ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

克服・克己

2012-12-27 17:24:08 | 量子力学と心
克服・・広辞苑では努力して困難にうちかつこと。

克己・・・おのれにかつこと。

意志の力で、自分の衝動・欲望・感情などをおさえること。

克服しようとすると困難は去らない、去りにくい、と思う。

“克己”は大変だ。

実に適切に説明してくれる。

困難という言葉、

こういうのも主体を何処に置いているかで違う。

困難という状況に主体を置けば「現われる」「消える」になり、

「私」対「困難」というふうに捉えると、

私が主体になり、「うちかつ」になる。

克己 というのは

「私」対「私」と捉えているので、

私が私を「抑える」ことになる。

克服も克己も生命の動的平衡という性質から、

必ず副作用的な現象が起こる。

見ようとすると見えない・・という量子(意識)の性質からみると、

克服しようとすると克服できない。


書くこと ②

2012-12-27 16:49:03 | 実例体験観察
昨日だったか、「書くこと」というネーミングでこれを書いたのは。

もっとずっと以前の日かと思ったら、たった一日前のことだ。

「パソコンに向かって今日は書くことがないな、と思う。

最近はよくそう思う。」

・・・昨日コレを書いた私は書こうとしていた私だった。

書こうとすると書けない。こういうことだ。

画家がキャンバスに向かって絵を描く。

あれはこう描こうとして描いているわけじゃないと思う。

こんな感じ、描きたいというエネルギーが出て来てしまうのだろうと思う。

表現とはそういうもんだ。

描かずには居られない、そういったふうかと思う。

書くことがないなと思った私は、書こうとする私だったからだ。

書こうとしなければ書くことがないな、とは思わないはず。

書くことが無いとわざわざ思うというのは何かしら前提がある。

書くのがいいとか書かなくちゃ・・とか。

けど、その後に、

「さっきのはなんとなく書き始めたらあんなふうになった。

そうしたら、以前のも書き変えたくなって、書き直したりした。」という文章が続いている。

その時、思ったままを書くと次がある、という感じがした。

何があろうと、ま、いいか。

なるようになるだけだ。






存在

2012-12-27 16:10:12 | ひとの幸福
ドラマなんかを観ていると、

人を「身体」という存在としてしか見ていないように見えることがある。

「心」という存在だとして見ていない・・ように見えることがある。

なんでもっと厚い洋服を着ないんだ!なんて吐き捨てるように怒って言う。

身体を案じているのである。

そういう言い方をしてその相手がその時どう感じるか、

どういう心の状態になるか、そういったことは頭に無いようにみえる。

そういう言い方をされてもちっとも気にならない場合や人はあるけれど、

どう観ても今のこの人はそういう受け取りが出来ない状態と思える場合でも、

そうする人や場合がある。

仕方の無いことではあるけれど、

ひとを心だとしてないので起こることなのかと思う。

ひとを身体という存在としてしか見ていない。


見ようとすると見えない ⑧

2012-12-27 14:01:30 | 量子力学と心
わからないから見ようとするわけで、

(見ようとすると見えない=見えるように“なる”と見える)とすると・・・

例えば、世間で凶悪な事件を起こした人に対して、

他の人には見えないその人の元々の優しさが見えると、優しさが見える。

この文章はおかしいかもしれないけど、

その人に優しさを見ると優しさが現われる、見えてくる。

これは、今まで書いて来たけど、

こころで観るものが現象化する(Aとして見るとAになる)・・・ということか?

(ピグマリオン効果と同じの。)

それをAと見ると、それはAに見える。Aとなる。

露出狂をキャー!イヤラシイ!と見ると、イヤラシイ行為は続く。

これはなんだろう?どういうことなんだろう?と見ると、その行為は終わる。

このことって、

それがなんだか(わからないから)なんだろう?と・・見ようとすると見えない・・ということのぴったりな例なんじゃないかな??

見えないってことは露出狂が見えなくなるってこと。

実際その通りだったしね。ズボンを上げて去って行った。

この場合、何を見ようとして何が見えなかった・・のか・・

わからないものを見ようとしてわからないものが見えなかった。

わからないとわからない、そういうことを云っている???


