ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

このブログと付き合って・・

2017-07-31 16:07:31 | 日々の暮らし・思い出

このブログを書き始めてもうじき丸6年になるようだ。

ずいぶん長い時を過ごしてきたなぁ、ここで。

このブログの前は会員制のブログというのか何というのかわからないけど、

受けたセミナーの人たちだけのものに書いてた。

このブログに移ってからも書くことで考えることが面白くて面白くて

書かずにはいられない、という感じだった。

とにかく頭に浮かぶことを構わず書いていくと、

村上春樹さんじゃないけど、自分の知らない世界にどんどん降りていく感覚があった。

この自分の指でパソコンのキーを叩いているんだけど、

自分じゃない誰かが私に書かせているような感覚だった。

次にどんな文章がこの白い画面に打たれていくのか、

自分でもわからないことがしょっちゅうあった。

書き終わると、あぁ、今日はこんなふうになったのか・・・

という驚きがその頃毎日のようにあった。

自分で打っているんだけど、なるほどそういうことだなぁと思ったりした。

だから、打たれた文章のことは

ナンタラ何子という私の行為行動と全然関係なかった。

私の実態とは全く関係なかった。

けれど、その文章について深い納得を得た時、

自分の中の何かが変わった、と思う。

でもそんなもの、その時のことであって、今ここのことじゃない。

その時深く納得したことを、それは正しいと決めつけて、

また苦しむこともあった。多々あった。

そのことに気づいて、正しいとか、間違ってるとか、

そんなこと判断できないことだと納得しても、

また、何度も何度も同じことをしてしまう自分だよ。

このブログを見るとそんなことがたくさん書かれてある。

相も変わらず・・・だ。

 

