礼拝宣教 ダニエル1章(平和)
今月は平和月間として「平和」「いのち」の尊さを覚え祈りつつ過ごしてまいりたいと願っております。8月15日は今年も8・15こども&おとなの平和祈祷集会が行なわれます。先日A財務相・副総理が「ナチスドイツの手法にならって憲法改正を日本もすればいい」などととんでもない暴言を口にして大変な問題になっていますが。そういった憲法改正の動き、特に9条の戦争放棄や武力攻撃を禁じている現憲法を変えようとしている政治の動きが起こっています。それは又私たちの信仰とも関る「思想信条の自由」が制限され脅かし兼ねるものでもあります。そういった中でもたれる今回の8・15平和集会は「非暴力運動の可能性」がテーマです。人種差別解放運動や公民権運動のマルチン・ルーサーキング牧師やマハトマ・ガンジー師はよく知られておりますが。その思想の根底にありますのは、聖書の「殺すなかれ」、イエス・キリストの「剣によるものは剣で滅びる」と語られた御言葉にあるといえます。今日の日本を取り巻く周辺諸国との関係が非常にぎくしゃくとしておりますが。その中で私たちは、イエス・キリストの言動に学び、聖書の御言葉に立って祈り、行動していくことが求められています。平和祈祷集会は今回京都の北山バプテスト教会で開かれます。どうぞ覚えてご参加ご援祷ください。
さて8月は4週に亘りダニエル書・ダニエルの物語の部分から御言葉を聞いていきます。本日は1章より「真実を貫く信仰」という宣教題をつけさせて頂きました。
「はじめに」
ダニエル書は、主にバビロンの捕囚時代と捕囚からの帰還後のことが少し触れられておりますが、この書が編纂されたのは実際にはそれからずっと後の約400年後の起源前2世紀頃と言われております。ダニエル書の10章からの幻の記述には、主を信じるユダヤ人たちが激しい宗教的弾圧と迫害によって苦しめられていた歴史的背景が読みとれます。つまりこのダニエル書はバビロンの捕囚という過去の出来事を物語りながら、当時大国の侵略や激しい迫害にさらされる主の民、ユダヤの人々に向けて、今一度「主の信仰を守って生きる」道を説き、励ましを与える目的をもって編まれた書物なのです。
「同化政策」
この書のいわば主人公であるダニエルはじめ、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤや4人でありますが。彼らはバビロンの王ネブカデネザルが捕囚として連行してきたイスラエルの王族と貴族の中から選ばれた、秀でた少年たちでありました。優れた少年を選び、3年間バビロンの原語を教えこませ、バビロン名に改名させ、宮廷料理を食べさせて宮廷教育を施し養成させました。これは彼らを高い地位につかせるためでしたが、そうすることで捕囚であるイスラエルの民をよりよくコントロールするという政策的意図があったようです。それは又、少年たちとその民にイスラエルの民であることをやめさせ、バビロンに同化することを強要するものでした。
同化は権力をもつ側によってなされるのであります。日本でもかつて近隣アジア諸国の人たちを強制連行し、強制労働を強い、皇国史観の強要、日本語の強要、神社参拝の強要、さらに、氏名を日本名に呼び変えさせるといった、まさにその民族と個人のアイデンティティーを奪う同化政策がとられました。その人がその人であること、その人らしく生きる権利を踏みにじる、それが戦争であり、侵略であります。二度とこのような事が繰り返して起こることがないように願い祈るばかりでございますが。
「ダニエルらのとった行動」
さて、王から食事が出され、贅沢な宮廷料理とぶどう酒を前にした時のことです。ダニエルは「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」、王の侍従長に「自分を汚すようなことはさせないでほしい」と願いでます。それが異教の神々に一旦ささげられた食物であったからです。最高権力者の王さまが出されたものを断るのですから、何と無礼な御咎めを受けるかも知れません。ダニエルも相当な勇気がいったでしょう。しかしそれにしても、何で食べ物ぐらいのことで、と思われる方もおられるでしょう。けれどもそれはイスラエル・ユダヤ民族である彼らにとって「神の民として生きる」ために守るべき重要な事柄であったのです。今でもユダヤ人(教徒)は血を含んだレアステーキやぶた肉はその規定に従い口にしません。それは彼らにとってのアイデンティティー、彼らが彼らであるための大事な要素の一つなのです。戴くことは礼儀だという考えもあるでしょう。ダニエルは目の前のおいしそうな食事を前に食欲にかまけて神の法に反する王の宮廷料理とぶどう酒を飲めば、バビロンのもつ異教的な価値観や習俗慣習に呑みこまれてしまうことになると察知し、それを拒否したのです。
さて、王の侍従長は真の神さまを信じてはいなかったのですが。神さまの御計らいによってダニエルは侍従長に好意的に又、親切な待遇を受けたとあります。主は生きて働いておられます。ところが、ダニエルが食事のことについてそのように願い出たものですから、10節にあるように「わたしは王様が恐ろしい。王様御自身がお前たちの食べ物と飲み物をお定めになったのだから。同じ年ごろの少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、大変困惑します。
