江戸切絵図を見ると、霊南坂下からほぼ真っ直ぐに、汐見坂上と榎坂上との交差点を通って北側に進み、突き当たりを右折したところに葵坂というのがある。溜池の池尻近くである。調べてみると、いまは存在しない坂となっている(石川)。
永井荷風の「断腸亭日乗」昭和7年(1932)4月5日に次の記述がある。
「四月五日。雨ふりてはまた歇む。晡下銀座に徃く。道すがら、潮見阪下旧伏見宮屋敷跡の空地を過ぐ。虎の門金毘羅社裏手に向きたる平地は野球練習場となりたれど、西隅一帯は岡をなし松椎桜檜などの老樹茂りたり。いづれも震災の際火を免れしものなるべし。其中一株の銀杏あり。幹の半面は焼けたる跡あれど、今猶枯れず。見事なる大木なり桜は宮家にて植えたるものなるべし 江戸名所の葵ヶ岡といふはこの岡のあたりなる由東京名所図会風俗面報社編纂の説くところなり。葵阪の滝といひしも此岡に昇る道のほとりに在りしなるべし。溜池と上水堀埋められて地勢一変したれば今は明には知り難し。明治三十年頃には虎の門外に猶濠残りて在りし故現在の如く東京倶楽部門前の道路はなく。道行く人は宮家西隅の高き石垣下の道路を歩みしやうに記憶す。即現在虎門外公園裏手の道なり。・・・」
荷風は上記の日記のあとに、次の註を付して下の自作の地図を添えている。
「霊南阪江戸見坂ヨリ溜池電車道虎門ノ辺古今ノ変遷大畧左図ノ如シ葵阪ノ滝ハ溜池ノ水ノ堀ニ落込ム処今日電車通東京倶楽部門前公園地ノ地尻ニ当ル辺カト思ハル」
上の地図を見ると、葵坂の位置がよくわかる。
荷風がいう、虎の門金毘羅社裏手に向きたる平地とは、現在の国立印刷局や虎の門病院などがある一帯で、その西隅一帯の岡が江戸名所の葵ヶ岡で、現在の共同通信会館やJTビルのある辺りであろう。
葵坂は金毘羅社の方から岡に上る坂であったようである。この坂上側に溜池の堰(上の図にも示されている)があって、堰から流れ落ちる滝を葵阪の滝といったらしい。
溜池は明治20年(1887)に埋め立てで消滅したが、荷風によれば、明治30年頃には虎の門外にまだ濠が残っていたため昭和7年当時の東京倶楽部門前の道路はなかったとしている。
上の荷風作の地図は、嘉永三年の切絵図をもとにし、今昔混合であり、むかしの溜池と滝からの下流を示している。この水は新橋下を通って今の東京湾に注いでいたとのこと。
(続く)
参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
永井荷風「断腸亭日乗」(岩波書店)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)