日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

信仰による義

2010-10-24 05:43:19 | メッセージ
宣 教 ローマ3章21節~31節

この短い個所に「義」という言葉が実に9回出てまいります。前の10節を見ますと、この義ということに関して、パウロは「正しい者は一人もいない」「善を行なう者はいない。ただ一人もいない」と、詩編の言葉を引用します。さらにパウロは20節「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とないからです」と述べます。
私たち人間はどれほど善をもって生きようとしても、人の頑張りなどではとうてい神の前で義とされることなどできない、ということです。多くの人は善良に生きたいと願いますが、皮肉なことにそういう願望が強いほど、人はそのように生きることが出来ない自分を思い知らされるのです。ですが、今日の個所で語られる「義」とは、そういった人間の努力や精進などによる正しさや善行によっては決して得る事のできない「神の義」について書かれているのであります。
それは23、24節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただイエス・キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で与えられる義」であります。更に25節「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです」。ここには、私たちには実に納得しがたいことが述べられています。「人が犯した罪を見逃して、神の義を示す」。どうして「罪を見逃す」ことが義となるのでしょうか。私たちは逆に「罪を罰してこそ義は成り立つ」「そんな悪を罰せずして何が義といえるのか」と思います。けれども人はみな神の前にあって罪人であるということを踏まえなければなりません。罪に大も小もありません、罪は罪なのです。
神が義を立てれば人類すべては罪の裁きを受けて滅ぶしかないのです。私どもは人の罪や悪ではなく、まず自分自身の罪の問題と向き合い、しっかりと見つめなければなりません。
しかし義なるお方である神は、罪人を罰して滅ぼされるのではなく、罪人の裁きを自らお引き受けになることによって、その義を立てられたのです。罪を単に見逃したのではなく、神がそれを実に負ってくださったのであります。

大阪教会の前のとおり谷町筋を大きなスピーカー音で、「神を信じる者は救われます。信じない者は地獄に行きますと聖書に書かれています。神を信じなさい」と言いながら走っていく宣伝カーを幾度と見ました。でも正確には聖書にはそんなことは書かれておりません。もしそう言うのであれば、「神は地獄に行くような人間のためにその地獄のようなところまで落ちて、人間を救い出してくださった。その恵みをぜひ受け取ってください」と言った方がより聖書のメッセージに近いと言えるのではないでしょうか。神はまさにこのような仕方で「義」をお立てになられたのです。
神は、罪のゆえに罰され、滅んでもおかしくない罪人を無償で「義」とするために、一点の曇りもない罪なき御独り子・イエス・キリストをその罪を贖う犠牲とされました。その十字架上でながした御子の「血」によって、人間の罪を償う供え物となさったのです。
この神の一方的な救いのみ業によって私たち人間の罪は無償で贖われる。言ってみれば帳消しにされるということです。しかしその恵みに対して、そんなのただ、無償でなされるなど虫がよすぎる、そんなうまい話などないと疑う人が殆どではないでしょうか。
けれども、このただ、「無償」には、神が私たち人間の罪のためにどれだけ計りきれないほどの犠牲を払われたのか、想像を絶するような苦悩を身に負われたか、知る必要があります。むしろそれを知らないことは本当に罪であります。
この「贖い」とは、元々、奴隷を身代金を払って買い戻し、解放することを意味します。
神は御独り子、いわばご自分のみ心そのものと言えるイエス・キリスト。その最もかけがえのない命を身代金として犠牲にして、人間を罪の奴隷から買い戻し、神の子としてくださったのです。

私が子供の時でした。近所によく食べに行くたこ焼き屋さんがありました。ある日そのお店にあるジュースを買って飲もうとしたところジュースの入っていた大きな冷蔵庫のガラス戸を割ってしまったのです。これは大変なことをしたと慌て恐れと不安に襲われました。「おばちゃん、ごめんなさい」と謝ると、たこ焼きを焼きながらおばちゃんは「割れたならしょうがないよ。いいから」と赦してくれたのです。この冷蔵庫のガラスは高価なもので到底子供の自分のお小遣いでは払え切れるものではなかったのです。「どうしようこのままジュースを冷やせなかったらお店に迷惑がかかる」という不安や恐れに襲われていた子どもの私は、おばちゃんがかけてくれたこの言葉にどれほど救われた事か知れません。
贖うというと少し大げさかもしれませんが、子供の自分には到底弁償することもできないようなものを、このたこ焼き屋のおばちゃんが無償で許してくれたというこの経験は今も、この先も決して忘れることはないと思います。

26節「このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、ご自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです」。
神は十字架の無残な死を通して、神の「義」をお示しになられました。それは十字架の血によって罪の贖いを成し遂げられた御子イエス・キリストを信じ受け入れる者を「義」となさるためであります。赦されている。無償で。そこに計りしることのできない大きな犠牲が払われたことを知らなければなりません。

さて、この神の義はただ赦されて「はい」終わりというものではありません。
ここが肝心なのですが、神は御子イエス・キリストを通して、罪人を立ち返らせ(悔い改め)、神との関係を修復し、罪人を創り変えて「神の子」として生きる人生へと導くのであります。つまりそれは善を行なわねば救われない、功徳を積まなければ救われないというがんじがらめの生き方から、救われ、神の子とされた恵みによって、神の御心を「行なわずにはいられない」「喜びをもって義に生きる人生」へと、ご聖霊である神さまが導かれるのであります。

この個所には興味深いことに「義」と同様9回も出てくる言葉があります。
それは「信じる」(信仰)ということであります。興味深いことに、義が9回述べられたら、信じるという信仰も9回述べられているのですよね。義と信仰は対になっているのです。
これまでずっと読み説いてまいりましたのは、神さまが存在のすべてをかけて示された義、み子を犠牲にしてまで罪の贖いをなしとげてくださったということでありますが。そこに同じ数だけ記される「信仰」とは、その神の義、赦しと愛を私どもがそのままアーメンと、受け取っていくということであります。一言でいえば、神の義なるキリストの救いをまるごと受け取る。これが信仰です。このことによって人は義とされるのであります。

31節「わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです」とあります。「神の律法、旧約の聖書の律法書や十戒」が意味のないものになったというのではなく、信仰によって義とされたものは、むしろ受け入れられ、赦されているという平安の中で神のみ心を大事にして生きる者とされるということです。これが、キリストを信じる者の姿なのであります。
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