ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

1000-350=650だっ!! 

2014-02-28 10:03:00 | ひとの幸福
・・・・大袈裟に言えば「こころ美しく在りたい」という気持ちが

“恥ずかしさ”を生むのかと思う。

それは悪いことだからしない、というより、

美しくないからしない、という方が

“自分を律しやすい”のではないか・・と思った。

・・・この前書いたものなんだけど、

正しさと美しさについてもうちょっと考えたい。


正しい数式は美しい・・という言葉を読んだことがある。

数式の美しさなんてまるでわからないけれど、

E=mc2なんていう式もそのうちなんだろうと思う。

比べるものがないし、なんの知識もないからわからないけれど、

とてもすっきりしてるように見えるし、

複雑な感じもしない。ごくシンプル。

究極的な正しさというものは誰にとっても美しく感じられるのか・・・

そしてその見極めはシンプルなもの!?


「1000円札で350円の物を買ったらお釣りは絶対650円だっ!」

とむきになるほど強く主張する光景があったとする。

お釣りは650円だし、その計算は正解だけど、

お釣りは650円・・・とわかるのは計算をわかる人で、

赤ちゃんや発せられた言葉がわからない外国人には

何を言っているのかわからないし、

正しいのか正しくないのかも勿論わからない。

でも、それを言っている人の顔つき(造作じゃないよ)が

美しいか、美しくないかはわかるんじゃないか、と思う。

顔つきにはこころが出てしまう。

究極的な正しさというものは

誰にとっても美しく感じられるのかと思う、とさっき書いたけど、

1000-350=650の正しさは究極的な正しさじゃないと言うのか、

と言われそうだけど、

究極的な正しさって、そういう引き算とかの事柄じゃなくて、

心構えに在るのかなぁと思う。

心構えなんて言葉を書いたことがなかったけど、

今広辞苑を見たら、心にかけて待ち受けること。心の用意。

覚悟。心がけ。・・とあった。

「作業着がない」

2014-02-27 10:35:47 | 実例体験観察
昨日義父が「薄手の作業着がないんや」と畑に行く前に言った。

それを聞いた瞬間、(えーっと・・・作業着は処分してないよな)・・が浮かんだ。

別のジャージの上着を出してそれを着てもらった。

畑から帰って来て、私が穿いていた作業ズボンを物置の竿に掛けたら、

その竿に義父の作業着が掛かっていた。

これが彼の言う作業着だ、と思った。

彼に「あの作業着、物置にありましたよ。

この前駐車場の草取りをしたときに、そこに置いたんじゃないかな」と言った。

言った後、自分の心を振り返ったら、

言う時、ちょっと力が入っていたと思った。


何故力が入っていたのか・・・

彼の衣類を大整理したことがあって、

それはそうしたいけど、どうかと聴いて、

彼に承諾を得てやったことなのだけど、

山のようにあった彼の衣類の一つ一つを、

見てもらってやったわけじゃなかった。

彼もそういうことはどうでもいい、任せるというような感じだった。

97才の今、管理能力の低下も感じるこの頃なんだけど・・・

けれど、どうしても私の中に、一つ一つの衣類の分類を

自分の判断でやってしまった、という後ろめたさがあったのだった。

だから、作業着がないと言われたときに、少しうろたえ、

見つかった時には「在った」と力が入ったのだった。

私が処分してしまったんじゃないです、なんていう裏の声があったのだ。


義父は作業着がないんや、と言ったときに

私を責めるような口調は全然なかったし、

物置にあったと伝えた時もああそうかと淡々としていた。

