ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

共感のしどころ

2012-10-17 10:39:41 | ひとの幸福
イブが保育園に行くのに、保育園に関係ない物を持って行くと言って、叫んでいる。

母親は「そうだね~、持って行きたいよね~、でも・・・」と言っている。

イブは共感して貰った喜びなど無い様子。

火に油を注いだよう。

育児書の多くに共感が大事、と謳われている。

それでやってみて、やりっぱなしじゃなく、よく観察することが大事。

この場合逆効果。

「あいつを傷つけたい!」「あいつを殺したい!」に共感したらどうなるか・・

そうだよね~、殺したいよね~

と言ってるのとこの場合同じことかと思う。

何を共感するのか・・と今までも書いたかもしれないけど、何を書いたか忘れた。

保育園にコレを持っていくぅ!と叫ぶように“なっているそのわけ”に共感することが、

ポイントなんじゃないか、と思った。

娘が言うには赤ん坊を産む前、自分が保育園に連れて行ったときは、

行きがけにこんなふうになることはなかった、と。

今は二階に住んでいる姑さんがイブを連れて行っている。

さっき、姑さんがイブを連れて行く途中で、

お母さんがいい、お母さんと行く、とイブが言ったそう。

アダムが生まれてから、この発言は初めてのようで、

イブは母親と保育園に行きたい気持ちを無意識のうちに抑えていたのかもしれない、と思った。

ぐずりはそういう気持ちが表現を求めていたのだろう。

保育園に関係ない物を「持って行くぅ!」の言葉の裏には、

お母さんと保育園に行きたいという気持ちがあったのだろう。

共感て、それに共感することであって、

保育園に関係ない物を持って行きたい・・に共感することじゃないのだと思った。

大人でもイライラやぐずぐず、腹立ちになる、その元に共感して貰うことで、

救われる気持ちになることはあるだろうと思う。

それは“そうなっている”心の状態に共感することなんだと思う。

傷つけたい、や殺したいという言葉の奥に、その人のそうなるべくしてなっている心がある。

その傷ついた心が癒されなかったら、(共感されなかったら)

表現である行為や行動は変わらない。

共感で癒されるのは人が人と共に存在するもの、一体で在るものだからだろう。




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公約

2012-10-16 21:49:43 | ひとの幸福
「やるって言ってたのにやってない」と言って人を非難することがある。

でも、日本語の動詞の現在形はどれでも未来を表現している。

「歩く」にしても「走る」にしても「話す」にしても「やる」にしても、

歩く予定、歩くつもり、走るぞ、やるよ、話す予定、話すつもり・・みな現在を表

現しているんじゃない。

かたちは現在形だけど、表現内容は未来のこと。

「歩く」の現在を表すのは「歩いている」だ。

「私は歩く」と聞けば、「へぇ、いつ?」と言われるだろう。

未来のことはわからなくて当たり前。

予想なんていちいち言わなくても、「やる」という表現は全部予想予定のことに決まっているのである。

予定・予想は外れることも当たり前。

公約も「やる」と表現している。

出来ないこともあるのは当たり前なのであんなに騒ぐことはないのかと思う。
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わからない・・④

2012-10-16 15:17:21 | ひとの幸福
小さな子供を育てているとき、子の行為を褒めたり、貶したりをずっと続けていると、

見事に不自由な人間が出来上がる。

いろんな事をする度に、こーしてよかったかな・・?

あーすればよかったかな・・・

こんなことしてどう思われるかな・・

と迷いに迷う。

自分が行う行為に他人の尺度のよいことをしようとする。

ひとは元々、真善美を求めてしまう存在だから、

良きものを求めるのは当然なんだけど、ひとの尺度に合わせていると、

ひとは人の数だけいるから、迷うのは当然。

自分の行為を自分の尺度ですっきり決められない。

不自由な人間になるようになるようにと、ひとはせっせと褒めたり貶したりしている。

在るがままを認める、受け入れるということは褒めることじゃない。
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わからない・・③

2012-10-16 15:06:29 | ひとの幸福

小さなときから、ナニカが出来れば褒められ、出来ないと無視されたり、労わられたり、

非難されたりしていると、

他者からの褒貶にとても敏感になる。

他者からの褒貶に囚われるようになる。

アレが出来たからコレを褒美にやる、という交換条件を付ける事によって、

いっときは頑張ったりするけど。

これは権利義務観念に通じる。

コレだけやったんだからアレを寄こせ、寄こすべきだ、になる。

何も出来ない、何もしてないんだから何も得られないのは当たり前だ、になる。

ナニカを得たいなら、ナニカをするべきだ、になる。

引き籠もりの人は夫々いろんな理由があるんだろうけど、

今の世の中の権利義務ナンタラに愛想をつかしているんだったら、いい傾向だな。
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わからない・・②

