ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

マーチ♪

2013-02-28 08:57:24 | ひとの幸福
何度練習しても思うように弾けないときに癇癪を起こしていた私。

そんな話しを友人にしたとき、その友人は

「出来なくて当たり前じゃない」とさらっと言った。

50を過ぎて、楽譜も読めない、ピアノの鍵盤を叩いたこともない、そんなおばさんが

ピアノをするっと弾けなくて当たり前。

そうなのだ、出来なくて当たり前なのだ。

彼女はそういうとき癇癪を起こさない事が当たり前になってるんだ。

10年くらい前から彼女は外国のフォークダンスの、愛好会に入っている。

そのクリスマスパーティに行ったことがあるけど、

くるくると回りながら実に楽しげに踊っていた。

難しいステップもいろいろとある。

練習を重ねてきて、癇癪なんか起こしたことがないみたい。

私が時間を掛けていろいろたくさん考え、体験し、やっとこさ着いた境地に、

彼女はとっくの昔にそこに居る。

そういう境地・心の状態というのは“状態”なので変わるのは当然だけれども、

生まれつきの性向と育ってきた環境でそうなっている。

社会の中で培われた境地だと思う。

生まれつきの性向というそれも、やはり社会の中でつくられたもの。

最近は前世とか過去世というものがあるということがいろんな現象で明らかにされている。

多くの証拠といわれるような事が書かれた本も世の中にある。

「袖擦り合うも他生の縁」というような言葉があるけど、

他生を多生とも書くようだ。

多くの人生、他の人生ということは輪廻転生という考え方があるので、こういう諺があるんだろうな。

・・今まで、誤解を生みやすいのでこういったことは書いたことなかったなぁ。

なんだか今日は書いちゃったよ。

まぁ、誤解されてもいいや。

ひとは今回の人生を体験する前に経験してきた多くの人生のなかの、

それぞれその時空の社会の中で生きてきた痕跡のようなものを抱えて生まれてくるのかなぁ、なんて思う。

私たちが暮らすこの時代の、この社会が齎すものは、

今この時だけに留まらず、次に続くことになる。

マーチからこういう流れになってしまった。



マーチ♪

2013-02-27 11:04:01 | 日々の暮らし・思い出
バイエル47番の次にマーチという楽譜があって、それを練習してるんだけど、

まぁ、難しいこと難しいこと!

