ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「認知症になった私が伝えたいこと」2

2024-01-12 15:19:55 | 本を読んで

このブログの一つ前のを読んだ人の数がずいぶん多かったので  

びっくり。

本のタイトルで書いたからこの本を読んだ人が多かったからか、、、

「認知症」についての誤解って凄く多いと思う。

私もそうだったけどこの本はその誤解が解ける事が多いと思うので、

たくさんの人が読むといいなぁと思ってる。

びっくりすることが多かったよ。

まぁ、認知症もアルツハイマーじゃないのもあって、

以前「東大教授が認知症になる」だったか正確な名前は忘れたけど、

その人の本とは全然違ってると思うのは、

この本の作者である佐藤雅彦さんは認知症になった事を最初は物凄く

ショックだったけれど、それを受け容れてからは、

とにかく、自分の認知症という病気にどんな症状があるのか、

冷静に捉えて、その一つ一つの症状に対しての

具体的対策をとっているという事だ。

風邪をひいたら安静にするとか、

骨折したら手術するとか、

手術後は安静にするとか、そんな感じで。

とにかく、傾向と対策を確立している。

その対策はとにかく具体的だ。当たり前か。

そしてそれをきちんとやる。

やってからは、出来ているか、必ず確認する。

そして、この人は発病前はシステムエンジニアだったので、

パソコン操作がプロだから、いろいろな事が出来る。

私なんかとそこがまるで違う。

けれど、スマホも同じような機能があるから、

私もよく忘れるので、忘れてはいけない事をメモしているんだけど、

それを見る事を忘れる事がある。やれやれ。

佐藤雅彦さんは目につく所に大きくメモを貼っておくそうだ。

私はテーブルの右端にメモ用紙を置いておいて、

それにメモすることもしてるよ。

けれど、自分で書いたのに、略して書いてあると

コレ何だ?になる事があるよ。

これにも対策をとるべきだね。正確に書こう。

とにかく、在りのままの自分を観ているもう一人の自分を

見失わないようにやって行こう。

そしてドクターに「認知症です」と言われるその日も

多分ショックなく受け容れられると思っている。

こう書いてる自分を観て、

私ってすぐ覚悟する人なんだなぁと又思った。

人生が全く変わってしまうような良くないことを想像して、

それを受け容れられるか?

と、自分に問うことを今まで何回もしている。

まぁ、そういった事が実際に起きたことがないので、

本当に自分がどう「なる」かはわからない。

けれど、それをしないよりする方がいい、と

なんとなく思っている。

 

 

 

 

 

 

 


「認知症になった私が伝えたいこと」1

2024-01-11 09:01:11 | 本を読んで

佐藤雅彦さんという人が書いたこの本をブックオフで見つけた。

手芸の本を探しに行き、ぶらぶら他のコーナーを見てたとき

この本が目に入ってパラパラと読んでみたら、

コレはいい!と買った。

200円というのも魅力だったけど、1000円でも買ったろうなと思う。

自分の状態を観察しているもう一人の自分が居なくなったら、

ブレーキの効かない新幹線と同じと、前にこのブログに書いたけど、

この人は今までの自分と違ってしまった現象面の自分を観察して、

それに対してどう対策をとるか、と考え行動している。

それと、社会にある認知症についての誤解に対しての行動力も凄い。

認知症発症の道を歩いている私にはバイブルだと思ったよ。

 

 


「ボタニカ」・・・浅井まかて 

2022-09-02 13:46:46 | 本を読んで

図書館の返却コーナーにこの本があった。

日本植物学の父と呼ばれる牧野富太郎のことはなんとなく知っていて、

関心を持ってたんだけど、この作者である浅井まかての「類」

という小説を読んで面白かったことと、

ボタニカルアートも始めたこともあり、

 