2012-10-16 14:51:58 | ひとの幸福
誰にでもわかることとわからないことがある。

わかることはわかるし、わからないことはわからない。

ずっとわからないでいたことがわかった時は嬉しいもんだ。

あー、なるほど!そうなのか・・となるのは嬉しいもんだ。

それは他者から認めてもらう嬉しさとは違う。

わかったことを誰からも褒めてもらわなくったって関係ない。

貶されたって関係ない。あら、そう、だ。

認めてもらえば嬉しい、認めてもらえないと悲しい、というのも気持ちはわかるけど、

その喜びは、ひとまかせ、他者まかせ。

勿論、それがいけないなんてことはない。
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わからない・・・

2012-10-16 14:43:59 | ひとの幸福
夫から赤ん坊が泣くわけがわからないの?と言われてむっとしたと言う、娘。

赤ん坊について母親はなんでも知っている・・なんて思ってるんだね~^^

娘の腹立ちに、一瞬わけがわからなかったけど、そうか!と思った。

娘はいわゆる頭がいい子で学校の成績はよかった。

何でもよくわかって、賢いね~・・みたいな賛辞を受けたことがあるんだろう。

私もそうした。

そういう賛辞・褒賞を沢山受けると、

「わかる、ということはいいこと」なのだな・・

・・というプログラムが潜在意識にインストールされる。

その反対である、「わからない、というのは良くないこと」

・・というプログラムも自動的にインストールされる。

「泣くわけがわからないの?」という言葉を聞いて、

お前はダメだ、みたいに言われたように思ってしまう。

泣くわけがわからないの?という問いの答えは、

はい、わからない と いいえ、わかります のどちらかなはずだけど、

そうなってしまう。

賛辞・褒賞をすることによって、何が起こるか・・?

一時は褒められると嬉しいけど、

よく効く抗生物質みたいに、それは必ず副作用をもたらす。
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お願い!