無ければ無いで、他のものでどうにでもなる、

というような考えの持ち主だと、

義父と一緒に暮らしていて感じるのだけど、

ひとの衣類を勝手に処分するのは今ひとつだというのが、

私には大きくあるから、上に書いたようなうろたえやら、

弁解じみた言動があるのだと思った。

義父の実際の寛大な気持ち(多分。私が思うところ)と、

私の、ひとの衣類を勝手に処分するのは今ひとつだ、というのとが、

ずれていたにしても、

私にはそれが在るんだなと思った。

私は自分の衣類の処分の決定を自分でしたい、というのが強くあるから、

義父もそうだろう、というのがあるんだろうなと思う。

でも義父は私と一緒の考えじゃない・・んだろうと思う。

そう見える。

自分の衣類、というような執着がない感じがする。

問いと答え

2014-02-26 15:40:00 | ひとの幸福
夫が隣で数独(ナンバープレイス)というパズルをしている。

かなり集中してやっている。面白くて止められないといったふう。

これをやり始めて5,6年は経つだろう。

「もう問題も作れるんじゃない?」と彼に聞いた。

返事は「いやぁ・・」だったけど。

その時思った。数独の問題を作れるには、

解き方がわかっていることと、答えがあることがわかっていることが必要だと。

そんなの当たり前か・・・

問いを作った人は答えが必ずわかる。

プロセスを踏んで行けば必ず答えに行き着くことを

わかってなければ、“問いを作れない”

そうなんじゃないか????

問いを持てたら半分は既にわかっているくらいのことなんじゃないか・・・???


小さな子供が「これ、何と読むの?」と問う。

その文字には必ずなんらかの読み方があると子供はわかっている。

答えがあるとわかっているから問う。

小さな子が「これなぁに?」と問う。

そのものが何かのものであり、名前があるものだとわかっている。

答えがあるとわかっているから問う。

なんであの人はあんな行動をとるんだろう?という問いを持つ。

その行動をとる“わけがあること”をわかっているから問う。

「ここに在った鍵知らない?」と問う。

何処かに鍵は必ず“ある”とわかっているから、問う。

何故、空は青いんだろう?何故、地球は丸いんだろう?

何故、世界はこうなっているんだろう?

何故、人は生まれるんだろう?何故、人は死ぬんだろう?

何故、あの人は私に優しいんだろう?何故、ひとは病気になるんだろう?

何故、あの人は長生きなんだろう?どんなふうに、釈迦はさとったんだろう?

何故、あの人はあんなふうに考えるようになったんだろう?

何故、あの人はあんな事をしてしまったんだろう?

何故、私はいつも同じ失敗をしちゃうんだろう?

・・・きりがないけど、こういう問いをひとが持ってしまうということは、

その問いに答え(本当の)があるとわかっているからなんじゃないか。

答えがあるということは、そこにたどり着く道が必ずあるということ。

同じ現象を見聞きしても、そういう問いを持たない人や場合がある。

それはそうなった答えがあること、プロセスがあったことを

わかってない、知らない、ということになるのか・・・?

そんなことには興味がないということなのか・・・?

ただ、?が浮かばないということにわけはないのか・・??

ついつい考えてしまう・・・悪い癖か・・・


私たちは答えの見つからないたくさんの問いを持っている。

それを問えるということは、

必ずいつかは答えがわかるだろうということなんだろうか。

この時代には無理でも、次の時代の人が

答えに行き着くことがある問いもあるかもしれない。

不思議だなと思うことは、

かなり先のことであってもいつか必ずそれは不思議ではなくなる???

