ヨシュア記11・9 ヨシュアは主が命じられたとおりに彼らに行い、彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼いた。
アモリ(エモリ)人の5人の王たちによる連合軍に勝利したイスラエルは、さらに大きな連合軍を迎え撃つことになりました。ハゾルの王ヤビンらによる大連合軍でした。「浜辺の砂のように」と表現されるほどの大軍です。
ここでも、主なる神の御言は同じです。「恐れてはならない」(11・6)。
私たちが恐れるのはなぜですか。それは、目に見える世界〝だけ〟を見ているからです。
弟子のペテロは、「来なさい」と言われたイエスの御言を信じて水の上を歩き出しました。しかし彼は、「風を見て恐ろしくなり」、そしておぼれかけました(マタイ14・30)。湖上の波風という見える世界に目がうばわれたからです。
目に見える世界だけを見ていると、私たちには不安や恐れがやって来ます。そして、不安と恐れの海におぼれてしまいます。私たちが見るべきは、イエス様であり、主イエスの御言です。
見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐべきです。なぜなら、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(Ⅱコリ4・18)。
神は目に見えませんし、神の御言も見えませんが、それは永遠であり、確かな拠り所です。
浜辺の砂のような大軍を見て恐れない者はいません。その恐れを越えることのできる勇気は、「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる」と言われる神の御言を信頼することから生じます。
また、私たちは、いのちを失うことを恐れます。それは、目に見える肉体のいのちだけを見ているからです。目に見える肉体のいのちは永遠ではありません。しかし、私たちの内なる霊的ないのちこそ永遠に続くいのちです。
目に見える肉体のいのち〝だけ〟を見ている人は、恐れが来ます。しかし、主は言われました。「肉体を滅ぼしても、霊魂まで滅ぼすことのできない者どもを恐れるな」と。
目に見えませんが、私たちの霊魂をお救いくださる神こそ、本当に畏れるべきお方です。正しく畏れることは、世の恐れを超越するのです。
さて、主なる神は、この大軍と戦って勝利しても、「敵軍の馬の筋を切り、戦車を焼け」(ヨシュア11・6)と命令されました。当時の戦いにおいて、馬と馬が引く戦車は強力な武器でした。
荒野の民であるイスラエルにとって、戦利品としての馬と戦車は魅力的であったはずです。これがあれば、イスラエルの戦力は各段に増強されます。でも、主はそれを大胆に焼き捨てよと命じられました。惜しむ思いもあったかも知れませんが、ヨシュアはそれを大胆に焼き捨てました(11・9)。
もしも焼き捨てずに馬や戦車を手にしたら、イスラエルは神を信頼するよりも、馬や戦車を信頼するようになったことでしょう。
目に見えるものを恐れる人は、目に見える何かを得ようとします。目に見える戦車で恐れを消そうとします。目に見える富で恐れに勝利しようとするのです。
しかし、私たちが真に頼るべきは主なる神です。目に見える馬や戦車を頼り始めると、馬や戦車の数で恐れたり、逆に慢心するようになります。詩篇の作者の告白を私たちの信仰告白としよう。
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る。」(詩20・7)
アモリ(エモリ)人の5人の王たちによる連合軍に勝利したイスラエルは、さらに大きな連合軍を迎え撃つことになりました。ハゾルの王ヤビンらによる大連合軍でした。「浜辺の砂のように」と表現されるほどの大軍です。
ここでも、主なる神の御言は同じです。「恐れてはならない」(11・6)。
私たちが恐れるのはなぜですか。それは、目に見える世界〝だけ〟を見ているからです。
弟子のペテロは、「来なさい」と言われたイエスの御言を信じて水の上を歩き出しました。しかし彼は、「風を見て恐ろしくなり」、そしておぼれかけました(マタイ14・30)。湖上の波風という見える世界に目がうばわれたからです。
目に見える世界だけを見ていると、私たちには不安や恐れがやって来ます。そして、不安と恐れの海におぼれてしまいます。私たちが見るべきは、イエス様であり、主イエスの御言です。
見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐべきです。なぜなら、見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです(Ⅱコリ4・18)。
神は目に見えませんし、神の御言も見えませんが、それは永遠であり、確かな拠り所です。
浜辺の砂のような大軍を見て恐れない者はいません。その恐れを越えることのできる勇気は、「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる」と言われる神の御言を信頼することから生じます。
また、私たちは、いのちを失うことを恐れます。それは、目に見える肉体のいのちだけを見ているからです。目に見える肉体のいのちは永遠ではありません。しかし、私たちの内なる霊的ないのちこそ永遠に続くいのちです。
目に見える肉体のいのち〝だけ〟を見ている人は、恐れが来ます。しかし、主は言われました。「肉体を滅ぼしても、霊魂まで滅ぼすことのできない者どもを恐れるな」と。
目に見えませんが、私たちの霊魂をお救いくださる神こそ、本当に畏れるべきお方です。正しく畏れることは、世の恐れを超越するのです。
さて、主なる神は、この大軍と戦って勝利しても、「敵軍の馬の筋を切り、戦車を焼け」(ヨシュア11・6)と命令されました。当時の戦いにおいて、馬と馬が引く戦車は強力な武器でした。
荒野の民であるイスラエルにとって、戦利品としての馬と戦車は魅力的であったはずです。これがあれば、イスラエルの戦力は各段に増強されます。でも、主はそれを大胆に焼き捨てよと命じられました。惜しむ思いもあったかも知れませんが、ヨシュアはそれを大胆に焼き捨てました(11・9)。
もしも焼き捨てずに馬や戦車を手にしたら、イスラエルは神を信頼するよりも、馬や戦車を信頼するようになったことでしょう。
目に見えるものを恐れる人は、目に見える何かを得ようとします。目に見える戦車で恐れを消そうとします。目に見える富で恐れに勝利しようとするのです。
しかし、私たちが真に頼るべきは主なる神です。目に見える馬や戦車を頼り始めると、馬や戦車の数で恐れたり、逆に慢心するようになります。詩篇の作者の告白を私たちの信仰告白としよう。
「ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主の御名を誇る。」(詩20・7)
<You Tube> 【一日一章】 朝マナ ヨシュア記 11章 【聖書通読】
~~~~~~~~~~~~