでみますと、旧約の預言者イザヤの「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者はともに見る」との言葉が、ルカでは「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と訳されています。これは新約聖書の時代に至って、救い主イエス・キリストのご降誕、十字架と復活をとおして、あらゆる人が神の栄光である御救いを見るようになる」ということですね。このイザヤの預言どおり今や全世界中に主イエスの福音、神の国が宣べ伝えられ続けているのです。
この2019年、さらにその神の国の広がりを期待し、祈り求めながら、主の福音に生き、証し人とされていく私たちでありたいと願っております。
「悔い改めの実」
さて、福音の先駆けとなったバプテスマのヨハネは、ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」とございます。
そして、ヨハネの悔い改めの促しに多くの群衆が応え、自分もバプテスマを授けてもらおうとヨハネのもとに続々と押し寄せてくるのです。
ところがヨハネはその群衆に向けて大変厳しいことを言われます。
「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』「などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧が既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
ヨハネがどうしてこのような厳しい言葉を発したかと申しますと、自分たちは、イスラエルの神から祝福の約束を頂いたアブラハムの子孫なのだからと誇り高ぶり、罪を犯しても宗教儀式や形式的に悔い改めれば許される、とまあ考えていた人たちもいたという事です。
それを見抜いていたヨハネは、「悔い改めの実を結べ」と厳しく勧告します。
この「悔い改め」は、メタノイア;方向転換という意味です。これは単なる後悔や自責の念にかられて後ろ向きになることではありません。的を外した生き方から真の神に立ち返って、生きていくことを、決意することです。ヨハネはそのようにメタノイアしたのなら、具体的に悔い改めの実を結ぶような生き方をしなさいと勧めます。
そこで群衆はヨハネに、「では、わたしたちはどうすればよいですか」と質問します。
するとヨハネはその群衆に、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」とお答えになります。
悔い改めにふさわしい実の一つ目は、貧しい者たちを顧み、分かち合うことです。
また、徴税人も、群衆と同様の質問をしますと、ヨハネは「規定以上のものは取り立てるな」と勧めます。
決められた以上のものを取り立てて富を蓄えることを、当時の徴税人は普通にしていたようです。ユダヤの社会ではそういった徴税人たちは罪人と同様に扱われ、法廷の証人にもなれませんでした。
レビやザアカイも徴税人でしたね。レビはイエスさまの招きを受け弟子となります。ザアカイはイエスさまの救いに与り、これまでの自分の悪事を悔い改めて、全財産の半分を貧しい人々に与えます、と主に約束します。彼はそうやって悔い改めの実を具体的に表したのですね。
さらに、兵士たちも「どうすればよいのか」とヨハネに尋ねます。
この兵士たちとはローマの兵士ではなく、ヘロデ王の管轄下にあったユダヤ人の兵士、あるいはユダヤで警察のような任務についていたユダヤ人の用兵であったようです。
そういう彼らの中には、袖の下からお金を儲けたり、徴税人とグルになってその立場を利用して金をゆすりとったりすることがあったようです。
ヨハネは「もうだれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりしないで、自分の給料で満足しなさい」と彼らに進めるのです。
そんな風にヨハネは神の恵みを受けている者として、悔い改めにふさわしい生き方を、それぞれ具体的に示されました。
私たちもこの新年に、それぞれの生活の場において、悔い改めにふさわしい実を結ぶ生き方を捧げていく決心をしたいと思います。
「わたしではなくキリストを指し示す」
さて、このヨハネのカリスマ性を目の当りにし、メシア;自分たちを救い王となるお方を待ち望んでいた人たちは、「もしかしたら彼がメシアではないか」と、皆心の中で考えていた、とあります。民衆のそういった思惑をも感じ取っていたヨハネは、次のように言いました。
「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりすぐれた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」