だって、その現象が在るということは

必ずわけ・答え・プロセスがある、ということだから。

それでも、ひとは在るもの、こと、の全てをわかることはないのかもしれない。

それがわかったら生きる楽しみがなくなるものね。

生きてるだけでいいんだよ・・・

2014-02-25 13:17:31 | ひとの幸福
「生きてるだけでいいんだよ」という言葉を聞くことがある。

生きているだけでどういうふうにいいのか、いまいちわからなかった。

この前、何かを娘と話している最中に、そういう話が出て、あっと思った。

生きているだけで(存在してるだけで)人の役に立っている、そう気が付いた。

生きてるだけといっても、

必ず食べたり着たり寝たりする。

生きているだけで電気や水道やガスを使う。

その食べ物や衣類を作ったりしてる人が居る。

電気関係水道関係ガス関係で働く人が居る。

畑で野菜を作っても、誰もが(要らない食べない)だったら

それを作る人はやる気をなくしてしまうだろうし、

電気や水を誰も使ってくれなかったら、

その仕事をしている人のやりがいはなくなってしまう。

洋服を作ることが大好きな人は誰も着てくれなかったら、

その自分の好きなことを好きなだけやれなくなる。

新しい繊維を研究してる人は誰もそれを使ってくれなかったら

どうするのだろう。

生きているだけといわれる人はこの世の全ての仕事に直接間接関わっている。

そう考えると、病気になるのも人の役に立っているということになる。

新しい医療を求め考え研究してる人たちがそう出来るのは

病気の人が居るからこそなんだから。

仕事をしてなくても勉強してなくても子供を育ててなくても、

生きているだけで人の役に立ってしまう。

願ってなくても、存在してるだけで人の役に立ってしまう。

そういうシステムにこの世はなっている。


美学 と 恥ずかしさ 

2014-02-24 10:36:22 | ひとの幸福
中学3年の時、転校生がクラスにやって来た。

この人はそれまでの私の友人たちとは全然違う感じがした。

たまたま家が近かったこともあって、急激に親しくなった。

彼女は本が好きで、よく笑って、お喋りで、歌が上手で、

生きることに自覚的な感じがした。

彼女をすごく好きになってしょっちゅう彼女の家で放課後を過ごした。

当時の英語の流行り歌を一生懸命覚えたり、

家族には内緒で時々赤玉ポートワインという甘いお酒を二人で飲んだり、

いろんなことを時間を忘れるほど話したりして、

本当にそれまでに経験したことがないような刺激的な楽しい時間だった。

当時の私にとって彼女は特別な友人になった。

その彼女が他のクラスメートと親しくしていたのを見たとき、

生まれて初めて嫉妬という感情を味わったことがあった。

そういう感情が湧いてきたことが恥ずかしかった。

恥ずかしかったから隠した。

まるでそんなこと気にもしてないように振舞った。

(嫉妬なんかするのは美しくない)・・・そういうのが確かにあった。

だから意識的に自分を律した。

いわばそれは自分なりの美学だったと思う。

また、初めて子を出産したとき、普段そんなことしてないのに、

産んだ晩から腹筋運動をしたり、腹に晒しをぎゅっときつく巻いていたのも、

(お産したからお腹がたるむのもしょうがないのよ、みたいな怠惰な感じは美しくない)

・・・こんな私なりの美学があったからだった。

出産関係の本に載ってた腹筋運動を毎日やった。

産後一日目はこういう腹筋運動、二日目はこういう腹筋運動、

三日目はコレコレ、四日目はコレコレと実に真面目に

入院してる間それを実行した。

人生で一番本腰入れてやった体操かもしれない。

それも自分なりの美学に基づいていたから、

ちっとも面倒でもなければ苦痛でもなかった。

まぁ、それはあくまで当時の私なりの美学で、

今はひとの産後のお腹のたるみを怠惰な感じとは捉えてないんだけどね。

美学も人それぞれ勝手なもんだろうと思う。

でも、どんな自分なりの美学であっても、それを持っていると、

“そう在りたい”という意志が働くものなのかと思う。

善悪の規範を持っていることより、

自分なりの美学を持っている方が

そう在りたいという意志が強く働くんじゃないだろうか・・・・???


美学の基準である“美しいか、美しくないか”じゃ無くて、

“善いか、悪いか”だったなら、

その善悪の規範に反することをしてしまった時に

恥ずかしいという思いをするだろうか?

例えば人を殺してしまった時には恥ずかしいという思いより、

もっと違う別の感情が芽生えるんじゃないかと思う。

あ、でも恥ずかしさを覚える場合もあるかもしれない。超少ないと思うけど。

陰口を言っているときに当の本人がそれを聞いていたとわかったら、

決まりの悪い思いをするのも、

そういう美学を無意識のうちに持っているからなんじゃないかと思う。

陰口や悪口は悪いというより美しくない、という感じは誰にでもあるんだろうと思う。

善悪の規範は恥ずかしさを呼ばないけど、

美醜の規範は恥ずかしさを呼ぶんじゃなかろうか・・・・???

