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新しい生き方への招き

2019-01-27 19:57:21 | メッセージ

礼拝宣教 ルカ5・27―32 

 

私は学生の時代、小高い丘の上にある北九州市小倉のバプテストシオン山教会の礼拝に出席しておりましたが。毎週行くのに長い坂道が続いていて、雪の日や道が凍結していた時などは、のぼっていくのが結構しんどいこともありましたそんな坂道をのぼって礼拝に向かっていたある日、シオン山教会の宣教師であったV.キャンベル先生とお会いした折のことですが。

私が「I am go to Church」と覚えた英語で得意げにいいますと、キャンベル先生は「No. You are Come back church!」と返ってきました。「教会は行くところではなく、帰るところですよ!」とおっしゃったのですね。登り坂道であっても「教会は帰るところ、神の家」なんだということを新鮮な気持ちで知らされました。

このことは、その後の私の教会観や信仰生活に影響を与えるものとなりました。

まあこれが牧師となって礼拝宣教し始めた28年前から、礼拝宣教の最初に「おかえりなさい」とご挨拶する言葉の原点になっています。

又、近年は礼拝宣教の最後に私はまあ決まり文句のように、「またここからそれぞれの場へと遣わされてまいりましょう」と、派遣の言葉を語ることにいたしておりますが。この主の日の礼拝から、主の恵みと力を給油してもらい、それを日々の生活の場で霊の糧とし、又それをもって主イエスの弟子として生きていくことが大事なのであります。

 

さて、先週はイエスさまがシモンをはじめとする漁師たちを、最初の弟子として選ばれたその召命の記事でありました。

一晩中漁をして何もとれなかったシモンが、イエスさまの「深みに漕ぎ出しなさい」との勧めに、自分の経験や知識、プライドはさておき、「お言葉ですから」と深みに漕ぎ出して行った。そのことによって彼は大漁の恵みの御業を見せられることになります。

シモンはその圧倒的神の力と恵みの、その深さを知った時、「私は罪深いものです、私から離れて下さい」と、今度は自分の罪深さを思い知るのです。まさに驚くべき恵み、アメージング・グレースであります。神の恵みに人間はただおそれおののくばかりです。しかし主イエスは「恐れることはない」と平安を約束し、弟子としてシモンら漁師たちをお招きになったというエピソードでありました。

今日は、イエスさまが徴税人のレビを「わたしに従いなさい」と招き、弟子とされる箇所から、御言葉を聞いていきます。

 

「ルカ福音書が強調する点」

まず、徴税人レビがイエスさまの招きに応えて弟子となっていった記事は、マタイやマルコの両福音書にも記されております。その多くはこのルカ福音書の記事と共通していますが、しかしルカ福音書にのみ記されていることが3つあります。

その1つは、イエスさまがレビを「わたしに従って来なさい」とお招きになったとき、マタイやマルコによれば「彼は立ち上がってイエスに従った」と記されているのに対して、ルカは「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」と記している点であります。「何もかも捨てて」ということが強調されているのです。

徴税人は当時ユダヤの地を統治してたローマのための税金を徴収する人たちでした。ユダヤの人たちからすれば自分たちを圧政するローマの手先であるということで随分嫌われていました。そのうえ余計に取り立て私服を肥やしている者も多かったので、結構な財産を所有していたようです。

その徴税人のレビが「何もかも捨てて」と記されているのは興味深いところですが。

ただ、この「捨てて」というのは直訳では「残して」と訳せます。そうなると捨てると残すとは大違い、正反対じゃないかと思うのでありますが。ここではっきりしていることは、これまで徴税人レビがあくどい仕方で私服を肥してため込んでいたであろう彼の一切の財産を、ポイっと捨ててしまったのではなくて、「ひとまず置いて」、まあ残したまま、イエスさまに従ったということであります。

又、彼はこの後、自分の家で「イエスさまのために盛大な宴会を催した」と、あります。これが2つ目のルカが強調していることなのです。マタイやマルコの福音書には、レビが催した盛大な宴会のことは何も記されていませんが、なぜルカはこのことを記したんでしょう。