館で借りて、数日前に読了。

とても面白かった。

この本の牧野富太郎という人は凄くいい。

とても魅力的。けれどこのひとが夫だったら、ちょっとどころか、かなり大変。

ものすごい行動力。

それの元の、ものすごい情熱。

何故か、そう生まれついてた。

どうしてもそんなふうに思ってしまう。

自分は情熱を持って生きようなどと思って情熱的になるわけじゃない。

牧野富太郎は、

何故か、植物がいとおしくてたまらない。

何故か、植物を愛さずにはいられない。

何故か、権威というものに関心がない。

何故か、日本中の全部の植物を見つけて、名前を付けてやりたくてたまらない。

強い思いというのは誰しもあるものだと思うけれど、

彼の生き方は全部そんな風にみえる。私には。

彼の周りにはそりゃいろんな人がいて、彼の考えに反対する人もいたろうし、

いろんなことに出合うけど、

そういったことに彼の心は屈服できない。

持って生まれた情熱のままに生きた人だと思う。

生まれながらの情熱を、生まれながらの自由意思で思いっきり生きた人だと思う。

それに比べ・・・・・と何か書きたくなるけど、書かない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


久坂部 羊 「老乱」を読んで

2022-07-23 20:47:44 | 本を読んで
「老乱」を読んでみて、一番思ったのは、

やはりというか、どんな人だろうと、まずは自分の在りのままを

受け容れてほしいものだなぁと確認したことだ。


小説の中の認知症になった老人の息子や嫁は

その認知症状態が受け容れられないから、

なんとかして、その状態を変えようとする。

それも本人が承諾して、進んでそれをしたければいいけど、

本人の意志に逆らって運動やら勉強やらをやらせようとしたり、

運転を止めさせようとする。

認知症患者だけに限らず、他者から強制されるのは嫌なことだろう。

けれど、周りの人、特に家族はなんとか元のように成らせようとか、

車の運転をやめさせようとか、頑張る。

それの元は自分たちの都合だ。

けれど、確かにそう思うのも無理ないと思う。

車に乗り、事故を起こす、特に人身事故など起こしたら・・・

そりゃ、大変なことになる。

じゃ、どうしたらいいのか!?

運転をやめることがいいのは当たり前のことだ。

だけれど、

止めさせる、という思考で臨むことが一番良くないのではないかと思う。

相手は認知症と言えども、心、気持ち、意志はあるのだ。

脅したり、怒ったりしたら、益々こじれて、

いい結果になりにくいんじゃないかなと思う。

周りの人を自分を虐げる人だと思って、

その人たちの言うことを聴こうという意志などなくなる。

認知症の程度が進み、家族を敵と思うようになるのではないか。

相手の行為、行動に関しては、

ただただお願いするという立ち位置でやらないと

双方共に大変なことになる。

自分を否定されて嬉しい人はいない。

最近よく聞く、人間の尊厳を尊重するという表現や、

心に寄り添うとかの表現もそういうことを言ってるんじゃないかと思う。

地道なそういうことが認知症の人や周りの人を

柔らかにするんじゃないかなぁ。

そうしていく!という強い意志を持つことか。

ふ〰️む・・・・・

私は今のところ、夫より先にボケる気がするから、

夫にこの事、くれぐれもお願いしたいよ〰️🎵






意識のリボン

2022-03-04 16:55:57 | 本を読んで
綿矢りさの 意識のリボン という小説を読んだよ。
とても面白かった。

これとはちょっと違う話しだけど、
私も雲の上の、明るくて、輝いてて、心地よくて、
一人だけで他の人影は見えなかったけれど、
ちっとも寂しくなくて、幸せな気持ちしか感じなかったところに
居たことがあったよ。
そういう場所に行ったわけじゃないのは勿論だよ。
そういう意識の私だったことがある。

以前にここで書いたことがあったかもしれない。
結構たくさん書いてるので探すのも大変だから確認してないんだけど。
「意識のリボン」は作中の真彩という女の子が交通事故で、
死の間際の意識の中身が書かれたもので、
私のはそんな状況ではなかったけどね。
10才になる前だったと思う。
私の意識というより、
意識の私が
そこに行けた。
そこはとても居心地がよくて明るくて、
他の人影は感じられなかったけど、
寂しいという気持ちなどなくて、
ただ快適だった。
いや、快適なんていう ちんけ なものじゃなく、
そう、こういうのを天国というのかもしれないと、思う。
けれど、その時、今はここにいてはいけない、
身体の私がやってるところに帰らなくちゃ!
という思いが生まれて、
そうするとこの世の意識の私に帰れた。
又、行って来よう🎵と思って、
意識をそうなるようにすると
雲の上のようなところに行った。
勿論、意識の私が。
まぁ、信じて貰えなくても構わないんだけど。
上に書いた、 意識をそうなるようにすると、
という方法は意識を何処かに持って行く、ということなんだけど、
そういうことをしなくなったら、
出来なくなってしまった。