するとダニエルは次のような提案をもって答えます。
12節「どうかわたしたちを十日間試してください。その間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせてください。その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考えどおりにしてください。」
そうして十日たってみると、不思議なことにダニエルら4人の少年らの顔色と健康は、宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった、事が分かります。それ以降、ダニエルら4人の少年は宮廷の肉類と酒を除いて野菜だけを受けたというのです。
ダニエルらは、「神を神とし畏れ敬う信仰」をもっていました。世のいかなる権力もこれに並ぶものではありません。「神の民として生きる」ことこそ、ダニエル;「神はわが審き主」という名が示すとおりダニエルをダニエルたらしめる生き方だったのです。その信仰により主に従って生きることを貫くことで、彼らはバビロンとその権力による同化政策から身を守ったのであります。からその身を守ったのであります。
ダニエルら4人は3年間の養成の期間を終えて、バビロン王の前に召し上げられ王に仕えるようになったとあります。彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れ、王からも信任を受けたといいます。
今日のメッセージは、ダニエルら4人の少年たちが異教バビロンの捕囚の地においても、なお「主への真実を貫く信仰」にスポットライトがあてられております。それは命を賭けたものでありました。けれどその勇気や行動は、単に自分を闇雲に押し通すためのものではなく、主への信頼と愛に裏打ちされたものであったのです。そのダニエルを形作っていた神の愛はきっと同胞3人の少年の行動に影響を与えたことでありましょう。
「沖縄の同化政策と集団自決」
最後に一つだけ日本の歴史を教訓として学びたいと思います。かつて沖縄は琉球王国という独立した国でありましたが。日本の支配下となり同化を強いられる中で、かの戦争に至ります。その時代アメリカ軍は鬼畜であり、その捕虜になるぐらいならいさぎよく日本人として死を選ぶべし、とまで軍国教育がなされたのでした。これはあの沖縄戦の時に二つのガマ(洞窟)で起こった対照的な出来事についてでありますが。
読谷村にある一つはチビチリガマとよばれる洞窟。ここはいわゆる「集団自決」が行なわれたガマです。この洞窟には住民約140人が避難していましたが。米軍が上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、住民たちの指導者の「自決せよ」との言葉に、鎌や包丁、看護婦が持っていた劇薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられ、暗闇の洞窟の中で、83人が死亡、その6割が18歳以下の子供で、中には乳幼児もいたということです。
もう一つも読谷村のシムクガマとよばれる洞窟です。ここには約1000人が避難していました。米軍が投降を呼びかけたところ、壕の中は一時パニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの二人の老人が、「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができたのです。その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されたということです。この対照的な二つのガマは1キロも離れていなかったのです。避難住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。
この二つの大きな異なる結果は、日本軍による教宣活動によるものです。琉球のことばを許すなと命じ、日本人(ヤマト)として働くこと戦うことを強い、神ならざるものを崇拝させお国(ヤマト)への同化政策が巧妙になされていきました。そして鬼畜米軍の捕虜になるくらいならお国のために死ぬことが美徳として洗脳されていった時、沖縄の人が沖縄の人として生きることを否定され、その島の宝である多くの命が失われていったのです。
チビチリガマの出来事然りです。しかし、その一方でシムクガマの出来事は、出会いと経験から誤ったデマや教宣に惑わされなかった二人の人、いうならば日本軍の同化政策に流されなかった人たちの真実と信念の言葉と行動によって、ガマの人たちは助かったのです。
私が私であることの存在の意義を大事に守っていくこと。それと同時に、誰もがその人らしく生きていける命の尊厳を重じる社会の実現を、キリストの平和のうちに祈り、執り成してまいりましょう。
主なる神さまは私たち人類を愛し、一人ひとりの命は尊く、決してないがしろにされてはならないことを自ら十字架の苦難と死をもって示してくだいました。いかなる場合も武力によって平和は建てられるものではありません。
