ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

抑止力

2012-10-31 16:15:06 | ひとの幸福
「コレコレこんなことはしてはいけません」が有効なのは、

所謂良くない事をしそうになった時の抑止力程度のものなんじゃないだろうか。

咄嗟にひとを傷つけたくなる・・その瞬間、そういう声が聞こえてくれば、

実行する直前に踏みとどまるかもしれない。

勿論それがいけないことではない。有効だと思う。

けれど、それは所謂悪い事が無くなる抜本的な方法では無い。

核の抑止力と同じだ。

そんなことをしたら、核を持ってるんだぜぇ、俺んトコはよ~・・・

それが恐いから踏みとどまる。

親が悲しむから踏みとどまる。

両方ともそれなりに効果はあるだろうけど、なんだかさみしい。

人間というものがその程度でしかないのかとちょっと残念。

悪い事をするという行為になるのはそうなる元である心の在りようがある。

そこが成長することで行為は変わって来る。

人を傷つけたいなんて事が浮かびもしない人になるのが、

一番実現したいことなんじゃないか。

人間はそうなることが出来ると思う。

人間をあまり見くびらない方がいい。

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事の善悪

2012-10-31 16:01:23 | ひとの幸福
「事の善悪は教えなくちゃいけない」と言う人がいる。

本当にそうなんだろうか。

それを教えられなくちゃわからないのが人間なんだろうか。

そういうのは性悪説を信じている人なんじゃないかな。

人間は元々性悪なモノだから、という奴。

所謂悪いこと、詐欺・傷害・恐喝・強盗・殺人なんかをした人は、

そういうことをしてはいけません、と教えられなかったから、するようになったのか・・

そういうことをしないで来た人は、

そういうことをしたらいけません、と教えられて来たから、しなかったのか・・

私自身の経験で言えば、何故、所謂悪いことをしないで来られたかというと、

そういうことをしたくなったことがなかったからだろうと思う。

何故、したくならなかったのかといえば・・

そういうことをしなくても幸福でいられたからと思う。

金銭的なことだけでなく、

辛い事や悲しいことや誤解されたり曲解されたりした経験はあるけれど、

そのことを他の人にわかってもらえたり、

慰めてもらったり、力付けてもらったり、自分で考えたり、

・・して来たことで、そういう他人に迷惑をかけるような表現をとらないで済んだからであって、

やったらいけませんと教えてもらったからではないと思う。

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教える、ということ

2012-10-31 11:40:55 | ひとの幸福
シツケというのも教えなくちゃいけないって思っている人は多い。

事の善悪は教えなくちゃいけない、と言う人も居る。

教えるとは相手が知らない知識を伝えること。

教えるという行為をする時は、

教えなければわからない者だと、相手を観ているということだ。

相手がそれをわかっているとわかっていることは教えない。

大人に1+1は2だよ、なんて教える人は居ないように。

相手をそれがわからない者だと観ているうちは、

相手はそれがわからないような行為を続ける。

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BGM

2012-10-31 10:40:42 | ひとの幸福
BGMは聴こうとして聴くものじゃない。

小学生や中学生、高校生、大学生になっている子供に、

いろいろいちいち「勉強しなさい」「アレはもうしたの」

「ちゃんとご飯食べなきゃ」「宿題したの」

「アレやっておかなくちゃダメだよ」・・・・

こういったことは言われなくても子供は自分でわかっている。

こういう言葉を何年も発し続けていると、

どういうことが子供に起こるか・・?

子供は親の言葉をBGMのように聞くようになるんじゃないかな。

そして親はちっとも言うことを聞かないんだからといって歎く。

最近の子供は学校で先生の言うことを聞かないという。

さぁ、集まって、と言っても集まらないとか。

自分に言われていると思わないみたい。

小学1年生で学級崩壊があるという。

もしかして、親のこういう無意味な(効果の無い)言葉をたくさん浴びて育ったからかもしれない。
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気にいらない

2012-10-30 13:41:42 | ひとの幸福
「気にいらない」という言葉が在る。

「入らない」と書いて、いらない とも はいらない とも読むけど、

「気にいらない」という言葉は、

気というものに 入らない(はいらない)ということなんだろうか。

と、いうことは自分の「気」の容量を超えている、ということかな。

「あの人は気が大きい」という言葉もある。

それは受けいれる容量が大きいということなのかな。

反対に「気が小さい」というと、

些細なことに拘るとかいうイメージがある。

やはり受け入れ窓口が狭いという感じかな。

気に入らない という自分の心の現象は、

自分の受け入れ窓口が狭くなっている、という状態かもしれない。

勿論悪いことじゃけど。


若い頃、歌謡曲、演歌の中のある種の歌詞が全く気に入らなかった。

「女の未練」だとか、「捨てないで」とか、

「女のみち」だとか、そういう言葉が気にいらなかった。

今は「こういうふうに思う人も世の中はいるのかもしれないな」という感じになった。

私の「気」の容量が大きくなったんだろ。

よくある言葉で言うと、受け入れられるように“なった”