何日これにかかっているだろう、という感じ。

何日といっても、ピアノに向かわない日もあるし、

向かっても30分から1時間の間くらいなんだけど。

その曲を初めて弾く時は、いや、初めてのときだけじゃない、暫くの間、

指が鋼鉄で出来てるんじゃないかと思うくらい。

生まれて初めてピアノを弾いたのは9年くらい前だけど、

その頃は指が鋼鉄状態のときによく癇癪を起こした。

暫く練習して、ちっとも上達が感じられないと、

も~ぉ!イヤ!!!って練習を放り出した。

今は癇癪を起こすことはない。

指が願い通りに動かないという自分の状態を、あー、そうかと受け入れられているからと思う。

指が楽譜通りに滑らかに動いて欲しい、という願いを持ってるから練習してるんだけど、

いま願いが叶ってないことに苛立たない。

練習を続けさえすれば必ず弾けるようになる、という確信があるからなんだろうか。


それにしても、自転車は今乗ってないけど、

乗ればすぐに乗れると思う。

ピアノも小さな時に何年か習った人は、ずっと弾かないでいても、

ある程度の曲ならばすぐに弾けるだろう。

体得してるから。


体得をしてる、というのはどんなことでも凄いことだなぁと思う。

ピアノは体得してないから願い通りにはすぐに弾けないけど、

なかなか願い通りに弾けないことに癇癪を起こさないのは体得したかな・・

自覚する時空

2013-02-27 10:55:39 | 実例体験観察
この前の、娘によかれと思ってついつい教えるみたいな感じで喋ってしまったこと。

言いたくなるという“心・意識の状態”があって、

そこから(言う)が現象化したわけなんだ。

かなり前の事だけど、何かを言いたくなって、それを口にした・・

というホンのホンの少しの間に、

「言うかな言うかな・・あー、言っちゃった」という言葉が、

聞こえた(心の耳に、という感じで)ことがあった。

それは顕在意識の私の思考じゃなかったので、

すごくびっくりした。前に書いた「分身だ」という声を聴いたのと同じ現象だったのかと思う。

もう一人の私の声、潜んでいる私の声、だと今は勝手に理解してる。

なんでこんな事書いてるかというと、

(言いたくなる、という心の状態)と(言う、という行為)の間の時空に、

自覚が生まれれば、言わないで済む、ことにもなる。

自覚的になるということは、

ベンジャミン・リベットが意識と行為についての実験をし、

その結果を見て、

“しないという自由意志”を行使する時間は充分にある、

ということを発表した、その時間のことかと思う。

ひとを殺したくなっても、それをしないという自由意志が行使される時間はあるのだから、

ひとを殺したい、殺したくなった、というような意識が生まれても、

それを実行に移さなければ何の問題もない、ということも確か言っていたと思う。

行為の元は心の状態だと何度も書いてきて、それも勿論あるけど、

それと・・・

自分の意識のその時々の在りように目を向け、(観察し、そう在ると自覚し)

自分がその時空で何を実現したいのかの意志があること、で、

行為が変わってくる。


感情のままに行動するのではなく、理性を働かせろ・・というような事をよく聞くけど、

それも同じようなことを云っているのかと思う。

理性とは自覚的になること、と受け取っていいんだろうかな。

ただ、感情と理性という言葉で表現すると、

感情を理性で抑え付ける、といった感じを受ける。

上役の言葉にカッとして何か言い返したくなったけど、

それをぐっと抑えて冷静を装ったみたいな・・・

そういう抑圧は副作用を生む。

(それがいいとか悪いとかは関係なく、ただ、そうなるということ)


今の自分の状態はこうだけど、(言いたくなったけど)

それはよかれと思ってという無意識のうちの働きからそうなったけど、

言いたくなった言葉を言ったら、相手がよかれ状態になるのか、

私のよかれと願うその願いが実現するのか・・

そんな前提のもと、言わないという行為が現象化される。

・・・そんなふうになりたいよ。


言いたくなっても言わない方がいい、なんてことじゃないよ。

そんなのはストレスを生む。

よかれと思ってつい口走ってしまう経験をたくさんしてきて、

そういうことを“言わないことをしたい”そう思っている。

さてさて、現実は如何なりますか・・・


怒りたくなる・・

2013-02-26 10:42:59 | ひとの幸福
(食べたくなる)と (怒りたくなる)