この恥ずかしさというのは内的なものだ。

誰かが見ているから恥ずかしい、という外側を意識して

恥ずかしいというのもあるけど。

顔にご飯粒をつけたまま街を歩いていて、

見知らぬ人にご飯粒が付いてますよなんて言われたら超恥ずかしいけど、

家の中で誰も見てなかったら恥ずかしいというより、

なんでこれに気づかなかったんだろう??

皮膚感覚が鈍くなったのか??・・・なんていうふうになりそうだもの。


そういう外側に対する恥ずかしさではなくて、

誰も見てなくても恥ずかしいという、自分の内側に対しての恥ずかしさがある。

それは行為行動の恥ずかしさじゃなくて、

そう思った、という事自体が恥ずかしいというもの。


大袈裟に言えば「こころ美しく在りたい」という気持ちが

“恥ずかしさ”を生むのかと思う。

それは悪いことだからしない、というより、

それは美しくないからしない、という方が

“自分を律しやすい”のではないか・・と思った。

日本人は恥の文化、欧米人は罪の文化、という説も聞いたことがあるけど、

欧米人が罪の文化だとしたら、

それは善悪の規範によって成り立っているということだろうし、

恥の文化というのは元々美学を規範にしている、ということなのかもしれないと思った。

飛躍しすぎか???

もう一つの体験

2014-02-22 10:42:07 | ひとの幸福
何年か前のことなんだけど、

娘が旦那のいろんな行動を真剣に非難を込めて私に話したことがあった。

その内容は批判することでもないようなことだとその時思った。

黙って聞いていたけど、娘が彼を罵倒し続けていることに

内心非難しまくっていた。

けれど、視線を逸らすことなくずっと娘の顔を見ていて一言も発さなかった。

娘は私の内心には気が付かなかったようで話し続けたのだった。

そして文句を言い続けていたある瞬間、はっとしたように

「わたし、十代の頃一番嫌だった人と同じこと今してる」と、

大発見したように呟いたのだった。

夫の行動を自分の物差しで判断して、非難していた、

そういう自分だったと気付いた、ということだと思った。


内心は非難してたのに、

ただじっと見続けていたという行為がもたらしたこの展開は

どういう心の作用なのか??

ただ見つめられただけで、自分の心を観るようになる・・・

そういう作用をもたらしたんじゃないか・・??

井の頭公園の性器出し男が性器をしまった現象と同じだ。

違うのは、あの時の若かった私は全く無心だったけれど、

この例での私は無心どころじゃなかった。

悪意に満ちていた。

それでも何も言わずじっと見ていたということは一緒だ。

ということは・・・

そういうじっと見つめるという目に見える現象がそれをもたらすんじゃないか・・・

見つめる側の心がどうであっても、

口出ししないことで、相手は自分で自分の心を観てしまう。

このことって“見猿言わ猿聞か猿”の三猿の話と似ている。

あの話の真意はこういうことだったのか・・・

釈迦の『見ないことが究極のありようを見たことである』

という言葉の真意もそういうことなのか・・・

見ても見ない、ということがこの言葉の「見ない」なんじゃないか・・・

口出ししないでもひとは自分で考え、経験し、味わい、

自分で自分をコントロールできる。

それはその人のことはその人に委ねる、任せる、そういうことに通じる。

見た目に囚われず、

本質そのままで在るその人に全幅の信頼を寄せていればいい、

・・んだろうけど、

見た目に囚われても、信頼を寄せられなくても、

口出ししなきゃいい。

意見なんか言わなきゃいい。

老婆心を起こさなきゃいい。

そういうことなのかと思うと、いろんなことに囚われてばかりいる身としては

なんか出来そうな気もするよ。

「小さな親切大きなお世話」そういうことを釈迦は言ったのか!!!???

