東京さまよい記

東京をあちこち彷徨う日々を、読書によるこころの彷徨いとともにつづります

葵坂の坂跡

2010年08月31日 | 坂道

前回の記事の葵坂は、現在、存在しない坂(石川)とされているが、その跡を訪ねてみた。

午後虎ノ門駅下車。

桜田通りにでてちょっと歩くと、右手に金刀比羅宮の参道がある。社殿を左に見ながらここを通り抜け左折する。

左の写真は左折した通りを見たものである。写真の左手に境内の樹木が見える。 ここは、直進すると汐見坂の中腹にでる通りである。

江戸切絵図を見ると、金刀比羅宮はコンピラとなっていて、四国丸亀藩主の京極佐渡守の屋敷の中にある。

上記の通りの右手が、葵坂の滝から流れてくる水の堀があったところである。

上記の通りを進み、次の虎の門病院の手前を右折した通りが葵坂の坂跡(坂下)と思われる。

右の写真は坂下側から撮ったものである。坂上は広い外堀通りにつながる。坂上側がかなり緩やかだが上りとなっている。

横関は、今はほとんど忘れられて、さびれた裏道の坂の一つとなってしまった、と書いているが、それは昭和30年代の話であって、いまは、大きなビルの間を通り抜ける一方通行の二車線のなんの変哲もない通りだが、さびれた裏道ともいえない通りとなっている。

この坂の右手一帯は、戦前には、虎ノ門公園であったようで、荷風の記述ともあっている。この公園のわきに満鉄東京支社があったという。

葵坂の由来は、他の説もあるらしいが、近くの江戸名所である葵ヶ岡(地名)とするのが妥当のようである。

左の写真は坂上側から撮ったものである。この外堀通りにでるあたりで少し傾斜している。これが葵坂の名残りであるのか不明である。

上記の公園は、金刀比羅宮の脇の通りと葵坂と外堀通りとがなす三角形状の土地で、その坂上側の先端角が写真の左側にわずかに残っている。樹木が植えられた三角形状の狭い公園である。

横関によれば、葵坂は平坦な小さな坂になってしまったとしているが、坂上の葵ヶ岡やこの辺りの小高いところの土は、溜池の埋め立てのとき、すべてくずされて、その築地のために使われたとし、葵坂の勾配もそのとき削られて平になったのであろうと推測している。

前回の記事の荷風作の地図には、葵坂わきの堀の対岸に石垣の跡が示されている。横関は、江戸城外堀の西南端を示す石垣(その著書に写真在り)であったとし、その一部が昭和28年に都史跡に指定されたらしいが、今回、どこにあるのか(どこにあったのか)わからなかった。
(続く)

参考文献
石川悌二「江戸東京坂道辞典」(新人物往来社)
横関英一「江戸の坂 東京の坂」(中公文庫)
「古地図・現代図で歩く戦前昭和東京散歩」 (人文社)

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