Aruiのスペース

自分の身の回りで起こったことの記録であったり、横浜での生活日記であったり・・・です。

平家物語2

2007-08-03 10:26:55 | Weblog
平家(ちょい詳しく)               2007-08-03

さて、源三位頼政と以仁王の反乱軍(と言っても平清盛
に対する反乱)が清盛の軍勢に負けてしまうくだりを講読
して、私個人がとても面白いなと感じたところがありました。

当時の日本は、殆ど平家によって治められていました。
とは言え、東国の田舎に平家の人々が赴くなどと言うこと
は無く、彼らは全て都住まいであった訳です。にも拘わら
ずことが起これば、兵力を差し出さねばならず、その場合、
兵員は東国の領地から遠路はるばるやって来ることに
なります。

頼政・以仁王軍に対峙したのが、下野国の住人、足利
又太郎忠綱とありますから、栃木県足利市からやってきた
訳です。頼政軍は平等院に立て篭もります。平等院の
前には宇治川が、今と違って、水量豊かにとうとうと流れて
いて、平家の軍勢も立ち止まってしまいます。

以下私の訳です:その時足利忠綱大声張り上げ『強い馬を
上流に置け、弱い馬は下流に置け。馬の脚が届くうちは
手綱を弛めて歩かせろ。足が届かないくらい深くなったら
手綱を引き締め泳がせろ。下流に流される者には弓の弦
を掴ませろ。手を取り肩組み合って渡れ。馬の頭が水中に
没したら引き揚げろ。手綱を強く引け。鞍壺にしっかり乗って
あぶみをがっちり踏め。水びたしになったら、馬の尻に移動
せよ。馬には優しく、水には強くあたれ。河中では弓を射る
な。敵が射てきても応戦するな。常にしころ(兜の周りに
垂れ下がっている部分)を傾けて矢を防げ。傾け過ぎるな。
(傾け過ぎると兜のてっぺんが敵に見えて、矢に対して無
防備になる)川に直角に渡れ。水には逆らうな』と叱咤激励
します。これにより300余騎、1騎も流さず向こう岸へざっと
ぞ打ち上げたる。

そして平等院の門の中に攻め入ります。その時の忠綱の
名乗りです。『昔、朝敵平将門を滅ぼし、勧賞を賜って後代
に名を残した俵藤太秀里の十代の後胤、下野の住人足利
太郎俊綱の子、又太郎忠綱、生年17歳』うーん、わずかに
17歳のガキだよ。続きます。『このように無位無官の者が、
宮様(以仁王は先代天皇の次男宮)に向かって弓を引き
矢を射ること、大変に恐れ多いことではありますが、平家の
命令なのでお許し下さい』と詫びも入れます。そして『源三位
入道殿の軍勢の方々、我と思う人は出てきてお相手下さい』
と宣言して門の中に入り、攻め入り攻め入り戦ひけり・・・と
なっている。なんともご丁寧な挨拶で傷み入りました。
   

平家物語

2007-08-02 10:13:23 | Weblog
平家物語                 2007-08-02

5月中旬に虫の居所と言う題でBlog upしました。あれは
平家物語を読み通すと言う文化講座の中での話でした。
4月初旬から始まったこの講座も4ヶ月目に入り、話は愈々
平家の絶頂期から、そろそろ下がり目に入るかなと言う処
にさしかかりました。絶対権力者平清盛は娘徳子を80代
高倉天皇の中宮に据え、その御子81代安徳天皇は清盛の
外孫に当たると言う、自分が天皇になる以外の方法として
は最高の地位に昇り詰めます。

しかし、そうするためには当然のこととして、実の天皇家を
排除して行かなければなりません。高倉天皇の父、77代
天皇で在らせられた後白河法皇をないがしろにし、幽閉
します。法皇に味方して平家に反旗を翻そうとする計画を
潰し、首謀者を惨殺し、共謀者を島流しにします(歌舞伎
でも有名な俊寛)。ついに高倉天皇の異母兄であり、後白
河法皇の第二皇子であった以仁王(もちひとおう)が源
三位頼政と相携えて、立ち上がります。

この時、平氏打倒の令旨は諸国の源氏に伝えられ、これが
後には平氏滅亡のきっかけとなったが、企ては発覚、源氏の
勢力が結集する前に平家の軍勢に打ち負かされ、鵺退治で
勇名を轟かせた源三位頼政も、宇治の平等院で討ち死に
してしまいます。(ここを先日講読しました)

こういった情勢が伊豆に蟄居させられていた頼朝にも伝えら
れ、彼が立ち上がることで、源氏の諸勢力が集結し、平家
打倒の大きなうねりとなって行きます。

歴史年表では:

1108 平正盛、源義親を討つ。平家の台頭。
1171 徳子中宮となる。
1177 徳子、言仁親王を産む。
    清盛の父、重盛没
    清盛、後白河法皇の院政停止
1180 4月 高倉天皇の退位を受けて言仁親王即位
       (安徳天皇)わずかに3歳の天皇です。
    6月 頼政、以仁王の挙兵。このお二人が、もう堪り
       かねて立ち上がった様子が判ります。
    8月 福原遷都 これが清盛のケチの付き始めです。
   11月 京都へ環る。
1181 2月 清盛没    この後はポンポンと飛ばして
1185 3月 壇ノ浦合戦。 平家の滅亡。以上たったの80
           年間で目まぐるしく歴史は変転しました。
清盛に着目すれば、全盛期から10年余で滅亡してしまいます。