まぁまぁ、しょうがないよねぇ。

これが自分なんだもん。

ま、いいか、しかないねぇ。


村上春樹 『職業としての小説家』

2017-07-30 14:13:44 | 本を読んで

久し振りに村上春樹さんの本を手に取った。

前回読んだのは、多崎つくると巡礼のとき・・・と記憶してたら、

やはり記憶違いでありました。

「色彩を持たない多崎つくると巡礼の年」でした。

この程度の記憶力、といったらカッコつけ過ぎくらいなこの頃の私で、

読んだという朧げな記憶はあるんだけど、

内容をすっかり忘れていて、今、ネットを見たら筋書きがあって、

あーぁぁ、そういうのだった・・・です。

今回のは゛自伝的エッセイ”とあったよ。

やっぱり、この人を私は好きだなぁと思った。

そして凄いとやっぱり思った。

強いと思った。

頭と身体が一致してる。

他者にずかずかと踏み込まない、というか、

そうすることで誰にも何もいいことがないということを知っている。

小説を書くことが大好きで楽しくて面白くて大変でその大変さを放り投げられない、

面白いから。きっと。

そんなふうな自分でしか在りようがないんだろうなぁと思う。

まぁ、だれでも今のような自分でしか今現在は在りようがないものだけど。

小説を書かずにはいられないんだと思う。

言葉を紡いで自分の心の奥底まで降りて行くことの恐さや面白さから

抜けられないんだろうなと思う。

いい人生を送っているんだろうなと思う。

とても読み応えがあった。


ベランダのミニトマト 2

2017-07-29 14:10:13 | 日々の暮らし・思い出

以前にここに書いたベランダのミニトマト・・・

願い通り、枯れもせず、病気にもならずに寿命を迎えることになりそう。

甘くならなくてもいいから元気でと願ったもの。

売り物のミニトマトと比べ小さな粒だったけど、

ちゃんと適度に甘くどれも美味しく有難く頂いた。

7才が気に掛けてくれて、赤くなったのを次々と採ってくれた。

家族の人数分を数えながら今日は二つずつ食べられるとか・・・

多肉植物や観葉植物も置いてあって、

ベランダにそういう緑があるのは本当に嬉しい。

ちゃんと育っているか、病気してないか、その成長ぶりに、

いわゆる、目を細める、というんだろうな、そういう時の私の目つき。

植物は喋らない。

犬や猫も喋らない。

植物や動物に身の回りにいてもらうのは成長ぶりを見る喜びと、

お世話させてもらう喜びが得られて、

尚且つ、人みたいにめんどくさくないからだろうな。


ゆく物事の流れは絶えずして・・・・

2017-07-25 16:09:36 | ひとの幸福

人に対して不信感が生まれた場合、

それを相手でも日記でもメモにでもいいけど、出さずにいると、

ずっとそれを心に持ったままの状態になりそう。

自分が感じたその思いはその後の相手の行為行動に色を付ける。

そう、いわゆる色眼鏡でその人を見てしまう。

ホントに仲良くなれない。

ずっとそこで止まってしまう。

変わっていくことができなくなる。不自然。

自然や物事や人、何もかもが変わっていくものなのに。

思いを持ったままというのは不自然なことなのだ。

・・・自分に言ってる。

この前、人と話していて、持っていた思いがすーっと放れていく経験をした。

あ、こういう感じ・・と思ったんだ。

出す、というのは自分を客観視できる一つの方法だ。

 

この頃、何もかもが動いていく・・止まっていない・・・と

強く思うようになった。

孫と暮らしているからかもしれない。

一喜一憂がホント意味ない、とよく思う。


多欲不知足

2017-07-25 14:19:50 | ひとの幸福

身体能力については少欲知足だけれども、

心になんのざわめき、ひっかかりもないように・・

という欲が多いのは「多欲不知足」だなぁと思う。

こんな自分は恥ずかしい・・なんぞとすぐ思ってしまう。

そのままを愛してやってない。


負けず嫌い と 負け鈍感

2017-07-24 21:55:23 | 日々の暮らし・思い出

じゃんけんで負けた人が残ったお菓子をもらえることにしようということになり、

まぁ、年老いた人が子供のお菓子の取り分を減らすのもなんなんで、

この勝負、私は降りたんだけれども・・・

7才が勝った。すると、7才は泣き出した。

こういう場合、いつも7才は怒るけど、今日は泣いた。

真剣に泣く。涙をぽろぽろこぼして泣く。

いわゆる「負けず嫌い」という奴なんだろう。

今日の場合は勝った方がお菓子をもらえないというルールだったけど。

「負けず嫌い」を広辞苑で調べると、

強情で他人に負けることをとりわけいやがること。かちき。とあったよ。

負けず嫌いという傾向は持って生まれたものなんだろうなぁと思う。

育った状況でなってきたものだとは思えない。

 

何故か負けず嫌いなのだ。何故かそうなのだ。

おぎゃあと生まれた時から、何故かこうなのだ。

反対に、負けても悔しいと思わない負け鈍感人も何故かそうなのだ。

おぎゃあと生まれた時から、何故かそうなのだ。

努力して美人に生まれるわけではないのと同じで。

まぁ、負けず嫌いな自分を変えたいと、取り組んでそうなることもあると思うけれど。

負けず嫌いだと負け鈍感より悔しさというストレスは多いのかと思う。

負け鈍感も負け鈍感以外の面で又別のストレスがあると思うけど。

負けず嫌いの人は向上意欲が強いといえるんじゃないか。

その勝負に勝とうとして頑張る努力家になるともいえる。

仏教の言葉かな、「少欲知足」というのがある。

今、広辞苑を見たら「知足」というのは老子の言ったことのようだ。

その意味は現状を満ち足りたものと理解し、不満を持たないこと。とある。

欲が少ないと苦しみがないのは当たり前だ。

欲しくても得られないというストレスが元からないんだから。

 