何を受け入れられるようになったかといえば、

それが在ることをだ。


在るものを否定するのは不毛。

否定することによって、それがなくなる、

・・ということになればいいんだけど、そうは決してならない。

反対に増大することは大有り。

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「戦争反対」という言葉

2012-10-30 13:34:20 | 量子力学と心
「東京と大阪で戦争してはいけない」なんて言葉はこの日本にない。

多分 日本人全員が「内戦なんかしないものだ」という確信を、

無意識のうちに持っている。

「人間は戦争をするものだ」という人間観を持っている限り、戦争は起こる。

戦争反対と大きな声で叫ぶことや、

戦争の惨禍を伝えようと頑張ること、

それ自体が戦争を孕んでいる。

そう表現することで何が実現するか?

表現することで戦争がなくなるのだとしたら、

とっくに戦争など起こらなくなっている。

「もう夫婦喧嘩はしません」と何回唱えても、

夫婦喧嘩をしないようには“ならない”のと同じで。


「戦争反対」「過ちは二度と繰り返しません」と表現しているけれど。 
 
そういう言葉があるということ自体が、

小さな子供にも「人間は戦争をするもの」

という人間観を植えつけている。

どんなものでも反対といい続けていると、それは無くならない。

反対と言えるからには、そのものが〝在る”ことが必要なので。

観るものは現象化する。ニールス・ボーアさんの言うとおり。

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「言葉は神であった」

2012-10-30 13:28:48 | 量子力学と心
聖書に「言葉は神であった」という言葉がある。

神が世界を創造した というのが聖書での解釈なので、

そのこと自体が正しいのか、正しくないのか、

私にはわからないし、それはどっちでもいい。

ただ、どうしてこの言葉が在るのか、それはどういうことなのか、

・・を知りたい私なので、考える。


「言葉」は認識を表すものとして在る。

気持ち、考え、思い、こころ、感覚、

・・を表現するものの一つとして「言葉」がある。

一応「言葉」=「認識」とか「意識」 と云ってもいいと思うので・・

量子力学でいえば、「この世の物質に代表される実在とは、

私たちが見るという行為によって、発現されて、

この世の現実性そのものが、私たちの意識に依存している」

・・これはニールス・ボーアという、量子力学の父とも呼ばれる科学者の言葉で、

実験でこれは何度も検証され、正しいとされている。

わたしもこのブログでいろんな例を書いてるけれども、

実際その通りなんだと実感してる。

どう観ているかは無意識的なことが多いので、量子力学となかなか結び付かなかったのかと思う。

普通よく言う「意識する」の意識は顕在意識、表層意識で、

それは氷山の一角に過ぎなくて、無意識的存在である潜在意識はもっともっと広く深い。

「見るという行為」とニールス・ボーアは云っているけど、

これはどう観ているか、ということで、これの言い方を変えれば、

無意識的や意識的なものの見方、人間観、世界観、社会観ということ。

それらが結果的にひと、世界、社会を創っている。

聖書では 創造したのは神 という前提があるので、

『言葉は神であった』とは、

言葉=認識=ひとのものの見方=創造するもの=神

それで、「言葉は神であった」ということになる。

こういうことなんじゃないかな~。

聖書ってなんなんだ?!って感じ。

まぁ、量子力学理論の発現以前から世界はあるんだから、当たり前か。

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嬉しい気持ちと感謝

2012-10-29 15:29:12 | ひとの幸福
自分が困っている時、さっと手を貸してくれる人がいると、

すごく嬉しい。教えてもらわなくても人は喜ぶ気持ちが自然に出て来る。

こんな経験をすると、自分が味わった豊かな気持ちを人にも味わってもらいたくなる。

誰かが困った時に自分もそうやれる人になりたいと思う。

こういう気持ちは誰に教わったわけでもなく、

自然と出て来る気持ちだ。

小さな時から無償的な心でやってもらう経験をたくさんすると、

同じ無償的心で何かをする人に自然となる。

ひとは受けた来た過去の経験(生まれつきも含めて)で出来上がるもの。

恩着せがましくやってもらった経験ばかりの人は、

そういうものしか受けとってないのだから、

それしか持っているものがないので、それしか人に与えられない。

そうなったのはその人一人のせいじゃない。

人の心は社会で創られる。

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教えている?