ピザパイ

2012-12-27 13:10:47 | 実例体験観察
昼ごはんにピザを食べた。

このところ、「ピザを食べたい」という思いが時々現われたことがあった。

なんでこんな面倒くさい表現になるんだろうね~自分でもいい感じじゃないなと思うよ。

時々ピザを食べたくなった・・の方がスッキリしてていいのにね。

でもその表現とちょっとニュアンスが違うな、やっぱり。

・・んで、今日スーパーに行ったらポルチーニピザというのがあって、

あまり安っぽいんじゃなかったし、クリスマスが過ぎて半額だったので買って、

それを昼に食べた。

あー、美味しいってならなかったけど、

これでピザが食べたい、という思いに駆られることはなくなる、って思った。

ようするに気が済んだ、という感じ。

他のものではこんなふうに、(ピザ“が食べたい”)が出て来ることがない。

石垣に行った時も(ピザが食べたい)が出て、食べた。

その時も今日も食べながら、不味いわけじゃないけど、

「あー、美味しい!」ってならない。

炊き立てのご飯を卵かけで食べる時、しみじみ、「あー、美味しい」ってなる。

食べてみて、あー美味しいなぁってならないのに、

ピザが食べたいってなるのはなんなんだろう??

気が済んだ・・・というのは何なんだろう?

書くこと

2012-12-26 17:13:27 | 日々の暮らし・思い出
パソコンに向かって今日は書くことがないな、と思う。

最近はよくそう思う。

さっきのはなんとなく書き始めたらあんなふうになった。

そうしたら、以前のも書き変えたくなって、書き直したりした。

この前、これからこのブログがどうなっていくのかなと思って、そんなことを書いた。

生きている限り考えるだろうというようなことを書いたようだ。

書いてから、そうかなぁ?が浮かんだ。

何も考えることなく過ごせる日々が来るかもしれない。

考えることなく、ただ気が向くままに生き、在るがままの状態の自分でいて、

尚且ついつでも誰とでも流れるように快適に過ごせる・・・

素敵なことなんじゃないかって思った。

考えたことが全部自分の血肉に“なって”。

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見ようとすると見えない ⑦

2012-12-26 15:05:55 | 量子力学と心
見ようとすると見えない・・・のは目に見えないものを云ってる。(と思うので)