私は子供の頃から体育も苦手で、走るのも遅く、

ボール投げも上手に投げられず、

ドッジボールの球が飛んで来るのが恐く、

バレーボールの球も打ち方がわからず、

跳び箱も飛べず、

逆上がりも出来ず、出来ない尽くめだった。

運動会は恥ずかしいことばかりで好きじゃなかった。

恥ずかしく思うのはそういう姿がみっともない、と思ったからだ。

そりゃ、多くの面前で美しく速く走れるのは格好がいい。

けれど、また跳び箱の授業だぁと、うんざりした覚えがない。

また、鉄棒やらなくちゃならないのかと嫌になった覚えがない。

幾らできなくても、跳べるようになりたい、逆上がりができるようになりたい、

という欲求が強くなかった。

そりゃ、出来たらいいなぁというのはあったけど、

すぐにあきらめる傾向も昔からあった。

出来なくたっていいや・・・これ。

出来ない自分に不満がない。

まさしく身体能力に対しては少欲知足だ。

だからのほほんと体育音痴でずっと来た。そのせいでだろう、

骨密度というのをこの前初めて測ってもらったら低かった。

若い頃運動をうんとしてきた人の骨密度は高いらしい。

骨は筋肉なんかと違って簡単にできないそうだからね。

でも、今更しょうがないし、まぁ、筋肉でも鍛えるかとは思ってる。

骨折して痛い思いをするのはいやだなぁと思うから。

う~んと、長ったらしく書いてるけど、

向上心がなく、足りない足りないともがかず、

出来なくたっていいもんで来た横着者が、

多くを望み、頑張る人よりそういうストレスが少ないというのは

公平じゃないという気がする。

まぁ、美人に生まれなかった私もそのへんは公平じゃないとはよく思うけど、

もうそれについてはあきらめの境地にいるからいいんだけどね。

だから、この世は本当に平等じゃない。

努力なんてちっぽけなもんだと思ってしまう。

何にもしない方が世のため人のため地球のため宇宙のため・・・

と、こんなふうに短絡的に思ってしまうのも悪い癖か・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今泣いたカラスが・・・

2017-07-22 10:58:02 | 量子力学と心

小さい人、孫らと暮らしていると、自分が本当によく見える。

孫らの言動は本当にくるくると変わって、

今泣いたカラスがもう笑ってる・・・というようなことはしょっちゅう。

全く自分勝手な人たちである。

分別ある大人と全く違う。そう、分別がない。

元々「分別」というのは仏教から来ているらしいね。

分けて考える、なんて発想がないから孫らは自分勝手で自由なんだわ、きっと。

~こんなことで泣き騒ぐのかと驚き、

その大声にうんざりするが、せいぜい二、三分。

本当に涙ぽろぽろこぼしていても二、三分後には笑ってる。

孫ら・物事はどんどん変わっていくということを大いに実感するよ。

あんなに泣いたのに、こんなに早く笑ってしまったらみっともないとか、

メンツが・・なんてのがないからね~

それに4才児には何と言っても理屈は通らない。全く通らない。

泣き騒ぎをやめさせようと、つい理屈や

こちらがそうするわけなんぞを話そうとしても聞く耳は持たない。

結果二、三分では済まなくなるのはずいぶん経験した。

そんなのは非局所的に存在している量子(意識)を局所的に存在させてしまう。

そういうことだと思うよ。

いっときの泣き騒ぎを問題視しなきゃいいんだ。

そうなるのは量子力学で明らかなんだなぁと思うよ。

頭だけでなく身をもってわかりました。

が、まだ体得まで行ってません。

 

 

 

 

 