まあ普通の人だったなら、自信を強めて鼻を高くし、自分の思うまま民衆を先導して大きなことをなそうとするものです。これほど民衆の心をぐっとつかんでいたのですから、実際それは可能だったでしょう。しかし、ヨハネは来るべきメシアはわたしではない、他におられるというのです。そして自分はその方の履物のひもを解く値打ちさえもないとまで言います。
彼は自分の存在、又自分の役割をしっかりと踏まえていたのです。それは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにするため。」自分の栄誉ではなくキリストをどこまでも指し示し、人々を整え、キリストへと橋渡しすることが自分の使命であると、彼は徹頭徹尾とことんまで神さまの御心に生きるのです。
ルカ福音書1章には、父ザカリヤが天使を通してヨハネの誕生予告を受けた記事がこうあります。
「彼は主の前に偉大な人になり・・・・イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:15-17)
バプテスマのヨハネはこのみ言葉を幼い頃から聞かされて心にとめ、神の御心に従っていったのでしょう。旧約聖書の時代から新たなキリストの救いの時代の橋渡し役として生きたヨハネ。
どうでしょう。みなさまおひとりお一人にも、主イエス・キリストへと橋渡しして下さった方、このバプテスマのヨハネのような存在がおられたのではないでしょうか。
私たちも又、私ではなく救いの主、キリストの栄光を掲げて生き、隣人をキリストへと橋渡ししていく使命をそれぞれに託されているのです。そのように歩んでまいりましょう。
「聖霊と火のバプテスマ」
ところで今年度の大阪教会の標語として掲げましたのは、「新しく造られた私たち」です。バプテスマのヨハネのもとに来た人たちもそうでしたが、私たちも又、滅びるほかない古い自分から新しい人として生きていきたい、との思いをもってバプテスマに与ったことだと思います。
ヨハネは、「わたしはあなたがたに水でバプテスマを授けるが・・・・その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々にきれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と、告げています。
自分の意志で神に立ち帰り、回心した者にふさわしい生き方を心がけていくよう努めていく。それは素晴らしく、又尊いことです。
けれども人が新たに生まれ変わることは、単なる人の努力ではなし得ません。人がどんなに努力しても、その救いを完成させることなどできはしないのです。何度服を洗っても着れば汚れがつくように、何度悔い改めても、何度水で清めても罪のシミは浮いてきます。しかしキリストは、聖霊と火でバプテスマをお授けになるお方として来られました。
人の力によるのでなく、神による一方的な救いの恵みです。イエスさまは、罪に滅ぶほかないすべての人が救われるために、火に象徴される神の審き自ら受けてくださったのです。どうしようもない罪のもみ殻を完全に焼き払うことのおできになるお方。それが、メシア(キリスト)であり、箕をもって脱穀場を聖(きよ)める、お方であるということです。
まあここを読んで、この麦と殻を救われる人と滅びる人、天国に入る人、地獄に入る人と二分化するような解釈をする人もいるわけですが。そういう読み方をするよりも、むしろまずは自分自身のことに引きつけて読み、罪の殻を身に覆っているような私たち、火で焼かれる以外ないようなその罪を、キリストが負って下さった。これこそ神の恵みのバプテスマであります。
同時に、十字架で罪の審きと贖いを果たされたキリストによって、神さまはゆたかにご聖霊を私たちの間に注いで下さるようになったのです。
さて、そのようにキリストが聖霊と火のバプテスマによって、新しい人とされた私たちです。神の選びの民ではなかった異邦人の、罪深い私たちのためにまでも、罪のない神の御独り子が十字架にかけられ、死んで審きを負って下さり、もはや私たちの罪の殻は焼き払われたのです。唯々、日々ご聖霊の助けを頂きながら、神の愛の内に生きる幸いを思うとき、私たちは自ら悔い改めの実を結んでいく者となります。もう、不正をするな、と言われなくても、そうしない。餓え渇いている人がいたら、放っておけない感情が芽生えてくるのではないでしょうか。それが本物の福音力であると信じるものです。
そのような福音の力に与る人たちの間に、神の国の始まりが起こされてくるのです。
そのことを今日最もお伝えしたいことであります。
今年一年、福音を伝え証していくなかで、神の国のゆたかさ、拡がりが聖霊によって導かれていきますよう、祈るものです。
今日の御言葉をもって、またここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう。
祈ります。