Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

無賃乗車の神?2

2007-11-03 13:06:08 | Weblog
無賃乗車の神?2            2007-11-02

キセルや無賃乗車のことを薩摩守(さつまのかみ)と言う
のは、平忠度(ただのり)に由来するしゃれで、狂言の薩
摩守にも使われていることから、日本人は古来より、この
しゃれを楽しんできたようです。しかし実際のと言うか、
平家物語に描かれている忠度都落ちは、このしゃれとは
全く無縁で、とてももの悲しい話です。

テレビが一般家庭に普及する以前に、我が家では父が
時々、昔話をしてくれました。私の父は、話上手で、話は
いつも面白く、心わくわく聞いたものでした。その中で、
いつかこの話をしてくれたことを今でも覚えています。私は
父が平家物語を自ら読んだかどうかは知りません。しかし
昔の日本人は、少なくとも私の父は、今は歌われなくなった
唱歌「青葉の笛」 からこの話を知っていたようです。

 『更ける夜半に 門を叩き
 我が師に託せし言の葉哀れ
 今わの際まで持ちし箙(えびら)に
 残れるは花や今宵の歌』     

その話(平家物語、巻第七、忠度都落。上の歌詞では
前半2行)をArui流に訳します。

都を落ちた筈の薩摩守忠度(さつまのかみただのり)が、
どこから舞い戻ったのでしょうか、侍五騎とわらべ一人を
伴って、五条の三位(藤原)俊成卿の館の門前に立ちま
した。門は堅く閉ざされています。薩摩守が、 「忠度です」
と、名乗りを挙げましたが、館の内では、 「落ち武者が帰っ
て来た」と、騒ぐばかりです。 薩摩守は馬から降りて、
自ら大声で宣言しました。 「特別の訳があって来たのでは
有りません。三位殿(俊成のこと)に伝えたい事があって、
忠度がやって来ました。たとえ、門は開けなくて良いです。
私の近くまで寄ってきて下さい。」

すると、俊成卿が、 「忠度殿なら問題ない、開けてお通し
しなさい」と、門が開いて対面されたのです。薩摩守の申し
ますには、 「長年に渡って歌の指導を受けて以来、大変
有り難いことだと思いながらも、この2・3年は、都の災い、
国々の乱れが、当家の上に降り掛かって、いつも気になり
ながらもお伺いも出来ませんでした。帝も既に都を落ちて
おり、一門の運命も、最早、尽きてしまいました。 勅選
和歌集が編纂されると聞きました。生涯の面目のために
1首でも採用されたいものだなと念じておりました。その内
に世は乱れて歌集の話も沙汰止みになり、誠に残念です。
また世間が落ち着けば、勅撰の話も復活するでしょう。
この巻物の中に、私が作った和歌が有ります。吟味して頂
いて、たとえ1首でも載せて頂けたら、草場の影で喜びます。
そのご恩に報いるよう遠くからお守りいたします。」

そう言って鎧の引き合わせの処から取り出して、巻物を
俊成卿に差し出しました。その巻物には日頃から詠んで
いた歌の中から、これは良いというものを100余首書き記し
てありました。これを手に取った俊成卿は、 「このような
忘れ形見を頂いたからには、決して粗略には致しませぬ。
信じて下さい。このような時に、よく御出で下さいました。
貴方の深い思いに、感涙いたしました」と、申されました。
薩摩守は喜んで、「もうこれで、西海の底に沈もうと、屍
(しかばね)を山野に晒そうと、この世に思い残す事は有り
ません。さらばお暇(いとま)申します」と、馬にうち乗り甲の
緒を締めて、西を目指して去って行きました。
 
俊成卿が門前に立って、遙かに見送っていますと、薩摩守と
思しき声が、”前途程遠し、思ひを雁山(がんざん)の夕べの
雲に馳す”と、遠くから高らかに聞こえます。俊成卿もあまり
の名残惜しさに、涙を押さえて館の中に入るのでした。

その後、世の中が落ち着いて、俊成卿は千載集(せんざい
しゅう)を編纂されましたが、忠度の在りし日の姿、言い残した
言葉が、今更のように思い出されて感慨に浸りました。あの
忘れ形見の巻物の中には良い歌がいくつも有りましたが
勅撰ともなると氏素性を明らかにせねばならず。今や朝敵と
なった平忠度の名は出せず、故郷の花と題された歌1首が
詠み人知らずとして選ばれたのです。

    ” さざなみや 志賀の都は あれにしを 
               昔ながらの山桜かな ” 

こんな良い歌を詠み人知らずにしなければならなかったのは、
誠に残念なことでありました。