しようと思ったこと・・・が・・

2017-07-21 17:28:43 | 日々の暮らし・思い出

 ひとが発する言葉は 常にそう発した瞬間の気持ち。

それには気持ちにないことを言いたい、ということもあるし、

わざと嘘の気持ちをいうこともあるかもしれない。

まぁ、いろいろ含めて気持ちは状況によって変わることが

あるのは当たり前のことなんだけど、

そう言ったのに とか、

約束したのに とか、

言う事とやることが違う・・・と自分や他人を責めることがある。


まぁ、思っても言わなければいいんだけど、 言ってしまうと、

言うこととやる事が違う と言われてしまう。


でも、「やる」っていう動詞が表わす内容は未来のこと。

明日これやるよ、とかね。

今、これやるよ って言っても、

実際にやるのはそう言った瞬間より後の時点のことだからね~。

なので、「やる」「やります」 って聞いたら、

そのつもりなんだな、変わるかもしれないな、変わらないかもしれないな、

って聞くのがその動詞の正しい聞き方と言えるかもしれないな。


なので、言うこととやったことが違うのは当たり前のこと。

一瞬先のことであっても、

未来のことは誰にとっても予想、予定でしかないのはその通り。


人も刻一刻と動いているし、

周りの何もかもが、刻一刻と動いているからね~。


でも、言ったらどうなるか、ということに全く向かないというのも、

素晴らしいとはいえないけど。

自重しよう。

出来ないかもしれないけど・・・


「なる」

2017-07-18 22:04:22 | 言葉

古事記や日本書紀には「なる」という言葉が一番多いそうだ。

養老先生の「無思想の発見」に出ていた。

どんな物でも、事でも、目に見えるもの、見えないもの、ぜ~んぶ、

在るものは なってきたものだ。

この日本語は本当にほれぼれする。

お母さんになる。春になる。雨になる。

優しい気持ちになる。石油からプラスチックになる。

地球のいろんな堆積物から石油になる。

土から器になる。木から机になる。

大人になる。出来るようになる。やれなくなる。

悲しい気持ちになる。嬉しくなる。眠くなる。

ケンカになる。仲良くなる。

批判したくなる。非難したくなる。

認めたくなる。やりたくなる。

戦争になる。平和になる。



「なる」は現在形の言葉だけど、

それまでの全ての時空を含んでいる。



当たり前 と 問題なし

2017-07-17 11:34:22 | ひとの幸福

ほにゃ子が自分勝手に行動するのも当たり前!

ほにゃ助がめーめー甘え泣きするのも当たり前!

お母さんがその子らをうるさいと思うのも当たり前!

・・・その口調に咎めるものが微塵もなかった。

昨日のわが娘の言葉であります。

それを聞いて素晴らしい!と思った。

仏の物差し、と言ってもいいと思ったよ。

受容。

受容とは問題無しと観ることだ。

善意であれ悪意であれ、なんとかしよう、というのが一切ないということだ。

受容しているときの心には人間の物差しが作用してない。

 

 

 

 

 

 

 


お騒がせしているのは・・

2017-07-16 16:26:23 | ひとの幸福

「お騒がせしました」

「世間をお騒がせして申し訳ございませんでした」

という言葉を所謂悪いことをした人が言うが、

世間をお騒がせしたのはその人ではなく、

その事件を広く世の中に向かって発したマスコミである。

悪いことをした人があっても、

報道しなければ世間は騒ぎようがない。

・・・これって、以前に書いたやつなんだけど、

これを書いた時よりもっともっとマスコミはお騒がせ度を高くしている。

なんでこんなのやっているのかなぁと思うことがよくある。

いい気分にならないからすぐ消してしまう。

新聞にもあったけど、要は儲かるからなんだ。

お金が入るから。

本当にそこには仏の物差しなんて無い。

この世はこれからどうなって行くんだろう・・・

この世は螺旋状に進化する、なんて考えてたけど、

甘かったのかなぁ・・・

 

 


赤ちゃんが泣くと・・・

2017-07-16 16:20:55 | ひとの幸福

赤ちゃんが泣くと、周りの人は、

何を言っているのだろう?

何を現わしているのだろう?何を伝えたいのだろう?

オムツが濡れて気持ち悪いんだろうか?

お腹が空いているんだろうか?

どこか痛いんだろうか?

どうしたいと思っているんだろう?

・・・と観察する。在りのままを見ようとする。

言葉 という障害が無いから 迷わず観察する。

言葉のわからない外国人と接する時もそうだ。

何を伝えたいんだろう?

