ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

片付け整理処分

2016-07-29 10:55:19 | 日々の暮らし・思い出
家の中の物の整理をしている。

私たちが使うことのなかった夫の両親が買ったものなどがまだたくさんある。

石垣に移住してもここに来ることはあると思うけれど、

まるで使わないものはこの際整理しておこうとやっている。

九月になったら移住するという期限があるとこの作業は進む。

両親が用意した物だけでなく、私が買った物や頂き物なんかも・・・

この前の石垣での三ヶ月、これらがなくても何の不自由もなかった。

そのせいなのかすいすいと捨てられる。

無ければ無いで困ることなどほとんどなかった。

思えば、今の夫とのこういう暮らしはお金も物もほとんど何もない状態から始まった。

最初の結婚の時も机と布団と本と衣類だけ持って新しい生活に入った。

持っていたのは希望だけだった!!??

ちょっとカッコ良過ぎるね, この言葉(^^) 


「1ヶ月休みがあったら何したい?」

2016-07-28 14:36:53 | 日々の暮らし・思い出
一ヶ月休みがあったら何したいか・・・という問いだけど、

このお題にある「休み」は給料を得て生活してる人向きのものなのか・・・

この前毎日新聞の仲畑川柳に・・・職業欄 妻主婦 俺無職 ・・・

というような主旨のものがあったけど、

子供がたくさん居る家庭の主婦なんかは給料は得てないけど、

「休み」は無いと言ってもいいかも。

子供が少なくてもそうか・・

そう考えると「休み」っていうのは、

所謂、何か役に立つ作業をしていない状態を言うんだろうか・・・

いや、そんなことはない・・・

“しなくてはならない”と捉えている何かの作業を、

その日は“しなくてよい”と捉えている状態を「休み」と言うのか・・・

「今日は休みだから、料理を作ろう」と思って料理するのは

きっと、“しなくてよい”料理なのかもしれない。

勿論、“してもよい”

そう考えると、

~をしてもいいし、しなくてもいい・・・

そういうことが出来るのが「休み」の日ということか・・・

本当???

「スイカとメロンどっちが好き?」

2016-07-27 10:06:22 | 日々の暮らし・思い出
この題、グーブログのこの題で書いてみないか、の奴。

ちょっと面白いかも、て思ってね。

そりゃ当然スイカ!でしょう。

何故スイカか・・・メロンの味はしつこい。と私は思っている。

高級な美味しいメロンを食べたことがないからだろう・・

そう思われるか。

いや、食べたことあるよ。

まぁ、好みの問題だからどうでもいいんだけど、

スイカとメロンて、比較されやすいね。

イチゴとスイカの比較はあまりされない。

比較しようという気になる、ならない、というのはある。

比較なんかぶっ飛んでしまったことある。

自分がブスだとすごい劣等感を持ってた若い頃、

街を歩く何人もの北欧の女の子に会った時、

そんな劣等感がぶっ飛んだ。

比較の対象にならないわ・・

自分の顔、ひとの顔、関係ないわ・・

一カ月食べ続けるとしたら?

2016-07-27 09:56:04 | ひとの幸福
「一カ月食べ続けるとしたら?」・・・食べたいからそうしたいわけじゃないんだけど、

私の場合、カレーライス。

でも何故そうしたいのか??

カレーは癖がある。

大人しい味じゃない。

そんなものをひと月食べ続けて、自分がどんな気持ちになるかを体感したい。

そんなふうに思って何年経つだろう・・・

まだしていない・・・

いつ死んでしまうかわからないのに・・・

これを決意するのはいつか???!!!

好感度?

2016-07-27 09:45:46 | テレビを見て
この頃、テレビで『好感度』という言葉をよく聞く。

どうしてなんだろう???

好感度数?の低い人が多いからそういうことになるのか??

自分がどう思われているか、よく思われているか、に

気が行き過ぎているらそういう風潮が生まれるのか???