でも、このジョークの(大きなお世話)という言葉には、

要らないという意味がすごく含まれていることが凄い。

(大きな)も(お世話)も否定的なニュアンスはないように思うけど、

お世話はちょっとでいい、ということか。


思い通り と レシピ 

2014-02-16 15:41:17 | ひとの幸福
思い通りにしたいというのは当たり前なことだ。

夕飯は餃子にしようと思ってやり始めたら、

コロッケになっちゃった、なんてことでは困る。

餃子を作りたいと思って作ったら餃子になるのが普通当たり前。


戦争のない平和な世界にしたいと多くの人が思って、

行為行動をしているのに、

戦争が起こっちゃった、となるのが今の世界なのかと思う。

家族とも近所とも友人とも職場でも仲良くやって行きたいと思っているのに、

喧嘩しちゃった・・悩んじゃった・・うつ病になっちゃった・・となるのが

今の社会なのかと思う。

こういうのって、餃子を作ろうとしてコロッケになっちゃった、

と同じことなのかもしれない。


餃子を作ろうとやっているその最中に意識不明か、

突然盲目になるかしないとなかなかコロッケにはならないだろうと思う。

コロッケにもならないか・・・

初心者もレシピの順番通りにひとつひとつ真面目にやっていたら

ちゃんと餃子が出来るはず。餃子を作るとき、

私たちは餃子になる工程を今ちゃんと踏んでいるかどうかを

無意識のうちに確認している・・・


世界が幸福・平和なものになるというレシピを

人間はまだ見出してないと言えるかもしれない。

それに行為行動しながらの確認も怠っているのかもしれない。

人と仲良くやって行くことや、

問題の解決なんかも餃子を作るのと同じように、

思い通りにしたいものだ。

それにはやはり具体的な工程というような方法があるだろうし、

さっき書いた自由意志のことと関係があるような気がするんだけど・・・・・


人間の自由意志

2014-02-16 13:17:00 | 量子力学と心
ベンジャミン・リベットが行なった脳の実験で、

ぱっと何かを思った瞬間からその思いを受けての行為に移る間には

コンマ6秒だか8秒だか、

実験によっては数秒あるということが実証できたというのがあるらしいけど、

その短い時間が自由意志を働かせられる時間なのかと思う。

ベンジャミン・リベットも自由意志の問題がそこにあるんじゃないかと

思っていたというようなことを読んだことがある。

何かを見て「なんて悪いことしてるんだろう」と思った時に、

その思い(判断)のまま、

それを非難せずにはいられないとか、軽蔑せずにはいられないとか、

その行為をやめさせずにはいられないとかで、

突っ走ってしまうのは不自由意志といえるのかと思う。

そう行為をするか、しないか、選べることが出来るのは

上に書いたその短い時間を自分が捕まえられるかどうかだろうと思う。

自分の心の状態に意識が行っているかどうかだろうと思うんだ。

それが鍵なんじゃないかな。

人間の自由の問題については

科学的に片が付いてないというようなのを読んだことがある。

片がついてない、というのは片づけが終わってないということで、

まだ散らかっているということかと思う。

決定論では人間は自由意志なんかなくて、

無意識という怪獣からの指令に操られる小人のようなもんだ、

というような見解も読んだことがある。

(“わかっちゃいる”がやめられない)という人間の在りようが

それを示しているということなのかと思うけど。

でもわかったつもりでいるかもしれないけど、

本当は“わかってない”んだったら、

わかればやめられる、ということになる・・ね。


釈迦とユング