食べたくなる・食べたい気持ちになるのは、腹が空いてくるとそうなる。

そういう気持ちになるには腹が空いているという身体の“状態”がある。


怒りたくなる・怒りが湧いて来る、

そういう気持ちになるにはそうなる心の“状態”がある。

怒り行為の元は心の状態。

『虫の居所が悪い』というのもそういった心の“状態”を云う。

普段は気にしないようなわずかな物事が気にさわり、怒りっぽい状態にある、

と広辞苑。

「状態にある」とはぴったりの表現。「に在る」


同じ物事に対しても、それを見聞きする人の心の“状態”によって、

怒る人もあれば、怒りが湧いて来ない人もある。

当たり前じゃないかと言われそうな気もするけど。

(心の状態)とはどういうことなんだろうか、と考えると、

いろんな物事について、その一つ一つにどういう見方を持っているのか、

それに尽きるんじゃないか。

見方というもの、殆どが潜在意識のレベルだから、

簡単に行かないんだけど・・


ご飯茶椀は左に、汁椀は右に置くもの、魚は頭を左にして盛り付けるもの、

そんな見方をずーっと持ってる私はそうしてないものを見ると、

気になって並び替えたくなる。

そんなふうな、何十年も変わらない見方を持っている場合もあるし、

何十年も持っていた見方が何かの出来事でころっと変わる場合もあると思う。

「虫の居所が悪い」というようなのは、

コレくらいなら許せるというような、普段のその人の気持ちの受け入れ分量があるのだけれど、

腹が痛いとか、急いでいるとか、そういった自分の側の都合によって、

気持ちの受け入れ分量が少なくなってしまっている状態かと思う。

コレくらいなら許せるものである、というその出来事についての見方が、

虫の居所の悪いせいで、変わってしまう。

自分の気持ちが快適になってない元である心の状態は、

変えたいという意志があれば変えられる。

自分が快適でない時、気分が良くない時、自分の意識をよく観察すると、

不愉快になる元の、見方がで~んと鎮座している。


でも無意識のうちの、こういうのは正しい!があるとなかなか見つからない。

一歩ずつ一歩ずつ階段を上がるように練習だ。

久しぶりにこんな事書いたよ。

本当に気持ちも身体も快適になる見方こそ、真に正しい見方なんだろうか・・・

そういう見方、人間観、世界観て、あると思う。















「起こるにまかせて、なにもしなかった人々」

2013-02-25 14:07:07 | ひとの幸福
ユングについての本の中に、こういうものがあった。

「ユングの観察したところでは、

彼の患者の中で、人生の問題の束縛から自由になり、

こころの成長と統合という高いレベルに達した人々は

本質的に、ただ事柄の起こるにまかせて、

何もしなかった人々であった。」以上。


よきにしろ悪しきにしろ自分のことも他人のことも、

起こっている物事に対して、なんとかしようという発想をせずに、

在るがままという状態を受け入れて、

なにも“しようとしなかった”ということかなと思った。

・・コレ以前に書いた文章。


別の本で「しようとするな、さっさとやれ」という言葉が何を云っているのかわからないことがずっと続いていた。

「~しよう」という思いは未来についてのこと、

『明日アレをしよう』みたいに。

(今 ここ)という瞬間のことじゃない。

心が(今 ここ)だけにあったら、つい出てくる、“反応”は無いはず。

(今 ここ)という時空は何もない真に自由な場だから。


「さっさとやれ」は“しようとしてやれ”じゃない。

しよう、なんて思わずに、“したくなる”という心のままに行動しろ・・

・・ということなんじゃないか。

~したく“なる”・・という思いは存在の状態から自然に出てくるもの。

なので無理がない。

おしっこしたくなる、食べたくなる、寝たくなる、みたいに自然のこと。

・・・もしかしてこういうことを以前に書いたかもしれないけど、

こう考えた、という体験がまだ足りないから、

又書くという現象があったのかもしれない。

はずかしい

2013-02-25 12:23:08 | 日々の暮らし・思い出
さっき、娘とのことで気持ちを書いてみて、気が付いた。

娘の姿を思い出してみると、彼女は終始落ち着いた態度で、

ひとの話をただ、うんうんと頷き、なにも言わずに聴いていてくれた。

話し方もゆっくりで、でも・・とか言ったことなかった。

見習うべきは彼女。


娘に・・・

2013-02-25 10:26:10 | 実例体験観察
娘たちは昨日石垣島に帰った。

さっき書いたブログは自分の反省も込めて書いた。

老婆心でついつい娘に一言二言三言、言葉を発したことがあった。