「良い人はいいね」という言葉が

小説の「伊豆の踊り子」の踊り子にあったことを何故か覚えているんだけど、

その当時の良い人は自然に振る舞っての良い人だったけど、

今は『好感度』の意識し過ぎ、

不自然にいい人をやってるようなのもある感じがする。

そうしていないと除け者扱いされる・・そんな不安感情があるのかもしれない。

けれど、不自然にいい人をやってると人を恨むようになる。

自分が所謂、いい人状態じゃない時に、

無理していい人のように振る舞うと、

相手に対し否定的な感情が生まれる。

そうさせているのは相手だと勘違いしてしまうからだ。

自分が無理してやったことを忘れて。

経験があるからわかる。


殺人数は毎年戦後最低を更新しているらしいけど、

知らない人を殺してしまう殺人は昔はなかった・・と思う。

そんな事件を起こしてしまう数は本当に少ないと思うけれど、

こういう人が現われるのはどうしてなんだろう・・・

バーチャル世界と現実を混同してしまうからという説もあるけど、

それだけなんだろうか・・・


この前、知らない人を殺した高校生の男の子は

何の問題もない・・所謂優等生だったようだ。

そんな例をよく聞く。

好感度のいい子であることをじわーっと押し付けている・・・

いい子であることを求め、させようとする、やらせ体質がじわじわと子供をむしばんでいる・・・

そんな気もしてしまう私であります・・・

行為と病気

2016-07-21 09:37:33 | ひとの幸福
受け容れられなかったひとの行為を、

この人はこういう症状があるんだ・・・

この人はこういう病気なんだ・・・

こういう納得が出来ると心が落ち着いたりすることがある。

人のその言動を受容できたということなんだろうな。


何か症状があるのだけれど、調べても何の異常もありませんと診断される・・・

けれど、辛いのは辛い・・・

自分の辛さをわかってもらえない。

辛さは無いはずと言われているような気がする・・・

何年か後、それはコレコレナンタラ病だとわかった・・

病気だとわかったのに安心する。

こういうこと時々聞くけれど、

そういう症状は出るべくして出ているんですね・・という納得を得られることで

心が落ち着くということだろうと思う。



あの人はすぐ怒るからイヤだとそれを毛嫌いしているより、

あの人は瞬間湯沸かし器だから、と諦める方が精神が安定する。

ひとをそんなふうに決めつけることで心が落ち着くなんておかしい、

そんなふうに思っていた時期もあった。

けれど、それは決めつけているんじゃないんじゃないか・・・

今、この人はこういう症状が出ている、

そんなふうに観ることが出来ている状態なんじゃないか。

正常ではないんだな、病気なんだなと納得できている状態。

ひとのいろんなおかしな言動もみな、

症状だと観られると心は落ち着く・・・んだろうなぁ。

自分がおかしいと思うそのことも症状の一つなんてこともずいぶんあるだろう。


テロ行為が起こっているけれど、

それも病気にかかった、症状が出ている、と観れば、

対処方法も変わることってないだろうか・・・

病気や症状に対して怒っていてもしょうがない。

怒るよりそれを治すことを第一に考えるんじゃないか・・・


それにはどうしてそういう病気になったのか、そこから始まるんじゃないかと思う。

住処

2016-07-16 14:00:52 | 日々の暮らし・思い出
石垣に居る間、夫と電話でお喋りしてたとき、

私が又石垣に戻る飛行機の切符はキャンセルしたから・・と夫が言った。

え?どうして?と聞いたら、

自分も行くから同じ日に隣同士の席に予約しなおした・・と言う。

ふーん、それで今度はどのくらい居るの(石垣に)?と私。

ずーっと、と夫。

え?何?。と私。

そう、夫も石垣で暮らす、ということなのだった。

びっくりした。

嬉しかった。

私が石垣に住み始めた時も、その後も、

先のことはやってみないとわからない・・と夫は言っていた。


ここは夫の生まれ育った土地だ。

この地にある古い古い飛鳥時代の古文書にもこの地のことが書かれてあるくらい、

長い年月をかけてここの歴史をつくって来た土地。

隣の集落と交流が生まれたのはそれほど昔の事じゃないんじゃないか・・・

海と山に囲まれた狭い土地で何世代も何世代もこの地の人たちだけで暮らしてきた。

そんなこの土地に何のしがらみもない私と夫では

