酔眼独語 

時事問題を中心に、政治、経済、文化、スポーツ、環境問題など今日的なテーマについて語る。
 

裁判員にはなりません

2008-12-20 20:49:18 | Weblog
 こんなことで来年五月にスタートできるのだろうか。例の裁判員制度のことである。裁判員候補に選ばれたと通知を受けた人の40%にも当たる11万人が辞退などの届出をしているという。



 《来年5月に始まる裁判員制度で、最高裁は19日、候補者に辞退希望などを尋ねた調査票に対し、15日の期限までに約10万9000通の回答が返送されてきたと発表した。期限後にも届いており、約29万5000人の候補者のうち、約40%が回答してきたことになる》=産経web=


 受け取りを拒否する人もかなりいるらしい。潜在的な裁判員拒否者は半数を超えているのではないか。なかには、法で禁止されている裁判員候補当選を公表し、会見で「裁判員お断り」の弁を述べる人もいる。


 《来年の裁判員候補者通知が届いた3人が20日、東京都内で実名を明らかにして会見し、裁判員制度反対を訴えた。弁護士や作家らでつくる市民団体「裁判員制度はいらない!大運動」の呼びかけに応じた。

 東京都の会社員男性(65)は「人は裁かないとの信条を持っており、裁判員は拒否する。法律の素人が審理しても意味がない」。千葉県の無職男性(65)は「裁判官に市民感覚で仕事してもらえばいい。制度は税金の無駄遣いで、生きるのに困っている人のために使うべきだ」と訴えた。

 裁判員法は、候補者になったことを不特定多数に明らかにすることを禁じている(罰則なし)。法に反して会見した理由を東京都の男性は「制度に反対の人はたくさんいる。自分がまず声を上げようと思った」と話した》=毎日web=



 なぜ裁判員制度なのか、という根本が理解されていない。というか、もともとこの点はあいまいなのだ。「裁判に市民感覚を」などと言ったところで説得力はない。裁判は法律に照らして行われるのであり、市民感覚はそれを補強するものにすぎない。

 市民感覚が要求されるのは贈収賄事件など、役人や政治家が絡む事件や行政訴訟などであろう。ところが、裁判員制度は対象を刑事事件、それも死刑若しくは無期に相当する事件に限定している。市民感覚が入り込む余地はどこにあるのか。


 死刑に市民を加担させることが本当に妥当なのか。大いに疑問だ。国際的にも批判の多い死刑制度を、市民参加を盾に存続させようなどと考えてはいないだろうか。裁判の進め方などにも問題を残したままだ。


 五月からの裁判員裁判が混乱することは避けられない。いまとなっては、延期もできないだろう。この責任は一体誰が取るのか。政治、経済に加え司法まで崩壊する事態となれば、日本は真っ暗だ。
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