よかれと思って、という奴。

あ~、又やっちゃった。

なんか、教える、という感じの自分だったよ~。

思い返すと恥ずかしくなる。

今回、教える、という気分(境地)になったのは、

そういうことを言う、という行為で相手の“心の状態が変わる・境地が変わる”、と観ていた自分だった、ということだ。

そんなことは無理だ。口でひとは変わらない。

楽しくしてないひとに「今、楽しい気分になれ」って言ってるようなもんだから。

教えてもらう事によって得られるのは知識や頭での理解であって、

智慧じゃない。

智慧は体験を経ることによって自分の身になるもの。

こうして書いているということはそれを頭ではわかっている、ということで、

でも、まだ体得になってない私だ。

頭でわかって実行できるに練習要る、で。

今回の経験も練習の一つになったかなぁ・・

もっともっと失敗が要るなぁ。

言葉より

2013-02-25 09:45:27 | ひとの幸福
思考は一瞬前や一瞬後のことについてであっても、

過去と未来“についての”思考であって、

今 ここ という時空についてではない。

(今ここ)という時空はその人の存在状態が在るだけ。

瞬時の反応というものはその人の存在状態、境地が現れるということ・・

それは顕在意識の思考以前のもの。

カッとしてぶん殴る、のもそうだし、

つい一言二言三言言いたくなっちゃうというのも瞬時の反応だ。

発する言葉より、事についての瞬時の反応、態度を見る方がその人を知ることになる。

いくら言葉でいいこと言っても、やってることを見れば・・ね~

なんて発言も世の中にはある。

ひとはひとをちゃんと観てる。

若い頃、「共産党、家に帰れば自民党」という川柳を聞いたことがある。

国会で立派な答弁をしてる人も、

家族の前では君主してる、みたいなことを揶揄したんだろう。

勿論、一部ではそういう人も居たかもしれないということで、

自民党でも共産党でも人はいろいろだろう。





すし九のひな膳

2013-02-23 18:27:45 | 日々の暮らし・思い出
娘と婚約者、義父、夫、私の5人で伊勢神宮に行って来た。

内宮の中もおはらい町もとても混んでいた。

義父も駐車場から五十鈴川の縁を通って内宮の正宮までの往復を歩いた。

結構な距離だし、内宮の中は砂利道だし、どうかなと心配してたんだけど、

たったったと歩いていた。

そこを歩く人たちも96才とは思わないだろうなぁ、と思った。

おはらい町のすし九という店で皆で昼ごはん。

ここのところ、昼飯抜いていたんだけど、こういうときは別。

ひな膳というのを頂いた。少し甘めだったけど、美味しかった。

こうして昼飯を食べたら、不思議!・・その後、おはらい町を歩いていると、

お菓子屋さんとか、から揚げやさんとか、の前を通ったとき、

(美味しそう!食べたい)が浮かぶ。

食べる前まで、そういうものが目に入っても、なんの思いも浮かばなかったのに、

どうしたことだろう?と思った。

胃が騒ぎ出したんだろうか・・・たった4日抜いただけなのに、胃は・・

アレ?なんで今頃こんなものが??なんて、なって・・

それで、胃はその気になってもっと入れろぉ!・・ってなったんだろうか??


昼飯を抜くって、今日は決めなくて、普通に食べた。

明日は又、抜こうかと今、思っているけど、

こういうことがあると、もしかして明日は食べたくなる、ということになるんだろうか?

それならそれでいいんだけど、

明日、どういう自分が現れるんだろう?

・・こんな事書くつもりじゃなかったんだけど、

流れでこういうことになったよ。


繰り返し

2013-02-22 11:03:04 | 日々の暮らし・思い出
ピアノの練習を続けているんだけど、バイエル46番までたどり着いたよ。

この辺から急に指使いが難しくなって来てる。

右手は音を続けて弾くのに、左手はスタッカートで音を続けて弾かない、なんていう芸当が出てくる。

それとか右手の中指と小指を同時に使って弾く、とか、

そんなへんてこな手つきをしながら、左手は違う動きをする。

当たり前のことなんだろうけど、

あらあら大変、という感じ。

最初は全然出来ない。何度も何度も練習して、

あー、この曲か、聴いたことがあるな、になってくる。

楽譜が読めないというか、それを見てもメロディがわからない頭なので、

その音を出さないとどんな曲だったかわからないんだ。

最初は全然出来なくても、一小節一小節、繰り返し繰り返し時間掛けてやることで段々出来るようになる。

ありがたいことだ、と思ってしまう。

やれば出来るとはこのことか、なんて。まぁ限度はあるだろうけど。

いつかモーツァルトのトルコ行進曲♪を弾けるだろうか????!!!!!

