小田急線の高架下を通過し、梅ヶ丘駅近くに進むと、先ほどまでとは違い、道幅が狭いが、樹木でいっぱいとなり、緑が濃くなっている。
公園橋、古事記橋を過ぎてから、北沢川緑道光明橋広場につく。ここで一休みする。ここまで何回か立ち止まりながら水補給してきたが、ペットボトルの水があらためておいしく感じる。曇りとはいえやはり暑い。
右の写真は、その少し先で撮ったものである。緑道の両脇がちょっと広くなっている。
この先で緑道を右折し、松原六丁目の交差点を渡り、北側に向かう。道なりに進むと、松原六丁目31番地でY字路となるが、右側に進む。ここが半田坂である。
左の写真は、Y字路の坂下から撮ったものである。緩やかにまっすぐに上っている。標柱は立っていないようである。
半田坂はむかしの大山道で、この地の旧名を半田といったのが坂名の由来とのことである。
写真の左側の坂は、「東京23区の坂道」によれば、凧坂(たこさか)というとのことである。
ところで、永井荷風の「断腸亭日乗」大正14年(1925)9月23日に次の記述がある。
「九月廿三日。午前春陽堂主人和田氏来訪。文士菊池寛和田氏を介して予に面会を求むといふ。菊池は性質野卑奸猾、交を訂すべき人物にあらず。午後三村君を訪ひ、去月借覧せし蜀山人七々集を返還し、玉川行の電車にて世田ヶ谷を過ぎ、高井戸村に至る。この電車今年の春頃より開通せしなり。高井戸より歩みて豪徳寺に至る。路傍竹林深き処、柴門に竹久といふ名札かゝげたる家あり。一時流行したる雑誌板下絵師竹久夢二子の寓居なるべし。雑木林の間を行くこと三四町。六所神社の祠前に出づ。恰祭礼にて村の者笛太鼓を吹き鳴し、境内には見世物小屋もできたり。一対の大なる幟を見るに安政二年乙卯九月穀旦雪斎□□謹書とあり。このあたり低き岡多く、人家稀にして、水田、甘藷畠、孟宗の竹林、櫟(くぬぎ)の林つらなりて虫の声雨の来るがごとし。されど電車既に開通したれば、両三年を出ですして、厭ふべき郊外の巷となる事なるべし。日歿せざる中急ぎ家に帰る。」
荷風は、この日、嫌いな菊池寛のこと(「日乗」にしばしばでてくる)があったが、その後、開通してまもない電車に乗って世田ヶ谷から高井戸まで行った。この電車は現在の東急世田谷線と思われる。
現在の世田谷線は、大正14年(1925)1月18日に三軒茶屋駅~世田谷駅間が玉川電気鉄道(玉電)の支線として開業し、5月1日に残りの世田谷駅~下高井戸駅間が開業したとあるので(Wikipedia)、荷風の説明とあっている。
荷風は下高井戸から豪徳寺まで歩いたようで、途中、竹中夢二の家の前を通りすぎて雑木林の中を行き六所神社に立ち寄っている。
半田坂の坂上からその六所神社に向かうが、静かな住宅街が続いている。上右の写真は、その途中にあった畑である。植えられているのは里芋と葱(手前)であろうか。看板に東京都市計画 生産緑地地区とある。
左の写真は六所神社である。境内は樹木でかなり鬱蒼としている。
荷風が訪れたときはちょうどお祭りだったようで、その様子がよくわかる。付近の風景を「低き岡多く、人家稀にして、水田、甘藷畠、孟宗の竹林、櫟(くぬぎ)の林つらなりて虫の声雨の来るがごとし」と好感を持って記述しているが、電車が開通したのですぐに人口が増えて郊外の街となるであろう、と醒めた見方(荷風らしい)をしている。
六所神社を出て、直進すると、右手に世田谷線が見えてくる。踏切の遮断機が閉まったので、見ていると、鮮やかな青色の電車が軽やかに通り過ぎていく。
赤堤通りを戻るようにして先ほどの右折点まで行き、緑道歩きを再開する。
右の写真はその少し先で撮ったものである。細い道が少しうねりながら続いている。この辺りでは緑道の真ん中にセンターラインができているが、凹凸がついているので目の見えない人のためと思われる。
しばらく歩くと、豪徳寺一丁目45番地で緑道が世田谷線のため中断する。これは烏山川緑道と同じである(以前の記事参照)。
(続く)
参考文献
山野勝「江戸の坂 東京・歴史散歩ガイド」(朝日新聞社)
永井荷風「新版 断腸亭日乗」(岩波書店)