それは、レビが「ひとまず置いたその富を何に用いたかを示すためです。徴税人であったレビが「自我のための生き方」から「主のために生きる生き方」へ具体的にチェンジした、方向転換したということがここに示されているということです。

「そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席についた」とあるように、レビ自らこの宴会のホスト役となって、イエスさまのために盛大な宴会を開き、そこに先にイエスの弟子となったシモンらも招かれ、又同業者の徴税人や又罪人と呼ばれていた人たちがいた。まあ、そんな罪人と言われる人たちの大宴会がもたれる、とのうわさを聞いて集まってきた人たちもいたのでしょう。そこに、いつも徴税人のレビたちを罪人と非難していたファリサイ派の人々や、その律法学者たちもいたということです。

とにもかくにも、徴税人のレビにとって、神の人と噂される主イエスに目を留められたということが、どんなにか大きな驚きと喜びであったかが、このイエスさまのために催した盛大な宴会から伝わってきます

 

この記事を読みながら思い出したのは、レビと同様徴税人のその頭であったザアカイのエピソードがマタイやマルコに無く、やはりルカの福音書19章にのみ記されていることです。

思いもかけずイエスさまに目をとめられて、「今日は、ぜひあなとの家に泊まりたい」と呼びかけられたザアカイは、喜んでイエスさまを迎え入れます。

そしてザアカイは「立ち上がって『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します』とイエスさまに約束するのですね。

ザアカイの大きな喜びが言葉に表れています。彼は主の愛の深みに触れた時、自分の罪深さを思い知らされ、メタノイア、悔い改めたのです。これは先週のシモンと同様です。

救いの主、喜びと恵みのイエス・キリストに立ち帰ったザアカイ。

このルカ福音書が伝える「悔い改め」は、単に口で罪を告白しただけで終わるものではなく、メタノイア・方向転換をした者の生き方そのものが変わる。そこにその「実」、「証」が伴うものなのです。

すでにお伝えしていますように、今年の年間テーマは「新しく造られた私たち」です。そのコリント二5章17節をお読みします。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、(見よ、すべて)新しいものが生じた。」このところから、新しい人としての歩み、新しい人生を生きていくことをテーマとして掲げています。

このルカの福音書はまさにその具体的出来事の一つをここに紹介しているのです。

 

今日の箇所の5章32節で、ルカはイエスさまのお言葉を次のように記します。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるため

である」と。他のマタイやマルコの同じ記事には「罪人を招くためである」とのみ記されていますが。

このルカでは「罪人を悔い改めさせる」、すなわち神に立ち帰って生きる者となるという目的が強調されているのです。この「悔い改め」・メタノイアという言葉はルカ福音書には14回も記されているのですが、これが3つ目のルカのポイント、重要点です。

 

真の救いの主、イエス・キリストによって神に立ち帰る、メタノイアした者は新しい人生を歩み出します。先ほどのコリント二5章17節の後の18節を見て頂きますと、そのキリストに結ばれることによって与えられた新しい人生が、和解のために奉仕する任務だと記されています。

主イエスによって神と和解したレビは、隣人を招いてイエスさまのための大宴会を開きます。

自分を愛し、自分を大事にするように隣人を愛する、隣人を大事にする生き方。これが徴税人であったレビ、又徴税人の頭であったザアカイの新しい生き方でした。

まあ、自分の財産については困ったことはなく裕福であったのでしょうが。ローマとユダヤ同胞の人たちの軋轢と狭間で、内心は安らげる場もなく、礼拝堂にも大ぴらに行けないそんな居場所もなく、寂しい日々を彼らは送っていたのではないでしょうか。

いくら物質的には有り余るような資産を所有していても、その心の真の慰め助にはならなかったのでしょう。これは現代においても同様ではないでしょうか。

その彼らが、真の救いの主、イエス・キリストと出会い、神に受け入れられた喜びに満たされたとき、「自我のための生き方」から「主と隣人を自分のように愛し、大事にする生き方」へと、メタノイア・方向転換をするのです。それは決して強いられてではなく、もう喜びと感謝があふれてそうなっていくのです。レビやザアカイはきっとそうすることで、これまでの生き方とは全く異なる生き方、本当の自分の居場所を見つけることができたのではないでしょうか。

