東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

玉川上水公園(2)

2010年08月24日 | 散策

しばらく歩くと、荒玉水道道路を横断する。この道路は、ここから北側で、右の写真のように、神田川の谷に向けてまっすぐに下る坂になっている。下っていくと神田橋で神田川を渡り、そこをすぎると、井の頭通りに至り、さらに北へと延びている。

荒玉水道とは、大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を砧(現・東京都世田谷区)から野方(同中野区)と大谷口(同板橋区)に送水するために使用された地下水道管のことで、当時、東京の発展に伴う人口の増加による、上水の需要増により敷設されたとのこと(Wikipedia)。この荒玉水道に沿って荒玉水道道路がある。

玉川上水は台地の尾根をとおっているといわれるらしいが、このあたりでは神田川の谷がせまっているため崖ぎわに沿ってつくられたという。

ここから先(下流側)が玉川上水第三公園になる。

歩き始めてからずっとそうであるが、セミがたくさんないており、かなり騒がしい。これぞ夏という感じである。

左の写真は、木の比較的低いところでないているセミを見つけて撮ったものである。アブラゼミ二匹、クマゼミ一匹が写っている。

玉川上水は、江戸時代、幕府により江戸市街の拡大に対応するためにつくられたもので、多摩川そばの羽村(現・羽村市)から四谷大木戸(現・新宿区内藤町)まで距離約43kmの素堀りの上水路である。

しばらく歩くと、いつのまにか右の写真のように幅広の公園になるが、周りよりも低くなっている。上水の堀をそのままにしたものらしい。

玉川上水の建設事業は、承応二年(1653)四月に庄右衛門・清右衛門の二人が建設工事を請け負い、その年の十一月に完成させた。かなりの突貫工事であるが、それだけの経験と技術を持っていたのであろう。

さらに進むと、下高井戸橋のところで途切れるので、いったん、甲州街道の歩道にでる。上は高速道路のため、このあたりから先は車の騒音でかなりやかましい。

左の写真は、その下高井戸橋である。欄干がかなり古びていることがわかる。

玉川上水は、四谷大木戸からは暗渠になり、四谷見附から外濠を越え江戸城までの幹線と、四谷見附から外濠に沿って溜池の西側を通り虎ノ門までの幹線を承応三年(1654)四月に完成させたとのこと。

赤坂・虎ノ門を経て、銀座・築地・八丁堀・新川などの埋め立て地に主に給水され、南は古川を限り(一部は超えて)給水されたという。

橋を越えてから、ふたたび玉川上水の跡に入ることができるが、ここから先は、右の写真のように樹木で鬱蒼としており、先ほどよりも上水の堀がそのまま残っているようで荒れた感じである。

下流側の明大前に立っていた説明パネルによれば、下高井戸橋から下流側のこの一帯は、玉川上水永泉寺緑地とよぶとのことである。

やがて、高速の下で行き止まりとなる。そこに、「玉川上水路敷」の使用許可の説明パネルが立っており、使用目的が公園敷である。玉川上水公園と緑地は杉並区が東京都水道局からかりてつくったものとのこと。

高速道路の下の甲州街道の歩道を東側にしばらく歩くと、築地本願寺和田堀廟所の門をすぎ、さらに進むと、明治大学和泉校舎の入口前に出る。この前に明大橋の石柱があり、玉川上水跡の説明パネルが立っている。

下流から上流に向かって、玉川上水公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んで、全長約2000mとのことであるが、玉川上水第一公園というのがない。道路拡張かなにかで消滅したのだろうか。あったとすれば、玉川上水第二公園の西側のはずだが。

 説明パネルから先が玉川上水公園である。入口近くは自転車置き場のようになっており、進むと、左下に井の頭線が通っている。さらに進むと、広場がある。

この公園は井の頭通りまで続き、玉川上水の跡はこの通りでいったん途切れる。

左の写真のように、通りの向こうに、都水道局和泉給水場のタンク二基が見える。
(続く)

参考文献
肥留間博「玉川上水」(たましん地域文化財団)
菅原健二「川の地図辞典」(之潮)

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