小さい人、孫と暮らしているとそれ以前の自分が遠く感じる。
自分を観ることのいい機会がいっぱいある。
怒ることもない、イライラすることもない、気になることもそれほどない、
・・・そういったような穏やかな夫とだけの暮らしでは味わえないことがたくさんある。
今回、私という人生劇の新しい幕が開いた、と当初も思ったけれど、
なんでも自分の都合のいいように考える癖がある私は、
この新しい幕開けは自分にとってもそうだけど、娘や孫にも何かいい機会になるに違いない・・・
などと思ったものだ。
よく書いてる、自分にとって都合のいいように考える、というのは
何か嫌なことや、不都合なことが起こった時なんかに
この経験は自分に何をもたらすんだろう!?と思ってしまうことなんだ。
そういう嫌なことなんかがぱっと起こったすぐには
そうは思えないのだけれど、ちょっと経ってから、まぁ、頭を冷やしてからと言ってもいいな、
この経験で自分は何を得られるんだろ・・
どんな成長が出来るんだろ・・
どのくらい人生が楽しくなるポイントに・・・
・・と、まぁ、こんな感じだ・・・けれど、
それで~こういうことがよくなったとか、幾らかは成長した、
とか思うことがあっても、又同じようなことをするし、
人から見たら全然変わってないねぇ・・・だけれど・・・
うん、自分でもそう思うね。
何度同じ間違いをやるんだろって、呆れることもしょっちゅうだねぇ。
でも、この経験は自分にとってどんなにいいことがあるんだろ・・
・・って思ってしまう癖は・・変わらない。
そうそう、今日は「真意と見え方」について書こうと思ったんだ。
脇道にそれたね。
孫の一人はとても激しいものを持って生まれたように思う。
三才下の弟が生まれる前から激しい感じを時折見せた。
下のは穏やかな感じを持って生まれて来たように感じる。
ホント、人生のスタートラインは全員が全く違う処に立っている。
ハンディキャップなんか絶対ない厳しいスタートだと思っちゃう。
美人とブス、アホと賢、ウサギと亀ではスタートが違うけど、
ウサギと亀の昔話みたいなこともよくあると思うから面白いし、
人生総決算では不平等なことはないのかもしれない。
まぁ、そんなことないという考えももちろんあるだろうな。
また、横道に行ってしまったか。
孫がくそ意地の悪いような行為をしたときとか、
思い通りに物事が進まないときすぐキレるときとか、
(同じような場面で常にそういう態度じゃないのはもちろんなんだけど)
そういった表に見えるキレ顔?や言葉にすぐ自分が反応してしまって、
(すぐ反応、とはそれは良くないこと、と瞬時に判断していることから起こること)
怒ったり、注意したりしてた。
その時だけの効果だと頭ではわかってたんだけどねぇ。
娘と子育てのことやなんかいろいろと話しているときに・・・
気づいた。
私が反応してしまうのは(上に書いたような)、
その行為の奥にある『真意』が見えなかったからだ・・・
そうか、そうだったんだ・・・
「このままの自分を愛してほしい」
「このままの自分を受け容れてほしい」
それが小さな人の意地悪としか見えない行為の奥に潜んでいる『真意』だ。
断言しよう。
それに気づくと、意地悪に見えた行為がそう見えなくなって来る。
全く違うものに見えてくる。
本当にそういうものだ。びっくりするほど。
元々ある愛が見えれば、愛になれる。
人にはそれぞれいろいろな傾向がある。
この子は何かを創ることが大好き。
何かあっても転換が早い。
人を喜ばせることも大好きだ。
真意が見えるといいところがよく見える。
それが大きく見える。
嬉しいことだ。
さて、これからどんなふうにやれるだろうか・・・
気づいたらその後すべてOKになったらどんなにいいだろう。