酔眼独語 

時事問題を中心に、政治、経済、文化、スポーツ、環境問題など今日的なテーマについて語る。
 

「脳死少年」臓器移植

2011-04-26 05:30:12 | Weblog
 週刊文春4月21日号の「初の子ども脳死移植。「少年」は事故死ではなく自殺だった!?」は、ほぼ当ブログが予想したとおりの内容だった。自殺とはJR信越線加茂駅構内であった中学生の飛び込みを指しているのだろう。

 朝日新聞(24日)や地元の新潟日報(25日)が、移植コーディネーターから聞いたとする同じような記事を掲載している。移植ネットが文春報道の余波を打ち消すために設定した企画ではないか。

 あれこれいっているが、自殺か否かにはまったく触れていない。これで報道の責任が果たせるのだろうか。

 《13日に実施された国内初の15歳未満の子どもの脳死後の臓器提供。家族はどうかかわったのか。関東甲信越地方の自治体の移植コーディネーターが朝日新聞の取材に応じ、家族全員で提供を決めた経緯などを初めて明らかにした。
 
 両親は、判断のために移植の基本を知りたいと言い、病院から連絡を受けたコーディネーターが駆けつけた。両親は、臓器提供後に少年の体にどんな傷が残るのかなどと尋ねた。

 両親にはこのまま火葬したくないという思いが強くあった。祖父は「あの子は世の中の役に立つ大きな仕事がしたいと言っていた」と発言。最終的に、みんなで臓器提供を決めた。

 ただ角膜だけは母親が「瞳はあの子のチャームポイントだから」と残すことを希望し提供しなかった。

 改正臓器移植法では、虐待があった場合、臓器提供はできない。コーディネーターによると、病院の虐待防止委員会は事前に作成していた、不自然な傷や骨折がないか、受傷時に目撃者がいたかなどのチェックリストに加え、厚生労働省研究班のリストも使って虐待の有無を調べた。児童相談所にも問い合わせ、「虐待はない」と判断した》=朝日com=。

 ポイントは末尾の文章である。なぜ脳死判定をした病院は「虐待チェックリスト」での確認や児童相談所への問い合わせが必要だったのか。通常の交通事故ならこんな手順は不要だろう。この少年が自殺(自死)したからこそ、この作業が不可欠だったのだ。

 10いくつの子どもが、自ら命を絶ったとすれば、よほど思いつめていたに違いない。この場合、最優先されるのは臓器移植なのだろうか。なぜ彼は死んだのか。この点を突き詰めることこそ求められているのではないか。性急な脳死判定と移植が、多くの謎を封印してしまったような気がしてならない。
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脳死移植の少年は自殺だった?

2011-04-21 05:55:34 | Weblog
 今日発売の週刊文春が「初の子ども脳死移植「少年」は事故死でなく自殺だった!?」という“スクープ”を掲載しているらしい。

 当地ではまだ店頭に出ていないので、詳しい内容は不明だが、いかにもありそうな話だ。過去にも自殺が疑われた脳死移植の例がある。脳死ネットや厚生労働省は、これらのケースについてきちんとした検証をしているのだろうか。

 初の15歳以下脳死判定となった少年は、新潟県下越地方に在住していたと見られる。交通事故と報じられたがJRへの飛び込み自殺を図った疑いがある。この地域で一定の部数を出している三條新聞だけがこの事故を報じている。

 《6日午後4時46分頃、信越線の16時11分長岡駅発、新潟駅行きの普通列車が
 定刻で加茂駅に進入したところ、ホームにいた若い男性が線路に飛び降りて
 列車に向かって走った。
 運転手は男性に気付いて警笛を鳴らしながら急ブレーキをかけたが間に合わず、
 男性は列車前部の車体下にある巻き込み防止ガードに引っかかるようにして
 50メートルほど引きずられた。
 男性は救急車で新潟市民病院の救命救急センターに搬送されたが、呼吸は
 あるものの意識はなく、重体になっている。
 男性は20歳前後から20代とみられ、加茂署で男性の身元確認を急いでいる。
 普通列車には乗客四十人ほど乗っていたが、けが人はなく、列車は現場検証を終え、
 五十八分遅れの17時33分に運転を再開。
 JR東日本新潟支社では、この事故の影響で述べ2千4百人の足に影響したと
 している。(その後、加茂市内の10代男性と判明)=三條新聞。

 この少年が脳死判定の対象者かどうかは確定できない。だが、その可能性は高い。「現地」が新潟県であるのは地元紙・新潟日報の伝えぶりから類推できる。社会面記事などが共同通信の配信を載せた他の地方紙とは違っているからだ。少年が重体となった交通事故の記事もこの日付前1週間以内には見当たらない。

 仮にこの少年が自殺だったとすれば、性急な脳死判定などとんでもない話だ。新学期早々、中学生が自殺を図った。これだけでさまざまな問題点が浮かび上がる。両親の対応がやけに丁寧だったのも気にかかる。

 脳死移植を闇に包んでおいてはいけない。
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東電の体質

2011-04-19 05:59:29 | Weblog
 東電福島第1原発事故収束へ向けての「工程表」が17日発表された。会見したのは勝俣会長、原子力担当の武藤副社長らで、清水正孝社長の姿はなかった。

 清水社長といえば、事故後体調を崩し、しばらく雲隠れしていた人物である。ようやく表に出てきたと思ったら、14日の会見で「年内に柏崎刈羽3号機の運転を再開したい」と発言、地元から猛反発を食らった。部下である柏崎所長からも「あれ(運転再開)は社長が希望を述べたもの」と突き放されるありさまだ。