2012-10-15 10:30:42 | 日々の暮らし・思い出
昨夜、何日か前に録画した懐メロみたいな番組を婿さんがつけてくれた。

昭和50年代の懐かしいウタを楽しんでいた。

そこへイブが来て、アンパンマンのビデオをかけて、と言ってきた。

私はこのウタ番を聴いてもいたいし、やってみたいこともあったので、イブにこう言った。

これ、おばあちゃん、見たいの。アンパンマン見たいのにごめんね。

そう言ってオーバーに手を合わせた。

3才の子供にこんなことをしたことはなかった。

わが子がそんな年頃のとき、私は権力者だった。

子供に頭なんか下げるもんか、夜の時間は大人が見る権利がある・・・

そんな感じだったなぁ。

子供になめられてたまるか・・なんて小さな子に向かって粋がっていた。

勿論子供が大人をなめるようになるのは避けたいとは思う。

けれど、「私はこうしたい」と言うことが子供を生意気にはさせないだろう。

他者も同時期に同じように自分はこうしたい、という望みがある時、

それでどちらか一方しかそれをやれない時、

どうしてもしたかったら、他者にお願いするしかない。

今回私の主張を降ろすことなんか簡単だった。けれど、やってみた。


“やってみて、相手はどうなったか”・・・

「これ、おばあちゃん見たいの・・」と言った私の様子をじっとイブは見ていた。

反論もせず、じっと見て聴いていた。

そして何も言わずに隣の部屋に行った。

後でそーっと様子を伺うと、一人で絵本を拡げて見ていた。

またしばらくして見に行ってもまだ絵本を一人で静かに見ていた。

今回の“やってみて”はこの「見たいの」と言ったことだけでないと思う。

ここのところ、イブを否定せず、意志、こころを聴いている私がある。

“ごろつき”と言ってた頃はイブを評価していたことがあったけど、

そんな自分に気付いてからはイブがいつも可愛く見える。面白いものだ。

ほんとにごろつきだよ・・って思ってた時は、どう見てもイブがごろつきにしか見えなかった。


自分のことをいつも聴いてくれる人の言うことは聴こう、

・・という気持ちになるのは当たり前なんだろうと思う。

本当にいくら3才でも人と人は相互作用で変化していくものだと思った。

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もう10日

2012-10-14 15:11:06 | 日々の暮らし・思い出
石垣に来てもう10日になる。

振り返ってみれば、夫や義父のこと、ほとんど思い出すこともない。

忘れている、といってもいい。

夫も義父も本当に快くここへ送り出してくれた。まぁ、いつもそうなんだけど。

ひと月近くここに居る事を、もし夫や義父が渋々やイヤイヤながら送り出したなら、

私はそういう彼らのことが気になってここに居ても、

彼らに関心が向くことになるんじゃないだろうか。

心地よい関心ではなく、今頃、どう思っているんだろう、とか、

早く帰って来いと言うんじゃないか・・という不安で。

彼らのことを忘れるなんてことにはならないだろう。


私が家に居ないことを彼らが忌々しく思うわけがないと、

わたしの心は100%なっている。

こういう私の心は彼らと共に作って来たこころだ。

私たち家族が共に作って来たものだと確信を持って言える。

どちらか一方だけで作って来た心じゃない。


そういう心だからかと思う。彼らのことを100%忘れてしまう。

彼らを思い出すにしても、心地よく思い出すだけだ。一瞬の間。

済んだ過去のナニカが気になることがない。

これだから、過去にやったこと、やらなかったこと、みんな忘れてしまうのか・・と思った。

気になることは忘れないからね。

昔、研サンが進むと忘れっぽくなる、という謎の言葉を聞いたことがあるけど、

もしかして、こういう意識の仕組みでそうなる、ということなのかなと思った。


それと同じように、これからの未来のことも不安に思うことがないというのは、

一瞬先も明日のことも1年後のことも10年後のことも気になることがないからなのか・・

と思った。

具体的にこれからがどうなるかなんて皆目わからないけど、

不安に思うのは当たり前でしょう、と言われたとしても、不安に思えない。

どの人ともこの心さえあれば、何があっても何がなくても大丈夫。

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待てない

2012-10-13 14:24:50 | ひとの幸福
世の中を見ると待てないでイライラする・・・ことをよく見る。

待つのは人だけじゃない。洗濯ハンガーピンチの絡みが絡まなくなるようになるのを待てない・・・

雨で洗濯物が乾くのを待てない・・・・

お腹が減っているのに、レストランで頼んだ物がなかなか来ない!と・・待てない・・

子供が何かをするのに時間がかかるのを待てない・・

道路が渋滞で車がスムースに進めるまで待てない(違う道に出ようとする)・・・

前を走っている車の速度が遅いのを待てない・・・


子育てでも「待てるお母さんになりましょう」なんて掛け声だけはあるけど、

どうして待てるように“なる”のかは誰も教えてくれないし、

それを考えようともしなかったから、旧態依然なんだろう・・なぁ。

どうして待てないのか、その検証が十分じゃなかったんじゃないかと思う。


そういう「待てない」という思考にどうして“なる”んだろう・・・?

早く事を終わらせたい、んだろうか・・?

それを早く終わりにして、次のしたいことをしたい、のか・・?

今やっていることより、これからのことに気が行っている・・そういうことか・・

今という時間に今いるのに、今という時に共に生きてない・・・

イライラするのは当然なんだ~

目の前は今ここなのに、目は今ここに無いモノを観ている。

そりゃ、イライラするわ~


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「・・「こころ」の子育て 」 ②

2012-10-12 14:18:06 | 日々の暮らし・思い出
それが何故出来なくなっているのか???