夢なんだけどね。無理という気も大いにするが・・・

まず、ベートーベンのトルコ行進曲♪が目標。

一度は弾けたことがあるから、きっと、そのうち・・・♪

ショパンの「別れの曲」も好きなんだ。きっと、そのうち・・・♪


でも同じことの繰り返し、といっても同じなのは譜面であって、

自分は同じじゃない。一回ごとに違うのかと思う。

一回そこを弾こうとしてそれなりにやった自分と、

二回目そこを弾こうとしてそれなりにやった自分と、

三回目そこを弾こうとしてそれなりにやった自分と、

雪だるまが段々大きくなるように、ちょっとずつちょっとずつ進む。

今のところそういう感じはある。

指の固い癖もそうして変わるように、心の癖もそんなふうに繰り返しを

地道にやることで変わってくるのかと思う。





迎える

2013-02-21 14:36:30 | 日々の暮らし・思い出
明日は石垣島から夫の末娘が婚約者とここへ来る♪

私の次女と近くに住んでいて保育士をしてる。

婚約者の彼とは石垣で会ったことあるけど、ここへ来るのは勿論初めて。

布団を干したり部屋を整えたり、料理を考えたり、

ひとを迎えるのは楽しい。

末娘は96才の義父と会うのもとても楽しみにしてる。

彼女は私の次女と同じように何故か石垣に惹かれ、

短大を卒業してすぐに一人で石垣島に行って、4年近く経つけど、

ここに帰って来るのは初めて。

私は石垣に行ったとき、会っているので、それほど久しぶりじゃないけど、

夫は久しぶりに末娘と会う。楽しみだろうなぁ。

石垣と違ってここは寒いけど、庭のチューリップも芽を出した。

春だ。嬉しいね。

「お前は馬鹿だ」

2013-02-21 14:19:16 | ひとの幸福
「お前は馬鹿だ!」という言葉を聞いて、腹が立つのは、

自分は馬鹿なんじゃないかという幾らかの不安があるからで。

自分を馬鹿だと思ってなければ、お前は馬鹿だと言われても、

何を言っているのかわからないだろう。

私は女だけど、お前は男だと言われても、不機嫌にはならない。

私は男じゃないと思っているので、

何を云っているんだろう?だけかもしれない。


反発という心が起こるのは相手と同じものが在るから・・

磁石のプラスとプラス、マイナスとマイナスが反発するのと一緒だね。




決心して・・

2013-02-20 21:16:12 | ひとの幸福
決心なんていうと大袈裟だけど、小さいといえるような決心もある。

「清水の舞台から飛び降りる」というような大きな決心もあれば、

ダイエットをするかしないか、というような決心もある。

決心というのは心境が利害を超えている場合のものと思う。

こうするとアレが手に入らないし、あーするとアッチがうまいこと行かないし、

・・というような、どっちを選べば得するか、で悩んで、

じゃあ、こうするか・・なんていうのは決心じゃない。

そういうのは計算だ。心を決めるというようなことじゃない。

別にそれが悪いわけじゃない。今日特売じゃないニンジンを買うか、

それまでニンジンを使わないメニュウにして、

どうせ又買い物に来るし、特売まで待つか、なんていうのはよくある。

(でも、こういうことでも決心すると心の在りようが変わってくるということはある)


昨日、(今日は昼めし抜きをしよう)と軽く決心した。

今日も、(今日は昼飯抜きにしよう)と軽く決心したんだろう、

昼飯を抜くか抜かないか、どっちにするか揺れなかったから。

何度もこういったような種類の決心をしたことがある。

何も昼飯を抜くのがいいとかいうわけじゃないのは勿論で、

ただ、そうしたくなっただけの話しなんだけど。

この話の例としては相応しくないや。

その時はすっきりと決めた通り行動するけど、いつの間にか元通り。

それが長く続くことはほとんど無かった。

すると、再び決心する機会が生まれる。

決心したことをしなくなったという現象があるから、

同じことを又決心できるわけで。

相対性の場を“行ったり来たり”してる。

例えば(何があろうと戦争はもうしない)という決心をして、

そうなるような行動を恒常的にするようになったら、

同じことを再び決心することは無くなる。

何度も何度も(行ったり来たり)を繰り返すことで、そしてその自覚があることで、

相対の場から絶対の場へ行けるのかと思う。

繰り返しはもういいや、とそれを卒業するんだろうな。

卒業は無理がない。

(こんなことをしていてはいけない)というものから生まれる行為行動は“克服”という奴で、

無理が生じるのかと思う。副作用が生じる。

そして繰り返す。



アダム5ヶ月で・・

2013-02-20 11:13:56 | 言葉
アダムが生まれて5ヶ月経った。

時々動画が送られてくる。さっき来たのは

スーパーの大きなイージーバッグを両手で何度も持ち替えながら、それを舐めようとしているように見える。

ガサガサっという音もずっと聞こえている。

目で見て触って聞いて舐めて匂いも感じているかもしれない・・・

なんだろう??これは???

母親が傍で「どうですか?袋は」なんて話している。

アダムはその袋をなんだろう?と五感全部を使って観ているのかと思う。

在るものをわからないとき「“な”んだろう?」という言葉を発する。

なんだろう?と思う。

その言葉自体が、

すべて“在るもの”は“なって来た”もの、ということを云っている。

いま在るものすべて、在る物事、在る物質、在る思い、

みな全てが複雑に見事に絡んだ動的平衡というプロセスを経て今そうなっている。

これからも今在るものもそのようになってゆくもの。

そのように言葉が云っている。

数学の問いでも、物事がどうして起こったのかという問いでも、

問いに対しての答えに「そう“な”のか!」という深い納得を持つ時も、

その答えが引き出されたプロセスを了解した、ということだ。

なっとく、という言葉も“な”が付いているよ。いま気づいた。