 《東京電力柏崎刈羽原子力発電所(新潟県柏崎市、刈羽村)の横村忠幸所長は14日、同発電所で記者会見し、清水正孝社長が前日の会見で同原発3号機の年内運転再開を目指す考えを示したことについて、「(社長発言は)会社の希望として言ったことだと考えている。定期検査をいつまでに終えるといった工程ありきの発言ではない」と述べ、事実上、社長発言を否定して謝罪した》=産経JP=。

 17日の会見に清水社長の姿がなかったのは、余計なことをしゃべらないように引っ込めたか、また体調不良に陥ったかだと推測していた。ところが、清水氏にはもっと大事なことがあったのだ。翌日に控えた参院参考人招致である。「有能な社員」を集めて懸命に想定問答を繰り返していたのだろう。

 その甲斐あってか、18日の質疑では片山虎之助に「今日のあなたの答弁を聞いていると、東電は官僚機構以上の官僚組織だということがよく分かる」とほめられていた。

 原発の収束見通しを国民の前に約束する会見より、国会参考人陳述の方を優先する考え方に、東電の体質が現れている。

 勝俣も清水も「引責退任」するという。当然だが原発危機をほっぽり出して逃げ出すことは許されない。17日の会見に清水を出さなかったのは、「幕引きは清水にさせる」という勝俣の深謀遠慮かもしれない。

 
 
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子どもの脳死移植

2011-04-13 06:02:29 | Weblog
 交通事故で重篤となっていた15歳未満の子どもに対して、初めての脳死判定が行われ、心臓などの臓器が提供される方向となった。本人の遺志は不明で、家族が判定と移植に同意したという。

 《日本臓器移植ネットワークは12日、関東甲信越地方に入院していた10代前半の男子について、脳死判定と臓器提供を家族が承諾し、法的に脳死と判定されたと発表した。15歳未満の脳死臓器提供は、昨年7月17日に全面施行された改正臓器移植法で可能になり、実施されるのは国内初。

 移植ネットによると、男子は交通事故で頭部に重傷を負い、関東甲信越地方の病院に入院していた。主治医から回復の見込みがないと説明を受けたが、移植ネットの移植コーディネーターから家族が臓器提供について話を聞くことに同意。9日午後0時28分に移植ネットに連絡があった。コーディネーターが同日、家族に面会。男子の父母やきょうだいの計3人の総意で提供を決めたという》=毎日jp=。

 当方は成人未成年に限らず移植医療にはきわめて後ろ向きである。「死を待つ医療」への嫌悪感があるのかもしれない。だが、最も問題だと感じていることは、命が無限であるかのような幻想を与えていることだ。

 石原慎太郎は「我欲を捨てないと」とのたもうたが、「我欲」の根源は生きようとする意志ではないか。古来、命を永らえようと権力者や金持ちが不老不死の薬や秘伝を求め続けてきた。だが、そんなものはどこにもなかった。望んでも得られないものがある。それが命の重さだろう。

 人を助けたいという崇高な使命感に燃えて臓器提供する人は、尊敬に値する。移植ネットは、こういう行為を大いに称揚してしかるべきだ。実名を公表し、顕彰するぐらいのことがあっていい。

 ところがネットは秘密主義を貫いている。「関東甲信越地方の病院」とは何たる言い草か。コーディネーターと家族の「話し合い」は2回、計3時間半に及んだという。何をどう話したのか明らかにしてほしい。何から何まで隠すようでは、後ろ暗いことがあるのではと勘ぐられるだけだ。

 移植医療の多くが保険適用となり、患者負担は減ったとはいえ、こうした高度医療を受けられる人や地域は限られる。数千万円の金を掛けて、異論のある脳死移植に精を出すより、医療過疎の解消などに力を注ぐべきだと思うのだが…。

 
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社説が消えた?

2011-04-03 09:23:45 | Weblog
 4月1日を期して新聞各紙が平常紙面に戻ると予想したが、半分はずれた。読売や一部地方紙はテレビ欄を最終面に戻したものの、朝日などは追随しなかった。2日付けから平常に戻しているところもあるが、朝日は3日になっても最終面は「震災のページ」になったままだ。平常化は明日の紙面からか。

 それにしても、1日の朝日には驚いた。3面にあるはずの社説が見当たらないのだ。「毎日」のように5面に移したかと紙面をめくったが、ここにもない。1面題字下のガイドに「オピニオン・声 14・15面」とあり社説もここに掲載されていると分かった。

 件の面には社説と論説主幹の「社説 余滴」が座りが悪そうに収まっている。主幹氏いわく「幅広い読者の意見を集めた声欄が右側に。左のページには識者の論考やインタビューがある。社説もその仲間に加えていただき、」云々。「両側から挟まれて埋没しないか」と洩らした後「ちょっとスリリングな挑戦でもあります」と続ける。掲載面変更に対する精一杯の皮肉かもしれない。

 その後社説を含むオピニオンのページは2日が12・13面、3日が6面と、中間面をふらついている。朝日はほかの新聞に比べて面の移動が激しい。固定しいるのはウィークデーは概ね1~7面と社会面3面ぐらいしかない。フレキシブルといえば聞こえはいいが、読みやすさを無視した独善的な紙面づくりではないか。

 社説を後ろのページに引っ込めるのは社内でも異論があったに違いない。でもそうなった。社の上層部が「無用の長物」と判断したためだろう。読者の評価が下るのはこれからだが、この紙面は1年で再改造になる。社説は3面ないし5面に戻り固定化される、と予想しておこう。

 生ニュースを削って長尺の解説が目立つ朝日は、鮮度や情報量において読売に大きく遅れをとっている。これでは部数の激減に歯止めがかかるわけがない。
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