2012-10-29 15:11:38 | 量子力学と心
風呂上ってすぐのイブに「パンツ穿きなさい」

「パジャマ着なさい」と言うおばあちゃんがいる。

今までこういう光景を見ても何とも思わなかった私だ。

もう1年以上イブは風呂上りにパンツを穿いて来た。

風呂から上がったらパンツを穿く事はわかっていると思う。

それを言う人が居ても居なくてもイブは自分でパンツを穿く。

あーせーこーせーと言う時の心は教えている状態なんだろうか。

教えるというのは知らない知識を伝える時に使う言葉だ。

教えなければ相手はわからないと、

相手を観ているということだ。

この行為は教えなければわからない者として相手を扱っている、と言える。

そう観ている場からは、相手はその場に留まっている。

パンツを穿かないでいる。

ピグマリオン効果だし、観測によってそのように波動関数が収縮している。

パンツを穿かないイブと穿きなさいと言う人とイタチゴッコが続いている。

「パンツを穿きなさい」という言葉はイブにとってまるでBGMのようだ。

全然意に介していない。

こういうプロセスを数多く経験して、

その人の言うことを聴かなくなるのかと思った。

聴きたくなくて聴かなくなるというより、

その言葉は意味を持たないものとして耳に入っているからではないかと思う。

まさしくBGM。

イブは悪意も何も無い。

パンツ穿きなさいを言う人も勿論悪意なんか無い。

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感謝ってなんだ?

2012-10-29 11:25:57 | ひとの幸福
子供に「ありがとう」と言うようにと教える。

“教える”ということがあるのは、

教えないと子供はわからない、・・という前提があること。

教えないとわからないとわかっている心の状態からの行為だ。

教えなければわからないものとして扱っている。

これって、人間は本来そういうものなんじゃないか・・が浮かんだ。

感謝することは当たり前だという常識があるんだけど、

本当の常識なのか・・?