何故見ようとする、のかというと、見えないので、見ようとするわけだ。

見えていたら、見ようとする、なんてことはあり得ない。


見える、ということはどういうことか。

いや、物なら「見える」という言葉を使うから、「観える」と言い直そう。

「観ようとすると観えない」というのが量子という意識の性質だとして、考えると・・

「観る」でもなく「観よう」でもなく、

「観える」とはどういうことかというと、

「観える」とは心の“状態”を表現している言葉かと思う。

「観える」は観ることが出来る“状態で在る”・・ということだ。

私は逆上がりが出来る、という表現は私の身体能力の状態を云ってるのと同じで。

~という状態で在る・・とは~という状態に“なっている”ということ。

観える人は観える。わかる人はわかる。思える人は思える。

観えない人には観えないし、わからない人にはわからないし、思えない人は思えないし、

逆上がりが出来ない人は出来ない。

やれ、思えと言ったって無理なように、出来ないときは出来ないし、観えない時は観えない。

観えないから観ようとするわけで、観えていたら、観ようとはしないので、

「観ようとすると観えない」というのは、

言い方を変えれば、「観えるようになったら観える」ということかと思う。

「見よう」でも「観よう」でも、今は見えていないということを表わしているのだから、

見ようとすると見えない、というのは当たり前ということになる。

「心の状態が(観えるように“なる”)と観える」と云っているのと同じことか。

眠ろうとすると眠れない・・・とは「眠く“なる”と眠れる」と云っているのと同じだし、

眠ろうとするのは、今、眠くなってない状態で在る、

ということを表明しているようなもので、

当然眠れない状態のままということになる。

量子力学の実験がいっているのは、「なる(状態が)と、なる」ということかな。

なるようにしないで、ただ「しよう」と思ったって無理だよって云っているのかな。

『般若心経』は覚ったひとの心の状態が表現されている所もあるように解釈してる私だけど、

仏教は量子力学と通じるものがあると感じる。

忘れようとすると忘れない・・・動的平衡

2012-12-24 14:14:52 | ひとの幸福
「忘れようとすると忘れない」・・・・

これもまた、見ようとすると見えないという量子の性質と同じことかと思う。

前に書いた私の実験・・・使わない裁縫箱の引き出しに1万円札を入れておいて、

それを忘れて、ある時、たまたまそこを見たら、

「あら、こんな所に1万円が在った!」と喜ぼうと企み、そこに置いた。

忘れようと思った・・が、これは絶対忘れない。

「忘れよう」と思った記憶はなかなか消えない。見事に消えない。

もしかそこが自分の普段居る場所じゃなければ、長い時間と共に忘れることもあるかもしれないけど。

失恋なんかもそうだろうし、震災のような辛い経験もそうだろうと思う。

「コレを忘れよう」と思うということは、コレが在る、という前提がある。

無いものを忘れる、ということはないし。

他である対象を~しようと意識するとき、それは“操作的介入”というものかもしれない。

忘れる、ということは自然現象かと思うけど、

それに「忘れよう」という操作的介入をすると、

自然であるところの“意識”は不自然な「忘れよう」という干渉を受け、

その干渉に抵抗しようとする。

押されれば押し返し、沈めようとすれば浮かび上がろうとする、動的平衡の姿なのかと思う。

そしてまた時間的経緯によって起こる動的平衡を経て、

その干渉が無いよりは長い時間がかかって忘れることが起こる。

意識という生命は福岡伸一ハカセの言う動的平衡の姿そのものだ。


頭と練習

2012-12-23 11:48:53 | ひとの幸福
「頭でわかって実行出来るに練習要る」という言葉があったっけ。

これは身体を使うこともそうで、

楽譜を見てピアノが弾けるようになるには、

この楽譜のこの音符はこの鍵盤だということがわからないと始まらない。

楽譜も読めるようにならないといけない。

どの指でその鍵盤を敲くのかも頭でまずわかることが要る。

そうして頭でわかっても、何もしなければ、指はわからない。

練習することだけが実行できるように“なる”方法だ。

指の状態が弾けない状態から弾ける状態に変化する事、それが体得。

私も一応バイエルは終わって、その時は先生から丸をもらったけど、

その後ピアノをほとんど弾いてないので、ペーパードライバー状態だ。

体得までに行ってないのに練習をやめてしまった。

でもちょっとやると、指が幾らか憶えていることはわかる。

いつかまた弾きたいというのがあるから、

買った電子ピアノは部屋にどんとあるけど・・・

さて、いつその気になるか・・・・???