ダニエル書10書19節の御言葉を読んで宣教を閉じます。
「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」
今月は平和月間として「平和」「いのち」の尊さを覚え祈りつつ過ごしてまいりたいと願っております。8月15日は今年も8・15こども&おとなの平和祈祷集会が行なわれます。先日A財務相・副総理が「ナチスドイツの手法にならって憲法改正を日本もすればいい」などととんでもない暴言を口にして大変な問題になっていますが。そういった憲法改正の動き、特に9条の戦争放棄や武力攻撃を禁じている現憲法を変えようとしている政治の動きが起こっています。それは又私たちの信仰とも関る「思想信条の自由」が制限され脅かし兼ねるものでもあります。そういった中でもたれる今回の8・15平和集会は「非暴力運動の可能性」がテーマです。人種差別解放運動や公民権運動のマルチン・ルーサーキング牧師やマハトマ・ガンジー師はよく知られておりますが。その思想の根底にありますのは、聖書の「殺すなかれ」、イエス・キリストの「剣によるものは剣で滅びる」と語られた御言葉にあるといえます。今日の日本を取り巻く周辺諸国との関係が非常にぎくしゃくとしておりますが。その中で私たちは、イエス・キリストの言動に学び、聖書の御言葉に立って祈り、行動していくことが求められています。平和祈祷集会は今回京都の北山バプテスト教会で開かれます。どうぞ覚えてご参加ご援祷ください。
さて8月は4週に亘りダニエル書・ダニエルの物語の部分から御言葉を聞いていきます。本日は1章より「真実を貫く信仰」という宣教題をつけさせて頂きました。
「はじめに」
ダニエル書は、主にバビロンの捕囚時代と捕囚からの帰還後のことが少し触れられておりますが、この書が編纂されたのは実際にはそれからずっと後の約400年後の起源前2世紀頃と言われております。ダニエル書の10章からの幻の記述には、主を信じるユダヤ人たちが激しい宗教的弾圧と迫害によって苦しめられていた歴史的背景が読みとれます。つまりこのダニエル書はバビロンの捕囚という過去の出来事を物語りながら、当時大国の侵略や激しい迫害にさらされる主の民、ユダヤの人々に向けて、今一度「主の信仰を守って生きる」道を説き、励ましを与える目的をもって編まれた書物なのです。
「同化政策」
この書のいわば主人公であるダニエルはじめ、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤや4人でありますが。彼らはバビロンの王ネブカデネザルが捕囚として連行してきたイスラエルの王族と貴族の中から選ばれた、秀でた少年たちでありました。優れた少年を選び、3年間バビロンの原語を教えこませ、バビロン名に改名させ、宮廷料理を食べさせて宮廷教育を施し養成させました。これは彼らを高い地位につかせるためでしたが、そうすることで捕囚であるイスラエルの民をよりよくコントロールするという政策的意図があったようです。それは又、少年たちとその民にイスラエルの民であることをやめさせ、バビロンに同化することを強要するものでした。
同化は権力をもつ側によってなされるのであります。日本でもかつて近隣アジア諸国の人たちを強制連行し、強制労働を強い、皇国史観の強要、日本語の強要、神社参拝の強要、さらに、氏名を日本名に呼び変えさせるといった、まさにその民族と個人のアイデンティティーを奪う同化政策がとられました。その人がその人であること、その人らしく生きる権利を踏みにじる、それが戦争であり、侵略であります。二度とこのような事が繰り返して起こることがないように願い祈るばかりでございますが。
「ダニエルらのとった行動」
さて、王から食事が出され、贅沢な宮廷料理とぶどう酒を前にした時のことです。ダニエルは「宮廷の肉類と酒で自分を汚すまいと決心し」、王の侍従長に「自分を汚すようなことはさせないでほしい」と願いでます。それが異教の神々に一旦ささげられた食物であったからです。最高権力者の王さまが出されたものを断るのですから、何と無礼な御咎めを受けるかも知れません。ダニエルも相当な勇気がいったでしょう。しかしそれにしても、何で食べ物ぐらいのことで、と思われる方もおられるでしょう。けれどもそれはイスラエル・ユダヤ民族である彼らにとって「神の民として生きる」ために守るべき重要な事柄であったのです。今でもユダヤ人(教徒)は血を含んだレアステーキやぶた肉はその規定に従い口にしません。それは彼らにとってのアイデンティティー、彼らが彼らであるための大事な要素の一つなのです。戴くことは礼儀だという考えもあるでしょう。ダニエルは目の前のおいしそうな食事を前に食欲にかまけて神の法に反する王の宮廷料理とぶどう酒を飲めば、バビロンのもつ異教的な価値観や習俗慣習に呑みこまれてしまうことになると察知し、それを拒否したのです。