 

「罪人の仲間とされても」

ここまで、ルカ福音書にのみ記された3つの御言葉に注目し、その強調されているメッセージをレビに焦点を当てながら読み説いてきましたけれども。

次に、ルカの福音書のこの個所から、イエスさまは何を語られているのかを読み取っていきたいと思います。

30節「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子に

イエスさまの弟子たちに『なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか』」と言った」とありますが。

徴税人の仕事はユダヤ以外の外国の人々が持ち込む物品類に通行税を掛けて徴税することで、その品々にはユダヤの宗教上けがれたものも少なくありませんでした。それで徴税人も罪ある職業としてユダヤの人々からは疎んじられたり、見下されていたのです。

そういった徴税人に声をかけたり、その彼らと一緒に飲食することは、イエスさま自身も、周囲の人々から「罪人の仲間」と言われることをよく承知しておいででした。

 

ここでファリサイ派の人々が直接イエスさまにではなく、その弟子たちに「罪人と一緒に飲食するイエスは罪人の仲間なのか」と尋ねます。さすがに主賓のイエスさまには言いにくかったのか、弟子たちには何であんな人に従うのかという嫌味を言ったのかわかりません。

ここに居合わせそのようにつぶやいたファリサイ派の人々やその派の律法学者たちは、自分たちは神の律法に照らして正しい道を歩むように努めていたその気高さに敬意は払いますが。その一方で、彼らは律法を守ることのできない人たちを罪人、けがれた者と見下し、疎んじ、自分たち正しさを自認していたのです。「ファリサイ」とは分離するという意味がありますが。イエスが徴税人や罪人などと飲食を共にする行為が、理解できず、もっといえば許すことができず、反感や敵意まで抱いたのです。

 

31節で、そのイエスさまはその彼らに向かってこうお答えになります。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。」

このイエスさまのお言葉の背後にはユダヤ教の礼拝観があったようです。

ユダヤ教においては、健康であることが神からの祝福のしるし、反対に病気は何らかの罪に対する報いといった考え方が存在していました。

旧約のヨブ記のヨブもそうした因果応報の宗教観をもった友人らからさんざん悔い改めを迫られるわけですが。そういった考え方が根強くある中で、義人・正しい人や健康な人による礼拝こそが神に喜ばれるもの、神の前にふさわしいものとされ、病人や罪人は礼拝所の外で祈ることが当然のようになされていたのです。

こうした宗教家たちのように、人と人を分離し、分け隔てることが、罪人と呼ばれる人たちの神さまに立ち帰って生きる機会を奪ってきたのではないでしょうか。

 

レビが催した祝宴でイエスさまが、徴税人や罪人と呼ばれた人たちと飲食を共にされたことについては32節にありますように、「正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と、そうイエスさまは明確におっしゃいます。

 

神の愛とゆるしを知るとき、人は新しくされる。人生も新たにされる。その可能性をイエスさまはむしろ罪人の中に見ておられたのです。

イエスさまの見ておられることってすごい、と思いますけれども。その一方で、ではこれって、正しい人は招かれていないということでしょうか。

いいえ、そうではありません。ここで問題にしているのは、「自分こそ神の前に正しく、ふさわしい」と自認し、罪人たちと自分は質の違う人間だと思い上がっている「正しい人」の態度です。「罪人」イコール「ダメな人」とレッテルを貼り、自分との間に線引きし、罪人の立ち帰りと救いの門を閉ざし、その道から追い出そうとしているその高慢です。

しかし、主イエスはどこまでもその外に追い出された人々へ向かうのですね。

イエスさまは、この自分は正しい者であると自認する人々がそれらのことに気づき、彼らも又主のゆるしと救いを必要とするものであることを知って、主に立ち帰ること。救われ喜び者らと共々に主の食卓を囲んでいくようにと、招いておられるのです。

 

私たちも又、異邦人であり、この罪人を招く主の愛の招きに与った者として、喜びをもって主の御跡に従う者とされてまいりましょう。

 

今日の御言葉をもって今週もここからそれぞれの場へと、遣わされてまいりましょう。

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