上に書いたことがあったのは・・・・
自分に 意識 というものがあった!
という発見の日々だったと思う。
そして、
意識の私 は私以外誰も知らない、わからない、
その事に最強の驚きを感じたのだ。

誰もが全員、それぞれの意識の自分しか知らない。
その世界でしか生きられない、ということに
天地がひっくり返るほどの驚きを感じた。

勿論、その意識に働きかける意識は無数にあって、
働きかけたり、働き掛けられたりして少しもじっとしてないんだけど。
そんなこと、書くまでもなく当たり前のことで誰もがわかっていることだと思う。

私の意識が認識している世界は、
在る現象としての世界とは別物だ
ということに、
小学生の私は心底驚いた。

近くの八百屋さんは私の意識に、
あそこのおじさんは汚いとかあるけど、
他の人の意識には感じのいいおじさん、かもしれない。
そう、気がついて、
一人一人違う世界に住んでる!
世界は人の数だけあるんだぁ!!
この驚きは忘れられない。

ロシアが戦争を始めた。
それを知らない人もいる。
近くにいるもうじき三才の孫は知らない。

この孫の世界に戦争はない。
この孫の世界に戦争をもたらしたくない。


河合隼雄さんの・・・もうひとつ の言葉

2021-03-10 13:42:13 | 本を読んで

・・・・・カウンセリングで相手(学生)が「行けなかった」と言った時、「でも行けるよ」って言ったら、

行けなかった悲しみを僕は受け止めていないことになる。

ごまかそうとしている。

「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。

望みを失わずにピッタリ傍におれたら、

もう完璧なんです。

だけど、それがどんなに難しいか。

・・・・・これ。

河合隼雄さんでも難しいことなんだと。

でも、それしか方法はないんだなと思った。


聴く・・・河合隼雄さんの言葉

2021-03-10 13:06:11 | 本を読んで

もう亡くなっているけど、河合隼雄さんと作家の小川洋子さんの対談集を読んだ。

「生きるとは 自分の物語を つくること」だ。

聴くという中身がとてもわかりやすい表現であった。

日常のなかで何気なく人を励ましているつもりでも、

全然励ましてない場合があって、それは「頑張れよ」。

それは切っていること。「さよなら」と同じだという。

「あなたが持ってきた荷物は私も持ってますよ」という態度で別れる、

のが河合隼雄さんの、カウンセラーの、別れかただという。

あなたが持ってきた荷物は私も持ってます・・・

これって凄い。

聞き方が相手と一体になってる、と思った。

相手の上でも下でもない。

同じところに立っている。

私も心が多分もやもやとしてる状態の人と話をすることがあるけど、

これをどう聞いたらいいんだろう?となることがよくあるんだ。

あなたが持ってきた荷物は私も持ってます・・・

うーん、本当に実行してるひとの言葉だ。

それと、もうひとつ印象に残ったのは

聴く側、カウンセラーが、あかんかなと思いこんだら、

相手は、本当に良くないんだなと、不安になる・・・

ので、聴く側は絶対希望を失ってはいけないということ。

自分もひとの話を聞いているとき、

相手が辛さ苦しさを訴えたときなど、その辛さはこれからも変わらないんじゃないかと思ってしまうことがある。

直ぐに気付いて、それを打ち消す。

希望を持ってないと聞く方もが辛くなる。

希望をずっと変わらずしっかりと揺らがず持って、

相手が持っている荷物は自分も持っているというところに

自分を置いて、

いきたい。

 


