佐藤春夫は「小説永井荷風伝」(岩波文庫)で山形ホテルについて次のように書いている。(小説では山形屋ホテルとなっているが。)
「この山形屋ホテルというのは堂々とホテルを名告るほどのものではなく、聞けば外国人などが気らくに永逗留するような家らしかったが、静かに落ちついた場所がらは執筆などにも適当らしく思われた。」
「山形屋ホテルの食堂はグリルも兼ねていたためか、その外部からの出入口が直ぐにホテルの玄関になっている構えであった。」
佐藤春夫は、当時の住まいが落ち着いて執筆するところでなかったため編輯者から短編執筆のため山形ホテルの一室を与えられた。このとき、ホテルの食堂で荷風を見かけるが、これからこの小説が始まる。
その二、三日後、食堂ボーイに偏奇館への道筋を尋ねたときのボーイとの会話がある。偏奇館と山形ホテルとの間の道筋がよくわかるので、以下、引用する。
「荷風先生のお宅は近くだそうだね」
「はい、ほんの一っぱしり、目と鼻というほどの近さでございます。うちのロビーから先生のお邸が真北にはっきりとよく見えます」
「ではちょっと道筋を教えてくれたまえ」
「うちの裏口からでますと、北へ一直線の道ですがちょっとした坂を上ったり下りたりしますから、やっぱり表通の方がよいでしょうね」
「ここを表通へ出て、しばらくまっすぐに行きますと左側にポストがございます。そこを折れるとだらだら坂の小路ですがずんずん行って突き当ったところです。小路は途中から二叉になって一つは先生のお邸のわきをずっと下へおりて行っちゃいますから、途中の道にはかまわずに、ぐんぐん真直ぐにおいでになれば、木の門柱にくぐり戸のついた大きな木の大扉がございます。門柱にはたしか表札もございましたから、すぐおわかりになりましょうが、念のため、これもお持ちになすって。―ごく質素なお邸でございますよ」
ボーイが話す、ホテルの裏口からでてちょっとした坂を上ったり下りたりする北へ一直線の道、というのに興味を覚える。このような近道があったようで、裏口から御組坂の下側まで下りて、そこから坂を上る道と思われる。
ボーイは、しかし、この道はわかりにくいと思ったのか、表通り(霊南坂から続く道)からの道順を教える。だらだら坂が御組坂のことで、その坂の小路をまっすぐに下った突き当たりが偏奇館であると説明している。小路は途中から二叉になって一つは偏奇館のわきをずっと下へおりて行く坂が、御組坂の下側の坂で、箪笥町の崖下に続く道であろう。
御組坂(3)の記事にも書いたが、この下側の坂は埋め立てられて、もはや見ることはできない。
川本三郎は、「荷風と東京 『斷腸亭日乗』私註」(都市出版) で、昭和16年ころ丹波谷坂の中途に住んでいた奥野信太郎による随筆「市兵衛町界隈」を引用している。以下、その引用部分である。
「(市兵衛町)一丁目六番地に荷風の偏奇館があった。通称"柳の段々"と称する石段を降りて谷町の谷を通り、さらにその対岸にあたる崖の上に出れば、その小さな平地に偏奇館が建っていたのである。山形ホテルというのがちょうどこの柳の段々の上にあって、そのホテルのロビーから眺めると、偏奇館はほとんど真向かいにあたっていた」
その柳の段々という石段が、上記のボーイのいう北へ一直線の道の下り坂なのであろうか。偏奇館あたりの風景(1)の記事にのせた荷風のスケッチを見ると、山形ホテルの裏側に石垣が見えるが、ここにその石段があったのだろうか。興味がつきないが、いずれにしても表通りを回って行くよりも近道であったと想われる。
(続く)