2014-02-14 08:46:34 | ひとの幸福
「ユングの観察したところでは、

彼の患者の中で、人生の問題の束縛から自由になり、

こころの成長と統合という高いレベルに達した人々は

本質的に、ただ事柄の起こるにまかせて、

何もしなかった人々であった。」

・・・ユングについての本の中にあった文章。

自分のことも他人のことも、

起こっている物事に対して、なんとかしようという発想をせずに、

在るがままという状態を受け入れて、

なにも“しようとしなかった”ということかなと思った。

・・コレ以前に書いた文章なんだけど、

釈迦の「見ないことが究極の在りようを見たことになる」

という言葉が言ってることと

これも同じなのかと思った。

見ない・・とは、

問題といわれる事に対して何もしようとしないという態度。

現状はそれと反対のことばかりだけど。

無視でもなく、ただじっと見るということが出来るのは、

人間について圧倒的な信頼感を寄せているからじゃないか。

人間の本質は真・善・美なるもので在る・・・

とわかっていなければ出来ないことじゃないか。

対象がその時、どうしようとどうしなかろうと、

そういう現象に惑わされず、

人間の本質がそういうものであると確信してる境地から、

それは起こるともいえるし、

ひとのことはその人がやる。自分は出来ない と

わかっているからとも言えるし・・・

自分のこともじたばたせずにじっと見られるのも。




自分の中に在っても・・・

2014-02-13 21:40:48 | テレビを見て
昨日のテレビ最新脳科学ミステリー?だっけ、

安住アナウンサーと松たか子が進行の番組を見た。

やる気の仕組みがはっきりとわかった・・とか、

脳の補完作用とか、目の錯覚とか、

人は人間ではないものにも顔を見てしまうとか、

赤ちゃんが笑顔を見ると言語野が活発に動くのは、

喋りたい、この人と付き合いたいとかがあるからとか、

認知行動療法とか、

・・・そんなことが一日経って今、残っている。

白黒の絵を見て何が見えるかの実験で、

大人は男と女の二人の姿が見えるけど、

小さな子供がそれを見たらイルカが幾つも見える、

というのがあった。

小さな子供には男と女がそういう姿で居ることがある・・・

なんていう知識・情報・経験が皆無なんだろうと思う。

自分の中に無いものは見えない。


あの絵が男と女に見えるのはとても自然なことで・・・

公園の露出狂をイヤだなぁと思うのも健全な感覚で・・・

昼間の公園で性器を出すというようなことをする人が、

この世には存在するという情報・知識を既に持っているのも

当たり前かもしれない。

そういう知識を持っているから、ぱっと非難感情が湧くけれど、

それをちょっと棚上げするというか、

脇に置くというか、そうして、相手に

非難の目を向けず、何も言わず、ただじっと見ることは可能だ。

そういう選択肢をとることは可能だし、

そうする自由が私たちにはある。

意識的に、そうしたいという意志で。

自分のこの行動が相手に何をもたらすか自覚の上で。

釈迦と山岸さん

2014-02-11 15:51:33 | 量子力学と心
山奥に金塊が在り、それを人間が見つけようと見つけられなかろうと

金塊が在ることに変わりはない。

でも、それを人間が見つけなければ、「金塊が在る」という思考は無い。

そう考えると、それに関心を向けること、

それに認識を持つということがその人間にとって、在るということになる。

その時その人が関心を向けたものだけがその人に見える、ということになる。

そのものに関心が行かなかった人にとってそれは存在しない・・

