今回の箱根駅伝出場校の説明の中で、早稲田は「33年連続78回目の出場」と紹介されています。
つまり33年前には予選落ちしたわけで、それは私が早稲田に入学した1975年度(昭和50年度)の大会(昭和51年1月)のことでした。
箱根駅伝が今回で通算85回目。そのうち戦前あるいは戦後の混乱期を除くと、早稲田は3回(昭和45年、47年、51年の各1月)の予選落ちを経験しています。
そして、その時期に出場を果たした大会でも、シード権獲得には程遠い13位~16位と全く成績は振るいませんでした。
ですから1970年代前半は、早稲田の駅伝にとって文字通り真冬の時代だったわけです。
その予選落ちした大会の3ヵ月後の1976年4月に、鳴り物入りで早稲田に入学してきたのが、瀬古利彦さんでした。
瀬古さんは、インターハイのチャンピオンで、高校駅伝の花の一区でも区間賞を獲得した高校長距離界のトップ・ランナー。
当時の競走部関係者、そしてファンの瀬古さんへの期待が如何ばかりだったか、若いファンの皆さんにも想像がつくと思います。
なお、スポーツ推薦制度が未整備の時代だったので、そんな輝かしい競技歴を有する瀬古さんですら、一浪の末の合格でした。
瀬古さんが入学して以降、現在に至るまで早稲田は一度も予選落ちしていません。
そして大学三年生の時に「W」のユニフォームを着た瀬古さんが福岡マラソンに優勝して世界のトップランナーの一人となったことから、一気に早稲田の駅伝チームにも日本中の注目が集まるように。
瀬古選手が走ると、二区の沿道から「瀬古~!」「瀬古~!」と常に大声援が送られ、走り終わった後に伴走車に飛び乗った瀬古に対しても、「瀬古、よくやった~!」などと次々に声がかかりました。
大手新聞の一面のコラムに、「近頃、これほど詰襟が似合う大学生は珍しい」などとコメントされたこともありました。
選手として、指導者として、そして情宣担当者として、あらゆる面で早稲田の長距離チームを立て直した瀬古さんは、まさに歴史に残る大功労者です。
なお、WES Club(Waseda Ekiden Support Club)のウェブサイトに、過去の大会の参加選手や記録が掲載されていますので、一度訪れてみてください。
思い出の駅伝の風景が、きっと甦ります。
↓
WES
つまり33年前には予選落ちしたわけで、それは私が早稲田に入学した1975年度(昭和50年度)の大会(昭和51年1月)のことでした。
箱根駅伝が今回で通算85回目。そのうち戦前あるいは戦後の混乱期を除くと、早稲田は3回(昭和45年、47年、51年の各1月)の予選落ちを経験しています。
そして、その時期に出場を果たした大会でも、シード権獲得には程遠い13位~16位と全く成績は振るいませんでした。
ですから1970年代前半は、早稲田の駅伝にとって文字通り真冬の時代だったわけです。
その予選落ちした大会の3ヵ月後の1976年4月に、鳴り物入りで早稲田に入学してきたのが、瀬古利彦さんでした。
瀬古さんは、インターハイのチャンピオンで、高校駅伝の花の一区でも区間賞を獲得した高校長距離界のトップ・ランナー。
当時の競走部関係者、そしてファンの瀬古さんへの期待が如何ばかりだったか、若いファンの皆さんにも想像がつくと思います。
なお、スポーツ推薦制度が未整備の時代だったので、そんな輝かしい競技歴を有する瀬古さんですら、一浪の末の合格でした。
瀬古さんが入学して以降、現在に至るまで早稲田は一度も予選落ちしていません。
そして大学三年生の時に「W」のユニフォームを着た瀬古さんが福岡マラソンに優勝して世界のトップランナーの一人となったことから、一気に早稲田の駅伝チームにも日本中の注目が集まるように。
瀬古選手が走ると、二区の沿道から「瀬古~!」「瀬古~!」と常に大声援が送られ、走り終わった後に伴走車に飛び乗った瀬古に対しても、「瀬古、よくやった~!」などと次々に声がかかりました。
大手新聞の一面のコラムに、「近頃、これほど詰襟が似合う大学生は珍しい」などとコメントされたこともありました。
選手として、指導者として、そして情宣担当者として、あらゆる面で早稲田の長距離チームを立て直した瀬古さんは、まさに歴史に残る大功労者です。
なお、WES Club(Waseda Ekiden Support Club)のウェブサイトに、過去の大会の参加選手や記録が掲載されていますので、一度訪れてみてください。
思い出の駅伝の風景が、きっと甦ります。
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