朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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ヨシュア記 11章

2024年11月08日 | ヨシュア記
ヨシュア記11・9 ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた。

アモリ(エモリ)人の5人の王たちによる連合軍に勝利したイスラエルは、さらに大きな連合軍を迎え撃つことになりました。ハゾルの王ヤビンらによる大連合軍でした。「浜辺の砂のように」と表現されるほどの大軍です。

ここでも、主なる神の御言は同じです。恐れてはならない(11・6)

私たちが恐れるのはなぜですか。それは、目に見える世界〝だけ〟を見ているからです。

弟子のペテロは、「来なさい」と言われたイエスの御言を信じて水の上を歩き出しました。しかし彼は、「風を見て恐ろしくなり」、そしておぼれかけました(マタイ14・30)。湖上の波風という見える世界に目がうばわれたからです。

目に見える世界だけを見ていると、私たちには不安や恐れがやって来ます。そして、不安と恐れの海におぼれてしまいます。私たちが見るべきは、イエス様であり、主イエスの御言です。

見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐべきです。なぜなら、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(Ⅱコリ4・18)

神は目に見えませんし、神の御言も見えませんが、それは永遠であり、確かな拠り所です。

浜辺の砂のような大軍を見て恐れない者はいません。その恐れを越えることのできる勇気は、恐れてはならない。わたしはあなたと共にいると言われる神の御言を信頼することから生じます。

また、私たちは、いのちを失うことを恐れます。それは、目に見える肉体のいのちだけを見ているからです。目に見える肉体のいのちは永遠ではありません。しかし、私たちの内なる霊的ないのちこそ永遠に続くいのちです。

目に見える肉体のいのち〝だけ〟を見ている人は、恐れが来ます。しかし、主は言われました。「肉体を滅ぼしても、霊魂まで滅ぼすことのできない者どもを恐れるな」と。

目に見えませんが、私たちの霊魂をお救いくださる神こそ、本当に畏れるべきお方です。正しく畏れることは、世の恐れを超越するのです。

さて、主なる神は、この大軍と戦って勝利しても、敵軍の馬の筋を切り、戦車を焼け(ヨシュア11・6)と命令されました。当時の戦いにおいて、馬と馬が引く戦車は強力な武器でした。

荒野の民であるイスラエルにとって、戦利品としての馬と戦車は魅力的であったはずです。これがあれば、イスラエルの戦力は各段に増強されます。でも、主はそれを大胆に焼き捨てよと命じられました。惜しむ思いもあったかも知れませんが、ヨシュアはそれを大胆に焼き捨てました(11・9)

もしも焼き捨てずに馬や戦車を手にしたら、イスラエルは神を信頼するよりも、馬や戦車を信頼するようになったことでしょう。

目に見えるものを恐れる人は、目に見える何かを得ようとします。目に見える戦車で恐れを消そうとします。目に見える富で恐れに勝利しようとするのです。

しかし、私たちが真に頼るべきは主なる神です。目に見える馬や戦車を頼り始めると、馬や戦車の数で恐れたり、逆に慢心するようになります。詩篇の作者の告白を私たちの信仰告白としよう。

ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る。(詩20・7)

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【一日一章】 朝マナ ヨシュア記 11章 【聖書通読】
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