まぁ、これは脱線でして。

身体の動きもそんなふうに状態が変化することが、

出来るように“なる”ということ。

心・意識も囚われやキメツケの無い幸福という状態に変化するのは、

頭でわかることと練習が要る。頭でわかることも大事だと思う。

知識が知恵になるのだから。そして、

体得するには多くの練習が要るのかと思う。

たくさん失敗しなければならない。

自分の意識の状態に無自覚では始まらない。


なくそうとする

2012-12-23 10:27:34 | ひとの幸福
「なくそうとする」と「なくなるようにする」は大違い。

なくそうとしたら、なくならない。

なくなるようにしたら、なくなる。

この「なる」主体は現象であり、凡ての時空が含まれている。

勿論自分も含まれている。

なくそうとする、という意識はそこに自分が入っていない。

自分以外の外部を変えよう、という意識。

・・ここまでは以前に書いた文章。

その続きにこれを加えたい。

それはうまく行かない。

全ては共に存在するものだから。

現象は複雑な網の目のように全てのものが互いに影響し合い出来ている織物のようなもの。

一箇所切れば全体が影響を受けるもの。

なくそうとするとなくならない・・これは哲学的にも量子力学的にも言えることかなと思うんだけど。

量子はものであってこころであって。


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コトバで

2012-12-22 16:50:13 | ひとの幸福
養老先生が「都会に住む人間は意識でどうこう出来るって思ってる」ってよく書いている。

これは一つの思考、コトバで対象である状態を変えようとしてる、ということかなと思う。

だから都会に居る人は参勤交代みたいに年に一度は何ヶ月か田舎で暮らせばいい、というようなことも言っている。

そういう解決法もあると思う。

コトバで農業や漁業は出来ないし。

ただ、コトバで作物は大きくならないことはよくわかるけど、

人に対してはコトバでなんとかなると思っている人は農業従事者や漁業従事者にもいるかと思う。

都会に居てもコトバでひとをなんとかしようとしない人もいるかと思う。


経験

2012-12-22 13:14:33 | ひとの幸福
林檎の状態が未熟から完熟に“なる”には時間が要る。

時間とは人間で云えば経験だ。

・・・人間で云えばと、さっき書いたけれど、人間に限らない。

林檎も経験している。

その時の気温、居る場所、世話する人間の気持ち、風、太陽の熱、光、

そんな全ての経験をして、林檎は熟す。

人間も経験によって変化する。

その経験を経験しているのに経験していないこともある。

何度も何度も何百回も同じ失敗をしても又同じ失敗をするのは、

経験しているのに経験してないのと同じだ。


それが毒饅頭で、食べて何度も身体をこわしたのに、又食べるのは、

まだ一度も食べてない状態である、というのと同じ。

経験してない。経験による身体の変化を感じてないのは経験してないのと一緒だ。

身体は経験してるのに意識・思考が経験してない。

こういうのを無自覚というのだと思う。


「~してはいけない」

2012-12-19 15:05:09 | 量子力学と心
例えば、「偉そうにしてはいけない、謙虚で在るべきである」

・・というような言葉がある。

「えらそうにしてはいけない」という言葉が云っているのは、

“して”はいけない、というように、“行動して”はいけないと云っているわけだ。

けれど、「えらそう」とはかもし出される雰囲気を表わしている言葉。

その人の心が現れているということだろう。

目つき、顔つき、言葉遣いなんかを他者が見て、

目には見えないその人の心である「えらそうさ」を感じる。

なので、そう行動してはいけない、と言っても、

目に見える行動は変えられるかもしれないけど、

目に見えない心である「えらそうさ」は変えられない。在る。


「偉そうにしてはいけない」と「偉そうになれない・ならない」とは違う。

偉そうにしてはいけない・・・は、偉そうに出来る、という前提がある。

「えらそうさ」が在ることがこの表現には隠れている。

傲慢さは在るけれど、それは隠す方がいいので隠しなさい、と云っているのと同じかと思う。

「偉そうにしてはいけない」という言葉がそう言っている。

私が言っているわけじゃない。

「偉そうにならない」・・これはその人の心には「傲慢さ」が無いということ。

無傲慢という状態。

そういう境地からの行為行動は「えらそうさ」は出ようが無い。

元々無いのだから。

『見ようとすると見えない』で表わされる量子の性質がここにもある。


見ようとすると見えない ⑤

2012-12-19 14:19:00 | 量子力学と心
幾つか前に引用したバイオリン青年の言葉・・・

「美しく弾こうなんて、しなくていいんですね。既にこの曲は美しいのだから」

美しく弾こうとすると美しく弾けない、ということだ。

これも量子理論通りかなと・・・。

その青年が行き詰まったそれは心が二つの世界になっていることからの発想かと思う。

自と他との二つの世界が在るという前提がそこにある。

バイオリン青年の咄嗟に出た言葉・・

「美しく弾こうなんて、しなくていいんですね。既にこの曲は美しいのだから」

・・多分自然に出たこの言葉は、その曲と自分とが“一つになる”そのことだと思う。

そして又、美しく弾こうという発想の出処は、

そのものが美しくない、という捉えが無意識のうちにある、ということだ。

美しくないから美しくしよう、という思いが出る。

既に美しいものはそのままで美しい。

~しよう、という意識はその対象が“~になってない”という解釈から始まる。

「~なってないから、こうしよう」というわけだ。

けれど、“しよう”は行動を表わす動詞であって、

心の状態を表わす動詞ではない。心は常に在るだけだ。

心はしない。なにもしない。ただ在るだけだ。

そうなるようになるには自分の意識の状態が対象と一つに“なる”、そのことなのかと思う。

二元性を超えること。


見ようとすると見えない ④

2012-12-18 14:58:08 | 量子力学と心
無くそうとしてなくせるのは目に見えるもの。

(在るものは無くすことは出来ないけど、まぁ、

このパソコンを私の部屋からなくそうと思えば捨てることは出来る・・

・・そういう意味合いで。この場合。)

戦争反対という考えや戦争をなくそうという思考は、

戦争というものを“形ある目に見えるもの”として捉えているからではないか。

そう無意識のうちに捉えているので、それを無くそうという発想になる。

その目に見える形である戦争を無くそうとするのは一時的には出来るのかもしれない。

和平交渉とかで。

それは薬の副作用と同じに副作用はどうしても起こる。

見ようとすると見えない・・のバージョンで、これ・・・

「なくそうとするとなくならない」・・これはどういうことか?

なくそうとする、ということは存在がなくなることを願ってそうすること。

戦争という状態、存在が完全に消えてなくなるには・・・

人の意識が変わる、成長することによってのみ、そうなる。

他を敵と観る見方がなくならない限り、それは続く。

カントが「世界中から「敵意」がなくなったら平和は訪れる」と云ったそうだけど、

その通りだ。敵意は形ではない。敵意は目に見えない意識。


巨視的現象である戦争という目に見える形はあるにはある。

でもそれは目に見えないもので出来ている。

「精神と物質は表裏一体をなしているかもしれない。」と云った湯川博士の云ったとおりと思う。