「リンゴの花が咲いたあと」

2018-02-03 14:07:58 | 本を読んで

木村秋則さんの新しい本を読んだ。

本当に凄い人だ。無肥料無農薬でリンゴを作ろうとしてから40年くらい経つようで、

今では大きくて甘い最高のリンゴになった。

その農法、自然栽培でお米も作っている。

日本や外国に年がら年中講演や指導に駆け回っている。

政治家や役人や海外ではダライ・ラマやオノヨウコさんなんかにも会って

思っていることを素直に言い、相手の言葉をよく聴いている。

ずっとアゲインストの中でやってきた、とあった。

胃がんにもなり、かなり命までが危ないこともあったようだ。

こうして立派なリンゴやコメが出来るようになっても、

地元の農家の人たち、地元のJAは冷たく固まってしまっているよう。

村八分の扱いをしてきた人たちも心では済まなく、

謝りたいと思っている人もかなりいるんじゃないかと思うけど、

古いしがらみ、忖度ばかりの風が吹いている田舎で

木村さんほど強い心を持てない人たちを思うと切なくなる。

それにしても木村さんという人は強くて優しくてしなやかだ。

素晴らしい愛の持ち主だ。

リンゴや米、自然からの贈り物の一つ一つに心があると確信を持っている。

全部繋がっていると確信がある。

この農法で世界はよくなるという強い確信も持っている。

胃がんもおとなしくなって転移もせずに元気でおられるようにと

心から思う。

神さまにお願いしたくなる。


「寂しい生活」・・・稲垣えみ子さん

2017-10-25 20:33:49 | 本を読んで

とても面白かった!

著者は元朝日新聞社社員で週刊朝日などの論説委員なんかもしてた人らしい。

アフロのイナガキさん、というので有名らしい。知らなかった。

まぁ、知らないことばっかりだから、わざわざ言うことでもないか。

 

イナガキさんは福島原発事故が起こったことで自分自身にすごいショックを感じた。

事故前の原発反対運動などに対しても、記事になることには頑張るけれども、

原発の抱える矛盾について何一つ調べようともしてなかった自分が

この事故の責任者は誰だ!などと追及する資格はないし、

便利で快適な生活は原発の危険を引き受けている人たちに

どっぷり頼り切っていたものだった・・・そういう自分だった・・・

反原発を言うならそういう自らの暮らしを根っこから問い直したい・・・

そこから始まった。何をやれるか・・

思いついたのが「個人的脱原発計画」。

で、節電節電・・思いつくことをどんどんするがほとんど結果が出ないことばかり。

けれど、めげずに、どんどん考え、どんどんやることを探し、

結果的にどんどん身軽になってしまう・・・

・・・こういった展開がちっとも重くなく軽く面白く表現されていて、

一気に読んでしまった。

こんなふうに一気読みした本はずいぶん久し振りだ。

それが嬉しかったよ。

「ブッダ」や「悟り」なんて言葉もか~るく面白い感じで出て来たり、

今のこの世、日本という国のおかしさがすごくわかりやすく書かれているんだ。

最後の方に、こんな文章がある。

・・・元々の小さな自分に戻ったら、意外と楽しいどころか、

楽で安心。心に風が吹くような・・

元々十分すぎるほど持っていたとわかった・・・

 

この本の展開のこと、読んだことのない人には書かない方が読む楽しみがあると思って、

この位しか書かないことにするね。

 

十分過ぎるほどの何を持っていたのか・・ことなんかも興味ある人は是非読んでね。

こんなこと言っている自分はどうなんだ・・・

というのはある。

 

 

 