親もその親から話を聞いていてもらえなかった・・からかもしれない。

話をしたとき、いや、話というほどまとまった話じゃなくても、

ここが痛いとか、何かが嫌になっちゃったとか、やる気がしないとか、・・

そういったことをただ、あら、そうなの、って聞いてもらえるだけでいいんだと思う。

実は今朝、起きて洗濯物をたたんでいたら、イブがやって来た。

その部屋にはキティちゃんの家セットが置いてある。ままごとセットだ。

「キティちゃんで遊ぼうよぅ」とイブが言う。ここでそれを見たら当然の運びだ。

ここで二人して、昨日これで遊んだから。

片付けておかないといけないな・・でも今は・・

まだ朝飯も食べてないし、保育園にも行くんだしなぁ・・と、つい即答的に「今はダメだ」と言いそうになって気が付いた。

イブの気持ちを聴いてないな、と。それで、

「そうだね~、遊びたいね~、でもおばあちゃん、ほら洗濯物たたんでいるでしょ、

あ、これ(ランチョンマット)初めて見たけど、

どこにしまうのか、イブ知ってる?」

ちょうど、それをたたんでいるときだったので、話をままごとから逸らすことが出来た。

すると、イブはすぐに「これは・・の部屋のタンスのとこ」と言って、

さっさと持って行った。そして又戻ってくると、

私が何かを言ったわけじゃないのに、他の洗濯物も、しまう場所を知っているのだろう、運んだ。

小さな子は今ここに生きているなぁ。


話を聴く、本当に聴くだけでいいのだと思う。

こんな時聴けない状態に“なる”のは

瞬間的に、こんなこと言ったら、遊ぶ羽目になるんじゃないか、

保育園に間に合わなくなるんじゃないか・・といった、不安が頭をもたげる場合が多い。

そういう時、覚悟があればどうってことない。

保育園に間に合わなくてもいい、遊ぶことになってもいい、その時考えよう・・

こんなふうに思えると楽になるもんだ。思いを放すって奴。


聴けないときのわけ・・他にもいろいろあるだろう。

又ちょうどいい例題がきっとあるに違いない。そうしたら書くね。
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「親だからできる『こころ』の子育て」①

2012-10-12 14:12:30 | 本を読んで
尾木ママの本である。

娘が講演会にって買ったものらしい。面白い。

なかにこういうのがあった・・・最近の子供たちの大きな特徴として、「人の話を聞けない」。

聞かれる心地よさをふんだんに体験している子供であれば、

目を見開き、耳を澄ませて人の話を聞こうとするもの。

「学級崩壊」や「キレル子現象」など、子供のおかしさが話題になればなるほど、

大人たちは耳をふさいで(子供の声に)、

指示・命令を出し、訓練で現象を封じ込めようと躍起になります。

こういう現象に対し、尾木ママは子供たちの自尊感情をいかに高めるかについて、

もっと真剣に考える必要があるのではないかと言っている。

そうだなぁと思う。

教育現場でも家庭でも子供たちはいつもあるべき姿を求められている・・・

それらを実行できないのが人間であるという、リアルな人間認識を持てるかどうかということです・・・

加えて失敗してもそこをくぐりぬけながら「仲良く」なり、

「団結」できたという経験を積み重ねることです。

そのプロセスを通して人間への信頼が生まれ、自信も芽生えるのです。

目に見える行為が問題なのではなく、プロセスが必要なのです。

教育実践や子育てというものの本質は、

人間同士が複雑にからみ合った「動態」的な関係を基礎に、

豊かな感性と人格が形成されてゆく営みではないでしょうか・・・

・・・以上、「あるがままの我が子を受け入れて」という章からの抜粋です。

本当にその通りだなと思う。

それが何故出来なくなっているのか???

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言葉遣い

2012-10-12 10:43:10 | ひとの幸福
3才のイブに向かって、「もう食べなくていいよ」と別に怒っているわけでもなく娘が言う。

イブは「食べるぅ!」と叫ぶ。

多分、昨日だかに書いた褒美のデザートが食べれなくなるということがいやで、

そう反応するのかと思うのだけど・・・

食べなくていいよ、という言葉遣いを、何度か続けて言っていたので、なんだか変な感じがして来た。

なんだろう?・・・

このことで思い出した。

舅と同居してそれほどの日にちが経ってない頃、

何かの料理を作って出したけど、それが美味しくできてなかったので、

無理して食べないでくださいね、という意味合いで、舅に「食べなくてもいいんですよ」と発したら、

舅は「何をぅ!」という感じで、さっと顔色を変えた。怒った顔付きになった。

誤解されたと思って、慌てて、いや、そういう意味じゃなくて、

美味しくないから無理して食べたりしないでくださいね、って言いたかったんです、と言った。

したら、すぐにそうか、とわかってくれたんだけど。

私に対して6年9ヶ月の間に怒った顔を見せたのはその時だけだ。

穏やかな義父だけど、あー、誇りを傷つけられたと思って怒るんだなぁと感慨深かった。

他者のする行為(食べる)に対して、行為しなくてもいいよという上から目線を発するのは、

3才にしても嬉しくてたまらないことじゃない・・のかもしれない。

それをやっている今ここで、それをしなくてもいいよ、と上から目線で第三者が言う・・・??