この地の見え方が違って当たり前だ。

ここに住み始めたとき、夫が東京に居た時やそれ以前の時とは

別人のように感じられたときがかなりあった。


別の地で暮らしたら、もっと違う人生になる、もっと軽く生きられる・・・

夫のことをそう思ったことがあった。

でも夫はこの地に住み続けたい、のかもしれないと私は見ていた。


ひとのことはわからないものだ。








新聞テレビ・・

2016-07-16 13:34:31 | 日々の暮らし・思い出
また、フランスでテロが起こった。

たくさんの人が亡くなった。

ニュースを見ていると顔がいびつになってしまう。

・・・暴力を否定し非難します…安倍首相も他の人々もそう言う。

当たり前だと思う。

肯定し褒め称えます、なわけない。

でも、取り締まるだけじゃ、テロは増えるばかりだろうな・・・

やられたらやり返すのエンドレス。

ため息が出るような・・・

2016-07-11 15:32:27 | ひとの幸福
幅るのが悪いわけじゃない。

恥ずかしく思うのが悪いわけじゃない。

そう頭で思っても、身体まで下りて来てないから

自動的に不愉快な気分になってしまう。

是か非か、良いか悪いか、が潜在意識に圧倒的な強さで在るから、苦しむ。

あーあぁ・・とため息をつきたくなる。

ため息ついてみて、またわかる。

是か非か、良いか悪いかがあることをダメとしている潜在意識があるからだよ。

そうなると、もう、なんでもいいじゃん。

この私で何が悪い、と開き直る。

これでいいのだ~♪これでいいのだ~♪天才バカボンバカボンボン♪

これが在りのままで生きる・・か・・・

今 ここで。

あのとき、そう言ったじゃん・・・

2016-07-11 11:19:34 | ひとの幸福
自分が書いたかなり前のこのブログを読んでみた・・・

面白いなぁ、と思う。

面白くない小説より面白い。

別人が書いたような感じでそう思う。

なるほどなるほど・・・・そんな感じで。

ここに書いている最中に気付いたこともいっぱいあった。

けど、気付きや辿り着いた考えはその時そうなった、ということで、

それがいつもいつも自動的に顕在意識に登場するわけじゃない。


あの時、そう言ったじゃん!的な、

あのとき、そう書いたじゃん・・・を自分に向けてもそれは無理だ。

気付きや新しい考えが体得されるように日々を生きなければ、

過去の思い出に過ぎない。

新聞を読む

2016-07-11 11:17:09 | 日々の暮らし・思い出
石垣では新聞を取ってなかった。

娘のところにある八重山毎日新聞は読み応えがない・・感じ。

石垣の図書館で三大新聞を読んだとき、その日付は一日前のものだった。

離島はそうらしい。

朝、コーヒーを飲みながらゆっくり新聞を読むのはいい。

その楽しみが石垣では得られない・・・

けどさぁ、一日前の新聞でもいいねぇ。

そんなに早く世界の出来事を知りたいわけじゃなし。

新聞は読み物として面白い。

今度石垣に行ったら、一日遅れの新聞をとろうかなぁ。

三日遅れの便りを乗せてぇ♪ 

船は出ぇる出る~波浮港ぉ~♪

発した言葉の底には・・・

2016-07-09 08:30:46 | ひとの幸福
昨日、ここで文章を書くということをして、

やはり書くのはいいと思った。大したこと書いてないけどね。

ここで書く言葉もそうだけど、

人に発した自分の言葉はいつも自分に返って来る。

この頃ブログ書いてないね、と友人から聞いたとき、

書くモードじゃないんだ、と言った後、

今の自分が書くことはどんなことだろう・・・が浮かんだ。

で、上に書いた人に発した自分の言葉・・云々が出て来たんだった。


発した後、自分の心がもやーっとなる時と、全然ならないときとがある。

もやーっとなった時をみると・・

自分の心のベースといったようなものが正常ではない感じ・・・・

自我が のさばっている。

それに気付くと恥ずかしくなる。


山岸さんが云ってた「幅る辱しさ」と違う。

今の私は恥ずかしくなる。辱しさより恥ずかしさの方がぴったり来る。

何故恥ずかしく思うのか・・

恥ずかしいと思うその底に自我がでーんとある。

プライドがでーんとのさばっている。

私は 幅り、その上、幅ったことを又、幅っている。



認知症的傾向と暮らし

2016-07-08 11:41:40 | 日々の暮らし・思い出
おお!一カ月も書かなかった!