村上春樹 『職業としての小説家』

2017-07-30 14:13:44 | 本を読んで

久し振りに村上春樹さんの本を手に取った。

前回読んだのは、多崎つくると巡礼のとき・・・と記憶してたら、

やはり記憶違いでありました。

「色彩を持たない多崎つくると巡礼の年」でした。

この程度の記憶力、といったらカッコつけ過ぎくらいなこの頃の私で、

読んだという朧げな記憶はあるんだけど、

内容をすっかり忘れていて、今、ネットを見たら筋書きがあって、

あーぁぁ、そういうのだった・・・です。

今回のは゛自伝的エッセイ”とあったよ。

やっぱり、この人を私は好きだなぁと思った。

そして凄いとやっぱり思った。

強いと思った。

頭と身体が一致してる。

他者にずかずかと踏み込まない、というか、

そうすることで誰にも何もいいことがないということを知っている。

小説を書くことが大好きで楽しくて面白くて大変でその大変さを放り投げられない、

面白いから。きっと。

そんなふうな自分でしか在りようがないんだろうなぁと思う。

まぁ、だれでも今のような自分でしか今現在は在りようがないものだけど。

小説を書かずにはいられないんだと思う。

言葉を紡いで自分の心の奥底まで降りて行くことの恐さや面白さから

抜けられないんだろうなと思う。

いい人生を送っているんだろうなと思う。

とても読み応えがあった。


「世逃げのすすめ」ひろ さちや さん。

2017-07-11 14:43:41 | 本を読んで

この本からの引用です・・・子供と財産は仏からの預かりもの・・・

勉強が嫌いな子供もいます。ほとけ様は

「この子は勉強が嫌いな子供なんだ。この子を幸せにしてやってくれ」

と願って、その子を親に預けられたのです。

なにも「この子を勉強好きな子供に改造してくれ」

と頼んでおられるのではありません。

生まれつき障害を持った子供のことも、

仏は障害を取り除いてやってくれと人間に預けたのではなく、

「障害を持ったまんまのその子をそのままで幸せにしてやってくれ」

と言って預けた・・・そうな。

途中で障害を持つようになった場合は仏はなんというのだろう?

・・・もちろん、その障害を持ったままで幸せにしてやってくれ

と、望んでおられるのだろうなぁ。

昔よく聞いた、「雨なら雨で」と晴れではない天候を

ひとは受け容れる。割とたやすく。

自然のしわざには人は最初から願望を放棄している状態なのかもしれないねぇ。

願望をもってもすぐ手放せるんだろうなぁ。

隣の家の障害を持った子供に人は同情は寄せるけれども、

無理な願望を抱かない。

やっぱり゛我が子”は預かりものじゃなく、

断固として預かりものじゃない!私が産んだんだっ!

俺の子だっ!になるんだねぇ。

スピノザが願望の放棄は幸福そのものと言ったと記憶してるけど、

「放せば豊か」と似てるねぇ・・・

 


人間の物差し、仏の物差し

2017-07-10 21:01:36 | 本を読んで

ひろ さちやさんの『世逃げのすすめ』という本を読んだら、

なかに「人間の物差し」「仏の物差し」という言葉があって、

上手い言葉遣いだなぁと思ったよ。

人間の物差しというのはどんなもの、どんなこと、でも

良し悪し、優劣、高低、大小、美醜、左右、前後・・という、

それも細かな目盛りがついてあるけど、

仏の物差しというのは目盛りが無い、

というようなことを言っておられるのかと受け取った。

そのもの、そのことをただ、何の判断もせず、

そういうもの、そういうことと受けて、

それならそれでと、そのことを預かる、といった感じ。

物も人も仏からの預かりもの、という解釈が彼にはあるからだろう。

仏とか、預かりものとかの表現は抵抗がある人もあるかもしれないけど、

文章全体から伝わって来る何かがあればいい、と思う。

 

しょっちゅうこういう境地だったらどんなに人生は快適だろうかと思う。

何も恐いものなしだ。

 

この程度の自分でもほんの時たまこういう感じになることがある。

そういう時はやっぱり仏の物差しでそのもの、そのことを観ているんだなぁと後でわかる。

しょっちゅうこういう感じになるのはやっぱり自分が

仏さまと呼ばれる頃・死んでから・・なんだろうねぇ。

 