3才でも行為の主体は自分だということがわかっている・・んじゃないか・・




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コトバ

2012-10-12 10:02:01 | ひとの幸福
物を落とすと、割とすぐにイブは「お母さんが拾う!」と言う。

何か不自然な感じがしていた。

親が「自分で拾いなさい」なんて言うと、すぐに「お母さんが拾う!」。

いたちごっこ。

これはなんなんだろう・・どうしてこうなるんだろう・・?

イブは3才と1ヶ月。去年5月会ったときに比べるとコトバが飛躍的に増えた。

親は子が言葉を話すようになると、どうしてもコトバに頼るようになる。

あーしなさいこーしなさい、という便利なコトバを使うようになる。

コトバで相手(子)を動かそうとする。

そしてコトバを使い始める子供は2才前後からだ。この時期の子供は京大のチンパンジー?の研究でもあったけど、

(以前引用したことがあった)

生活習慣などは周りの大人の行動を的確に緻密に観察し、

言葉によらなくても全部その通りやれる(真似る)ようになる、という。

この時期の子供の脳波もそうするように“なっている”よう。

その脳波のときは大人でも鵜呑みモードなよう。

子供は親の“言う通り”には“ならない”けれど、親の“する通り”に“なる”。

この例も、この通りの現象が起こっている、んじゃないか・・・

「自分で拾いなさい!(自分で落としたんだから)」とコトバを発するので、

その言葉使い、イントネーションを観察して真似る・・「お母さんが拾う!」

前も書いたけど、自分がしたんだから自分で落とし前をつけろ、という理屈は子供には通用しない。

それ以前の人生で自分のことは自分ではない誰かがみんなやっていたのだから。

オムツの交換、洗濯、食事、移動、全てやってもらうのが当たり前だったので。

なので、理屈ではない、「拾いなさい」というコトバ、そのイントネーションを真似ている・・・!?

・・・そんな気がする。


“コトバ”で教える、のは、知識であって、その人の行為や行動じゃない・・んじゃないか。

そこのところ、大人は間違えているんじゃないか・・
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ごろつき ③

2012-10-11 21:46:20 | 日々の暮らし・思い出
イブがご飯をパクパク食べないので、食べるようにと、

夕飯を全部食べきったらデザートを与える、というふうにしていたようで、

イブはデザートを食べたくてたまらないから、しょうがなくてご飯を食べる・・

食べられなくてご飯が残っているときに、もう片付けていい?と聞くと、

凄い大声で食べる!と叫ぶ。

悲痛な叫びだ。

好きなデザートを食べたいからだと思う。

デザートが褒美になっているから、デザートがほしいがためにご飯を食べるそのことが苦役になってしまう。

イブにとってひどいことだと思った。

ご飯もデザートもそのものを美味しく食べることが出来ない。

嫌な思いをしてやっとありついたデザートだ、と浅ましい気持ちになってもおかしくない。

ご飯を食べないから、食べるようになるようにと子供の好きなデザートで釣った。

ご飯をぱくぱく食べるようになったか・・?

欲しいもののために仕方なくイヤイヤ食べるようになった。

いや、常にイヤイヤではないだろうとは思う。

好きなものならパクパク食べるだろう。

好きでも好きじゃなくても食べ終わると、デザート寄こせ、食べたんだから当然だろう・・となる。

当然の要求だ!とプラカードを上げることになる。


願っていることが実現したか、それを観ることなしにずっとデザートを褒美にしていた。

子供は見事に親の思う通りになる。

子供は見事に親の見方を体現する。

そして親の願っていることは見事に実現しない。

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ごろつき ②

2012-10-10 20:36:44 | 日々の暮らし・思い出
「ごろつき」を書いた後、いろいろ考えた。

イブのそういう態度をなんとかしよう、というのが自分にあった、とやっと気が付いた。

イブのそういう態度を問題と観ていた自分だった。

問題と観るから、それを解決したくなる。

そこに関心を寄せることになる。

けど、その時のその現象に関心を寄せても何もよいことがない。

既に現象化していること自体は仕方が無い。既に起こったことだもの。

あー、そうかと在りのままを受け入れるしかやることはない。


ごろつき的態度を見たその時は、そのうち変わるさ、と笑って流してたらいい・・んじゃないか。

そう思った。

そして、それとは別に、

そういうごろつき態度が出なくなるようなこちらの在り方を見出すことかと思った。
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