ということは・・・昼日中の公園の性器出し男に関心を向けなければ、

それは時間差を置いて、対象は存在しなくなる、

・・ということじゃないのか・・・

心に無いものは形にも現れなくなる・・・ということじゃないのか・・・

何が心になかったかというと・・・

どんな関心がなかったのかというと・・・・

その男を非難軽蔑するという。


見る側が、見られる側のその行為に対し非難軽蔑する気持ちがないと、

見られる側は、

いわゆる、非難軽蔑される行為で在ったものが、

非難軽蔑されない行為に自発的に変化する。


けれど、非難軽蔑するという気持ちが出てくるのは、

そういう常識が私たちにあるからだろう。

真善美を願ってしまうわたしたちの本質から来るものだと思う。

世間ではそういう行為は悪いと毛嫌いされるものだし、

賞賛される行為じゃない。

ただ、そういう考えでやって来たことで、

私たちの住む世界がどうなったかを

観察することが欠けていたんだろうと思う。

戦争反対と叫んで来て・・・悪を非難批判軽蔑して来て・・・

それらを征伐しようと、“なくそうとして”、一生懸命頑張って来た・・・

それを悪いと判断することなど一切ないけれど、

自分の願うこと(戦争がなくなることや、悪徳政治家がいなくなることや、

詐欺恐喝殺人傷害がなくなることや、平等な自由な世界になることや、

公園の性器出し現象がなくなることなんか)が、

その判断に基づく行為では叶わないという意味では、

悪いといえる。

“なくそうとするとなくならない”ということについては

見ようとすると見えない、という言葉を使っても、

何度も考え書いてきたし、

やっぱりそうなんだろうなぁと思う。


また、釈迦流に言えば、一切が、くう(空)であり、

それの言い方を変えれば、全てのものは相互作用でなってきたもの、

動的平衡と非動的平衡の繰り返しというプロセスからなってきたもの、

という事実からすれば、

その一点だけ、その現象だけをとって、軽蔑し批判し非難し注意し説得するのは、

事実に則してない観念といえるんだろうと思う。


釈迦の云ったという『見ないことが、究極のありようを見たことである』

こういう言葉からも、

その境地(判断無し)から発する思いが

対象にそういう変化をもたらすということに、

釈迦は確信を持っていたのかと思う。

そういう世界(人間)の変わり方を釈迦は提唱していたと言えないかな・・・

それを実現するのに修行をするとか講話を聞くとか説教を聞くとか、

念仏を唱えるとかお経を聞くとかの方法があって、

それもいいけれど、科学的な現代人向きの、

研鑽方式で実現しようと考えたのが山岸さんなのかと思う。


言葉と気持ち

2014-02-11 11:12:04 | 実例体験観察
今、近くのスーパーに行って来て、用を済ませ、居間に戻ると、

義父が「外は寒かったやろ」と声かけて来た。

咄嗟に(えーっと、寒かったっけかな?・・そうでもなかったかな・・)

が浮かんだ。で、

「あぁ、うん、えーっと・・」なんていう感じで終わってしまった。

スーパーで買い物してる時も、

重い買い物を台所に運んでる時も、

せっせとそれを冷蔵庫に入れたりしてる時もちっとも寒くなかった。

「寒かっただろ」という言葉の中身はきっと、

義父が私を労ってくれている気持ちなんだろうのに、

寒かったか、寒くなかったか、ということに気を取られて居たなと思った。

今までもこんなふうに義父が声かけてくれたとき、

寒かったということを凄く感じた時は、

即座に「うん、寒かった!」と言っていた。

寒くなかった時は「動いてたから寒くなかった」とか言っていた。

今日みたいにえーっと・・・どうだったっけ?