人に何かやってもらったら感謝するのは当然だという考えは強い。

圧倒的多数がそう思っているだろうし、そう言う。

前に頼まれもしないでやっているということを書いた。

隣の住人は私から頼まれもしないのに、火事を出さないで居てくれる。

対向車は私から頼まれもしないのに突っ込んで来ない。

頼みもしないのに太陽は照ってくれるし、雨も降ってくれる。

頼みもしないのに、ノーベル章をとった山中教授は研究してくれている。

頼みもしないのに、福岡伸一教授は「動的平衡」を書いてくれた。

頼みもしないのに、面白いドラマや映画を作ってくれている。

それぞれが自分のしたいようにしている。

結果的に私の役に立っていることばかりだ。

対向車は私から感謝されなくても平気で居るだろう。

隣の住人も火事を出さないで居てくれる事に感謝されなくても怒らないだろう。

頼まれもしないのに、重い荷物を持っているお婆さんに親切にしたくなって、

つい手伝ってしまうのも、

太陽と同じ、対向車や山中教授と同じ働きなんじゃないだろうか。

それぞれが自分がしたいようにやっているに過ぎない。

それぞれが自分の意思でやりたいと思ってやっているだけなんじゃないだろうか。

それに感謝するのは当然と言うのもおかしいといえばおかしい。

感謝しちゃいけないということは勿論無いけど。

感謝しないと機嫌を悪くする人が今のところ多いから、

社会生活を円滑にするためにしている場合は多いだろうと思う。

人の意識が進化し、社会全体もそれによって、進化発達することで、

消えていく運命にあるのかと思う。

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小さな子ども

2012-10-28 16:27:24 | ひとの幸福
自らやりたい。小さな子どもはよく「自分で!自分で!」と言う。

命令されることを嫌がる。自由にやるのが好き。

自主的、自発的にやるのが好き。

抑え付けられるのを嫌がる。

美しいもの、変わったもの、珍しいものを喜ぶ。

不安感情なんて湧いて来ない。

子どもが・・こんなふうだということは、

ひと は 生まれながらにそう成っている、 

・・と言えると思う。なので・・・

「~しなくてはいけない」という状態になると、窮屈な気分になる。

抑え付けられている感じがする。

人間というものが元々「~しなくてはならない」という思考をするものとして生まれたら、

そういうふうに思ったときに窮屈に感じないはず。

当たり前のことに人は動揺したり、抑えつけられる感じはしないはずと思うから。

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子供の目

2012-10-28 15:45:59 | ひとの幸福

このことはこういうことである・・・

こういう場所は危ない所である・・というような見方を、

子供は体験を通して学ぶ。

大人の行動とそれをするの時の大人の顔付き、雰囲気、様子をセットで観察する。

そういう経験で見方、分別を体得していく。

体得とは多くの経験でこれはこういうことである・・というような見方が自然と身に付くことである。

大人が楽しそうに仕事をしている様子を観れば、仕事とは楽しいものだ、

という仕事観が潜在意識にインストールされるし、

真剣にしている様子を多く観れば、仕事とは真剣にするものだというのもインストールされるだろう。

面白そうにしていたら仕事って面白いもんなんだと潜在意識に刷り込まれる。

仕事は大変だ、うんざりする、という大人ばかり観たら、

仕事はうんざりするものだ、になるのも仕方ないことだ。

人生を楽しんでいる大人を多く観た子供は幸福になるだろうし。

すべてそれらは自動的な反応になる。

人生は楽しいもんだよと口を酸っぱくして言っても、

内実がなかったら、言葉だけあっても屁の役にも立たない。

子供の目に限らないけど。


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そのまんまでいい世界

2012-10-28 15:01:40 | ひとの幸福
なかなかタバコを止められない人。

朝が苦手で起きられない人。自分で食事を作れない人。人の悪口ばかりいう人。

コレをしてないと安心感がない人。コレコレこういう物だけ食べる人。

ナニカをしたくない人。したい人。何でも食べられる人。

なかなか色々と出てこないけど、世の中にはいわゆる苦手・欠点・癖・タチ・・・があり、

誰でもみんな不完全だ。得手不得手がある。完全な人なんていない。

でも皆、全くそのままでいい。変えようなんてしなくていい。

こうでなくちゃいけない・・なんて無い。

こうでなくちゃいけない・・があるから世界はおかしく“なる”

これは量子力学理論であきらかだ。

どんな人のどんな行為もそのままでいいと受け止められ、

一人ひとりが機嫌よく生きられる世界。

そうだったら、犯罪行為なんかする人は居なくなる。

そういう行為は否定されたことによって起こる、満たされない思いが積もり積もって出て来るものだから。

そんな人がたくさん居たら、各人の足りないところは自然と補い合えて、みんなで一つ。全体。

頑張らないし、がんばる必要なんかこれっぽちも無い。

在るものだけでやっていける。無いものねだりなんかない。

ひとが自他の在りのままを否定肯定なく観られる、そういう人に成り合うことで、

そういう世界は創られる。

一人一人がそう観ることが出来るようになることで世界は変わってゆく。

気持ちが満たされたら、関心はよりよい自分へと自然に向かう。

自然と世界は良く“なる”


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感謝

2012-10-28 14:46:49 | 言葉
「感謝」という言葉は動作や行為を表わす言葉じゃない。

心の働き、認識を表す言葉だ。

感謝の気持ちが表現された動作や言葉はいろいろとあるだろう。

お辞儀やら「ありがとう」やら。

感謝は意識を表わす言葉であって、

動作・行為そのものを表わすものではない。

本来、「感謝するべき」という言葉遣い(思い)はおかしなモノと言わざるを得ない。

「するべき」の「する」という言葉は、

目に見える行い・動作を表現する動詞である。

気持ちは“する”ものではない。

気持ちは目には見えない、在るもの・起こるものである。

日本語というのは『理としての心』を表現している言語かと思う。

「言うことをききなさい」・・・これが云っていることは・・・

意味的には大人が子供に、言っていることをやりなさい、という意味で、

相手が言っているその事柄をやるという気持ちになって聴くという、

相手と一体の心になるということを云っているのだろう。

「私は私とあなたに分かれた片割れである」・・この言葉は、

月本洋教授の「日本人の脳に主語はいらない」という本にあった。

この本は本当に面白いよ。

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「ありがとうって言って」

2012-10-28 11:06:09 | ひとの幸福
イブが私にナニカをしたとき、「ありがとうって言って」と言った。

少し驚いた。人に「ありがとうと言わせたい」というプログラムが既に出来ている。

それまでイブが何かをしてもらった時に、

周りは「ありがとうは?」と何度も言って来たのだろう。

ありがとうと言わせようとして来たのだろう。

その成果が見事に出て来ている。

イブ自身が何かをしてもらった時に「ありがとう」と言うこともそうだろうが、

・・と書いたけど、これは周りがひとに「ありがとう」と言っているのを観て、

真似ているのだろう。言わせようとしたので言うようになったわけではないと思う。

イブがひとに何かした時に、人に「ありがとう」と言わせようとしている。

子供は大人の“言う通りにする”のではなく、大人の“するとおりにする”。

観察して真似る。

こうして、役立ちたくて自分がやりたくて頼まれもしないで行なった行為に対して、

ひとから感謝の言葉が無いと言って腹を立てるようになる。

争いの元を生むようになるように子供を育てている。

シツケと称して。

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