このブログ始めて初めてのことかもしれないねぇ。

この前、これを読んでくれてる友人がこのブログのこと言ってて、

ブログのこと思い出したくらいだよ。

その時、書くモードじゃないんだ・・とか言ったわたし。

事柄に追われていたのかもしれない。

住んでいるスペースにパソコンがなかった暮らしだったというのもある。

スマホはつかってないしね。

けれど、友人の言葉で、そうだ、書こうと思った・・・

思ってから何日も経ってる・・・

麻の布でズボンとブラウスをちくちく手縫いしていて、

それをやりたいというのが優先してるな。

そう、石垣では麻が一番!と着てみて思ったんだよ。


今、内地の我が家に帰って来てる。

懐かしのパソコンだ。

そしてやはり懐かしの我が家、わが庭。

そして懐かしの天候。

そう・・石垣の凶暴的な暑さに比べると本当に優しい天候。

こちらに帰って、あれ!?今、エアコンつけてたっけ?と思ってしまうことがあった。

あまりにも暑くない・・こんな表現は変だけれど、

暑いのが当たり前だったからだろうなぁ・・・

この快適さはエアコン・・と発想してしまったんだろう。

こっちに帰って来て、台所に立って食事の支度してるとき、

身体はもう石垣の台所を覚えていて、換気扇のスイッチを押そうとしたり、

ここは紐を引っ張るタイプなのにね。

帰って来た当初はお玉や箸や台拭きの位置なんかも石垣での置き場所に手が行ってしまった。

もう一週間過ぎたし、身体もここを又覚えなおしたみたいだけど。

九月になったら又石垣に戻る。

そうしたら、身体はまた混乱するかもしれないね。

身体っていう表現は変かもしれないけど、

こういう身体の動きって、やっぱり体得だ。


認知症的な在りようは石垣での暮らしで少し改善されたかな・・というのがあるんだよ。

車のチャイルドシートに孫を乗せて留め具で留めるのを一度で覚えられなかったんだ。

いや、一度どころか、やって見せてもらっても納得がなかったんだ。

それがある日、その仕組みがすごくクリアに見えた。

いや、わかってみると実に簡単な仕組みなんだよ。

わからなかったのが恥ずかしいくらいの。

けれど、頭の靄がとれたみたいに感じられた。

このことで思い出した・・・・

生前の母が70代後半の頃だったか、

東京の南武線と京王線の乗換の改札付近に来た時、

切符を何処へ入れるのか、どうしたらいいのか、戸惑っていて、

これこれ~こうするんだよ、と当たり前の感じで伝えた私に、

「それがわからないんだよ・・」と困惑顔で言った。

チャイルドシートに困惑した私と同じだ、と思った。

認知症でいろんなことがわからなくなるというのは

そのことのプロセスが観えなくなる、ということなのだと思う。

プロセスがぼやーっとして来るんだと思う。

そういうことをつかさどっている脳の電気信号だかがプッツンと切れてしまうのかなぁ・・

悠々自適な暮らしをしていると認知症になりやすい、と聞いたことがあるけど、

義父が亡くなって後、この地でどう暮らして行くのかがはっきりないまま、

夫はここに住んでいたいんだろうし・・・とか・・

もんもんとしていた、のは確かにあった。

認知症まっしぐら街道を歩いていたんだと思う。

いや、この地でも自分が選ばなかった暮らし方は幾らでもあっただろうけど、

そう、書いた通り、それを自分が選ばなかった。

いろんなことがなるようになった・・・

流れに乗って、行き着いたところが石垣だったという感じだ。

私の認知症的傾向がこれからどうなるのか・・

石垣での暮らしがどうなるのか・・・

わからない。

死ぬまでそこで暮らすなんて決めてない。

暮らさないとも決めてない。

どこか別の場所にまた流れて行くことがあるかもしれぬ。

どうなって行くんだろう・・というのが正直なところだ。

書き出してみたら、今日はこうなったなぁ。