ってなったときはこんな感じだったかもしれない。

いや、何が言いたいのかって・・・

どんな反応したっていいんだけどさ、

義父の言葉の奥の気持ちさえ受け取れていれば、

うん!とだけ言ってニコニコしてたらいいんだなと思ったんだよ。

「何がしたくてそうしているんだろう?」

2014-02-09 10:44:50 | ひとの幸福
非難がましくなく、責める気持ちなど一切なく、

「何がしたくてそうしているんだろう?」という、

相手のその行為がこういうことだ、なんてのが全然ない、

だから当然非難も賛辞もない邪心の無い、

ただじっと見ているだけのまなざしを向けられたとき、

相手はどう“なる”か・・・

公園の性器出し男の例以外にいろいろ観てみたいと思う。

去年書いたことあるけど、

100%邪心のない心で人助けをしてる最中の人にそのまなざしを向けたら・・・

人助けをしてる人はそのまなざしに気づかないくらい、

そっちの方に集中してるかもしれない。

気づいてもその行為は変わらないと思う。

止めようとは思わないと思う。


憎しみに満ちた心で人を傷つけようとしてる最中の人に、

そのまなざしを向けたら・・・

相手はきっと手を止める。そう思う。


もし私がそういう現場に立ち会った場合、

今の私はそういうまなざしは出来ないんじゃないかと思う。

その瞬時、なんて酷いことを!って見てしまう気がする。

するとその人は私をも傷つけようとするかもしれないし、

その手を止めるどころか、もっとその行為を強めるかと思う。

それはよくわかる。

自分を否定して来る相手には温かい心は持ちにくいから。

それをわかっちゃいるけどやめられない、今の私の状態かなと思ってる。

ええと、脱線してしまった。


何も言わないけど、心で人のことを嫉んでいたり、蔑んでいたりしてるとき、

そのまなざしを向けられたら・・・

はっと我に返る、そういうこともあるんじゃないか。

赤ちゃんの無心な瞳に出会うとひとはそうなる、

というような話は聞いた事があるし、そうなる場合が多いと思う。







釈迦とエントロピー

2014-02-09 10:12:31 | 量子力学と心
ダライ・ラマの著書の中に、

「釈尊は経典の中で、『見ないことが、究極のありようを見たことである』

と述べられています。」というのがあった。

釈迦の「見ない」とは・・

どんな現象、対象に対しても、何の先入観もなしに

(これはなんだろう?)というまなざしで見ることがそれなのかと思った。

非難がましくなく、責める気持ちなど一切なく、

ただ、(これはなんだろう????)と。

去年ダライ・ラマの文章を読みながらブログに書きながら、考えて、

そういうことになるな・・と思ったんだった。

ちょっと書くと、

対象であるそれが何をしてるのかわからないから、何だろう?と見るわけだ。

それが何かわかっていたら、何だろう?という?は浮かばない。

何を思って何をしようとしてるのかわからないから、

何だろう?と見るわけだ。

対象を見聞きしたときに、「これはこういうことだ」なんて、

瞬時に無意識的に判断・解釈してしまうというのがよくあるというか、

私たち凡人はだいたいそうなってる場合が多いけど。

だから瞬時に腹が立つことが可能になるんだし。


何度も例として出している、昼日中の井の頭公園の性器出し男に、

(それが何なのかわからないというまなざし、

何を思って何をしようとしてるのだろう?)を向けたら、

その男は自分の性器をズボンにしまった。

そのまなざしは、対象である相手に、

(自分が今ここで、何のためにこうしているのか?)を問わせることになる。

その邪心のないまなざしがキッカケで相手は自分の心に問いたくなる。

自分は今ここで、何をしたくてこうしているのだろう??と。

すると、自発的にその人は究極のありように戻る。

釈迦が云っていたというのはそういうことなんじゃないかな。


世の中で酷いと云われる現象に際しても、

非難も邪推もない透き通ったまなざし(境地)で在ることは、

世界を変え得るキッカケになると思う。

邪心のないまなざしは愛から生まれる。


相手がどうしようと何を思おうと変わらないその境地には、

どうやってなるんだろうと考えると、

そのときどき、愛の方を選択したり選択しなかったりして、

選択したその結果を体験し、味わい、次に繋げる、そういうプロセスを経て、

“常に”愛の方を選択し続けるようになる、のかと思う。

心というものが相対的であるからこそやれることだ。

また、そう在るという強い意志が初めにあるからこそ出来ることなんだろう。

そして、いつも意識的で居ないとそうは生り得ないのかと思う。


やっぱり、釈迦が云ったという、

『見ないことが、究極のありようを見たことである』というのと、

湯川秀樹のエントロピーの話は繋がっている。


お義父さんの思い

2014-02-08 11:48:26 | 日々の暮らし・思い出
去年6月に末娘の結婚式で石垣島に家族3人で行った。

その旅行を義父はまるで浦島太郎が行った竜宮城のようだったと言った。

その細かいニュアンスはわからないのだけれど、

今までの一生で一番の出来事だった、というようなことを言っていた。

乙姫様からもらった玉手箱を浦島太郎は開けたけど、

わしは開けないと言っていた。

前にも書いたかもしれないけど・・・

そのことを時々義父は話す。この前は新たなことを話してくれた。

乙姫様からもらった玉手箱を浦島太郎は開けてしまったので、

あっという間にお爺さんになってしまったわけだけど、

自分の立場は玉手箱を開けなくていい立場だと言う。

どうしてかというと、浦島太郎は帰ってきたら

周りの景色も変わっているし、

そこに居る人も誰も知らない人ばかりだったので、

寂しくて寂しくて、開けてはいけない玉手箱を開けてしまった。

もし、そこで幸福な日々を送れたら浦島太郎は開けなかっただろう、

というようなことを言う。

わしはここで暮らしていてみんなによくしてもらっているから

玉手箱は開けないと言う。

そういうふうに思っているのかぁと思った。

また群馬に行こうな、とか、孫が居る岩手にも行こう、

温泉にも行こう、と最近はよく言う。

義父は本当に玉手箱を開けないんだろう。

あっという間にお爺さんになっちゃうから。

あと7ヶ月で98才。元気です(^^)