何がしたいんだろう?って。

何を伝えたいんだろう?っていうのは理解とは違う。

観察だ。解釈なしの在りのままを見ようとする心だ。

言葉がわかるばかりに、在りのままを見られず、

自分の解釈で見てしまう。


「世逃げのすすめ」ひろ さちや さん。

2017-07-11 14:43:41 | 本を読んで

この本からの引用です・・・子供と財産は仏からの預かりもの・・・

勉強が嫌いな子供もいます。ほとけ様は

「この子は勉強が嫌いな子供なんだ。この子を幸せにしてやってくれ」

と願って、その子を親に預けられたのです。

なにも「この子を勉強好きな子供に改造してくれ」

と頼んでおられるのではありません。

生まれつき障害を持った子供のことも、

仏は障害を取り除いてやってくれと人間に預けたのではなく、

「障害を持ったまんまのその子をそのままで幸せにしてやってくれ」

と言って預けた・・・そうな。

途中で障害を持つようになった場合は仏はなんというのだろう?

・・・もちろん、その障害を持ったままで幸せにしてやってくれ

と、望んでおられるのだろうなぁ。

昔よく聞いた、「雨なら雨で」と晴れではない天候を

ひとは受け容れる。割とたやすく。

自然のしわざには人は最初から願望を放棄している状態なのかもしれないねぇ。

願望をもってもすぐ手放せるんだろうなぁ。

隣の家の障害を持った子供に人は同情は寄せるけれども、

無理な願望を抱かない。

やっぱり゛我が子”は預かりものじゃなく、

断固として預かりものじゃない!私が産んだんだっ!

俺の子だっ!になるんだねぇ。

スピノザが願望の放棄は幸福そのものと言ったと記憶してるけど、

「放せば豊か」と似てるねぇ・・・

 


人間の物差し、仏の物差し

2017-07-10 21:01:36 | 本を読んで

ひろ さちやさんの『世逃げのすすめ』という本を読んだら、

なかに「人間の物差し」「仏の物差し」という言葉があって、

上手い言葉遣いだなぁと思ったよ。

人間の物差しというのはどんなもの、どんなこと、でも

良し悪し、優劣、高低、大小、美醜、左右、前後・・という、

それも細かな目盛りがついてあるけど、

仏の物差しというのは目盛りが無い、

というようなことを言っておられるのかと受け取った。

そのもの、そのことをただ、何の判断もせず、

そういうもの、そういうことと受けて、

それならそれでと、そのことを預かる、といった感じ。

物も人も仏からの預かりもの、という解釈が彼にはあるからだろう。

仏とか、預かりものとかの表現は抵抗がある人もあるかもしれないけど、

文章全体から伝わって来る何かがあればいい、と思う。

 

しょっちゅうこういう境地だったらどんなに人生は快適だろうかと思う。

何も恐いものなしだ。

 

この程度の自分でもほんの時たまこういう感じになることがある。

そういう時はやっぱり仏の物差しでそのもの、そのことを観ているんだなぁと後でわかる。

しょっちゅうこういう感じになるのはやっぱり自分が

仏さまと呼ばれる頃・死んでから・・なんだろうねぇ。

 


気持ちの不思議

2017-07-10 19:03:30 | 日々の暮らし・思い出

しばらくここに書いてない。

メモみたいな書いてる途中のが三つ四つあるけど、

ここんところ、忙しく?じっくりと座ってない。

この前、同居している娘と話しているとき、

こういう暮らしが今は一番いいと・・・

それ以外のことはまだまだ無理と・・・

そんなふうに自分の中で決めていたなと思った。

夫と共に暮らしたい、ということを今はダメと決めていたなと思った。

そうは言っても、暮らしを変えることが

明日にでもという感じではないんだけどね。

なんか、自分が決めていた、と気づいただけで、気持ちが軽くなったんだよ。

気持ちって本当に面白い。