自分が愛しい、ということ

2016-03-05 09:00:46 | 本を読んで
釈迦が言ったという言葉・・・

『どの方向に心で探し求めてみても、

自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。

そのように、他人にとってもそれぞれの自己が愛しいのである。

それ故に自分のために他人を害してはならない。』


このことで、

自分が愛しいと思えるのは自分の存在を大切にされ、

肯定された確かな記憶があるかどうかによるだろう。・・・と著者の言葉があった。

人は関係性の中でつくられるからそうなんだなぁと思った。


小さな頃愛されたという記憶がない、という人があるかもしれないけど、

私、一番幼い頃の記憶としては3才の七五三。

それもその神社の長い急な階段を母と祖母とで上ったというシーンだけで

他の日々のことなど一切記憶がない。

ましてやそれ以前の記憶は全くない。

小さな頃大切にされ、肯定されたという記憶自体がなくても、

事実はそうだったということは多いと思う。


自分が愛しいと思える人は人を愛せる。

人を愛せる人は記憶がどうだろうと愛されて育った。

「問いから始まる仏教」を読んで②

2016-02-28 20:22:32 | 本を読んで
仏教の基本教説に「四諦(したい)」というのがあり、それは

「この世は苦しみであり、苦しみには原因があり、苦しみは滅することができ、

滅する方法がある」という四つの真理を言う、とあった。


心が苦しいとき、何故苦しむのか?という問いを自らに問うことがある。

考えてみれば、

何故苦しむのかという問いを持つこと自体、

苦しむことが当たり前じゃないからだろう。

人間の深い深い深い本質は『楽』だからこそ、

『楽』の反対の『苦』が生じること自体ヘンなのだ。おかしいのだ。

ヘンだからこそ、問いが浮かぶのだ。

『楽』が当たり前だから、

何故楽しいのか、なんて問いは浮かばない。

なので、苦しみは錯覚だ。


苦しんでいるのにその問いを持つことが出来ない、これはそのとき、

苦しんでいるのに、それを観てる自分が消えてるから。

で、その問いを問えないことも多い。

著者の南さんは錯覚・解毒・再建のサイクルは生きている限り続く、と書いている。

本当にそうだなぁと思う。

そして苦しいという錯覚に気付いて解毒されても、

又別の錯覚に陥る。

この世とセットの自分だから、錯覚は免れない。

錯覚に気付いて解毒し、再建し、又錯覚し・・・

でも宇宙もサイクルだろうし、気楽にそれをやろう。

坐禅という方法の解毒は私には出来ないけど、

上に書いた自分への問いは出来るし、有効だよ。


釈迦と気が合うと言った山岸さんは

人間社会が幸福になるために三つ巴の機構を設けることを考えた。

学校と試験場と釈迦のいう無所有が顕されている実際の社会の三つ。

・・・このあと、何を書くというのか・・・わたし。




「問いから始まる仏教」を読んだ

2016-02-28 17:55:00 | 本を読んで
南直哉さんというお坊さんの名を知って、アマゾンで本を買った。

「問いから始まる仏教」

理屈っぽかったけど、伝えたいことが伝わって来たように感じた。

自分が存在する・・そのことを自分に問えと書かれてた。

「仏教は自己を問うものに示す道を持つ」

「仏教は教え自体が『問い』でもある」


自分というものが在る、なんて言えないこと。

『自分』というものは常に関係性の中にある。

個としての自分なんて無い。事実として有り得ない。

他(ひと。もの)と離れて自分はない・・・ 

時を離れて自分はない・・・ 

さっき昼ごはん食べたけど、アレを食べてなかったら、

物理的な身体は今の身体(自分)と違う・・どの私が本当の自分なのか???

まぁ、そういうことだ。

人間ではなく、物も、

そういった形をしている或る物にご飯をよそって食べるという行為をして、

それにご飯茶碗という言葉をつけてみんなで茶碗と呼ぼうということになった。

その物はご飯との関係が出来たからこそ「ごはん茶碗」になる…そういうようなことも書かれてあった。


たくさんの他人、物、出来事と関係して今の自分という流動体が在る。

すべて在るものは関係性の中にある。

在る、とは、なって来た ということだからね。

自分が自分が、という自我なんて何の根拠もないよ・・

そういったことが書かれてあったよ。

その通りだね。

この世は“私”という自我があるから、そこに欲望が生じ、所有が生じる・・

自我がナンセンスだということがわかれば、所有もナンセンス、ということになる。

自分が存在するとはどういうことか・・という問いを持ち、考えることをしないから・・・

この世はいつまで経っても変わらない・・のか・・