昨夜、何日か前に録画した懐メロみたいな番組を婿さんがつけてくれた。
昭和50年代の懐かしいウタを楽しんでいた。
そこへイブが来て、アンパンマンのビデオをかけて、と言ってきた。
私はこのウタ番を聴いてもいたいし、やってみたいこともあったので、イブにこう言った。
これ、おばあちゃん、見たいの。アンパンマン見たいのにごめんね。
そう言ってオーバーに手を合わせた。
3才の子供にこんなことをしたことはなかった。
わが子がそんな年頃のとき、私は権力者だった。
子供に頭なんか下げるもんか、夜の時間は大人が見る権利がある・・・
そんな感じだったなぁ。
子供になめられてたまるか・・なんて小さな子に向かって粋がっていた。
勿論子供が大人をなめるようになるのは避けたいとは思う。
けれど、「私はこうしたい」と言うことが子供を生意気にはさせないだろう。
他者も同時期に同じように自分はこうしたい、という望みがある時、
それでどちらか一方しかそれをやれない時、
どうしてもしたかったら、他者にお願いするしかない。
今回私の主張を降ろすことなんか簡単だった。けれど、やってみた。
“やってみて、相手はどうなったか”・・・
「これ、おばあちゃん見たいの・・」と言った私の様子をじっとイブは見ていた。
反論もせず、じっと見て聴いていた。
そして何も言わずに隣の部屋に行った。
後でそーっと様子を伺うと、一人で絵本を拡げて見ていた。
またしばらくして見に行ってもまだ絵本を一人で静かに見ていた。
今回の“やってみて”はこの「見たいの」と言ったことだけでないと思う。
ここのところ、イブを否定せず、意志、こころを聴いている私がある。
“ごろつき”と言ってた頃はイブを評価していたことがあったけど、
そんな自分に気付いてからはイブがいつも可愛く見える。面白いものだ。
ほんとにごろつきだよ・・って思ってた時は、どう見てもイブがごろつきにしか見えなかった。
自分のことをいつも聴いてくれる人の言うことは聴こう、
・・という気持ちになるのは当たり前なんだろうと思う。
本当にいくら3才でも人と人は相互作用で変化していくものだと思った。
昭和50年代の懐かしいウタを楽しんでいた。
そこへイブが来て、アンパンマンのビデオをかけて、と言ってきた。
私はこのウタ番を聴いてもいたいし、やってみたいこともあったので、イブにこう言った。
これ、おばあちゃん、見たいの。アンパンマン見たいのにごめんね。
そう言ってオーバーに手を合わせた。
3才の子供にこんなことをしたことはなかった。
わが子がそんな年頃のとき、私は権力者だった。
子供に頭なんか下げるもんか、夜の時間は大人が見る権利がある・・・
そんな感じだったなぁ。
子供になめられてたまるか・・なんて小さな子に向かって粋がっていた。
勿論子供が大人をなめるようになるのは避けたいとは思う。
けれど、「私はこうしたい」と言うことが子供を生意気にはさせないだろう。
他者も同時期に同じように自分はこうしたい、という望みがある時、
それでどちらか一方しかそれをやれない時、
どうしてもしたかったら、他者にお願いするしかない。
今回私の主張を降ろすことなんか簡単だった。けれど、やってみた。
“やってみて、相手はどうなったか”・・・
「これ、おばあちゃん見たいの・・」と言った私の様子をじっとイブは見ていた。
反論もせず、じっと見て聴いていた。
そして何も言わずに隣の部屋に行った。
後でそーっと様子を伺うと、一人で絵本を拡げて見ていた。
またしばらくして見に行ってもまだ絵本を一人で静かに見ていた。
今回の“やってみて”はこの「見たいの」と言ったことだけでないと思う。
ここのところ、イブを否定せず、意志、こころを聴いている私がある。
“ごろつき”と言ってた頃はイブを評価していたことがあったけど、
そんな自分に気付いてからはイブがいつも可愛く見える。面白いものだ。
ほんとにごろつきだよ・・って思ってた時は、どう見てもイブがごろつきにしか見えなかった。
自分のことをいつも聴いてくれる人の言うことは聴こう、
・・という気持ちになるのは当たり前なんだろうと思う。
本当にいくら3才でも人と人は相互作用で変化していくものだと思った。