さて、王の侍従長は真の神さまを信じてはいなかったのですが。神さまの御計らいによってダニエルは侍従長に好意的に又、親切な待遇を受けたとあります。主は生きて働いておられます。ところが、ダニエルが食事のことについてそのように願い出たものですから、10節にあるように「わたしは王様が恐ろしい。王様御自身がお前たちの食べ物と飲み物をお定めになったのだから。同じ年ごろの少年に比べてお前たちの顔色が悪くなったら、お前たちのためにわたしの首が危うくなるではないか」と、大変困惑します。
するとダニエルは次のような提案をもって答えます。
12節「どうかわたしたちを十日間試してください。その間、食べる物は野菜だけ、飲む物は水だけにさせてください。その後、わたしたちの顔色と、宮廷の肉類をいただいた少年の顔色をよくお比べになり、その上でお考えどおりにしてください。」
そうして十日たってみると、不思議なことにダニエルら4人の少年らの顔色と健康は、宮廷の食べ物を受けているどの少年よりも良かった、事が分かります。それ以降、ダニエルら4人の少年は宮廷の肉類と酒を除いて野菜だけを受けたというのです。
ダニエルらは、「神を神とし畏れ敬う信仰」をもっていました。世のいかなる権力もこれに並ぶものではありません。「神の民として生きる」ことこそ、ダニエル;「神はわが審き主」という名が示すとおりダニエルをダニエルたらしめる生き方だったのです。その信仰により主に従って生きることを貫くことで、彼らはバビロンとその権力による同化政策から身を守ったのであります。からその身を守ったのであります。
ダニエルら4人は3年間の養成の期間を終えて、バビロン王の前に召し上げられ王に仕えるようになったとあります。彼らは常に国中のどの占い師、祈祷師よりも十倍も優れ、王からも信任を受けたといいます。
今日のメッセージは、ダニエルら4人の少年たちが異教バビロンの捕囚の地においても、なお「主への真実を貫く信仰」にスポットライトがあてられております。それは命を賭けたものでありました。けれどその勇気や行動は、単に自分を闇雲に押し通すためのものではなく、主への信頼と愛に裏打ちされたものであったのです。そのダニエルを形作っていた神の愛はきっと同胞3人の少年の行動に影響を与えたことでありましょう。
「沖縄の同化政策と集団自決」
最後に一つだけ日本の歴史を教訓として学びたいと思います。かつて沖縄は琉球王国という独立した国でありましたが。日本の支配下となり同化を強いられる中で、かの戦争に至ります。その時代アメリカ軍は鬼畜であり、その捕虜になるぐらいならいさぎよく日本人として死を選ぶべし、とまで軍国教育がなされたのでした。これはあの沖縄戦の時に二つのガマ(洞窟)で起こった対照的な出来事についてでありますが。
読谷村にある一つはチビチリガマとよばれる洞窟。ここはいわゆる「集団自決」が行なわれたガマです。この洞窟には住民約140人が避難していましたが。米軍が上陸したその日にこの洞窟を発見し、投降を呼びかけました。しかし民間人は殺さないという米兵の言葉を信じられない数人の住民が、竹槍を持って米軍に反撃したのです。米軍は応戦し、銃撃により2名が死亡しました。これを見た避難民は動揺し、住民たちの指導者の「自決せよ」との言葉に、鎌や包丁、看護婦が持っていた劇薬などで、家族が殺し合うという惨劇が繰り広げられ、暗闇の洞窟の中で、83人が死亡、その6割が18歳以下の子供で、中には乳幼児もいたということです。
もう一つも読谷村のシムクガマとよばれる洞窟です。ここには約1000人が避難していました。米軍が投降を呼びかけたところ、壕の中は一時パニックになりましたが、避難していたハワイ帰りの二人の老人が、「アメリカ人は人を殺さない」と、米軍は国際法に従って行動しているということを訴え、人々を説き伏せることができたのです。その結果一人の犠牲者も無く全員が保護されたということです。この対照的な二つのガマは1キロも離れていなかったのです。避難住民の中にはチビチリガマに逃げようかシムクガマに行こうか迷った人もいたといいます。
この二つの大きな異なる結果は、日本軍による教宣活動によるものです。琉球のことばを許すなと命じ、日本人(ヤマト)として働くこと戦うことを強い、神ならざるものを崇拝させお国(ヤマト)への同化政策が巧妙になされていきました。そして鬼畜米軍の捕虜になるくらいならお国のために死ぬことが美徳として洗脳されていった時、沖縄の人が沖縄の人として生きることを否定され、その島の宝である多くの命が失われていったのです。
チビチリガマの出来事然りです。しかし、その一方でシムクガマの出来事は、出会いと経験から誤ったデマや教宣に惑わされなかった二人の人、いうならば日本軍の同化政策に流されなかった人たちの真実と信念の言葉と行動によって、ガマの人たちは助かったのです。
私が私であることの存在の意義を大事に守っていくこと。それと同時に、誰もがその人らしく生きていける命の尊厳を重じる社会の実現を、キリストの平和のうちに祈り、執り成してまいりましょう。
主なる神さまは私たち人類を愛し、一人ひとりの命は尊く、決してないがしろにされてはならないことを自ら十字架の苦難と死をもって示してくだいました。いかなる場合も武力によって平和は建てられるものではありません。
ダニエル書10書19節の御言葉を読んで宣教を閉じます。
「恐れることはない。愛されている者よ。平和を取り戻し、しっかりしなさい。」