ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

もう一人の私

2023-10-23 11:27:24 | ひとの幸福

最近とみに記憶力が衰えてる。

多分そのうち認知症になるだろうと観念してるんだけど。

今は(忘れた!)と、わかる、もう一人の私が居るけれど、

(忘れた)という事もわからなくなったら、

それはもう一人の私が死滅してしまうという事だよなぁ。

自分を観察出来なくなるのはかなりイヤだなぁと思うけれど、

脳で起こっていることに抵抗するのはかなり難しいのだと思うよ。

身体は思うようにはならないのだから。

胃や心臓や肝臓なんかに対して、

こう〜なってぇ!なんて願っても

そういうふうにはならないものね〜

もう一人の自分が居なくなってしまったら、

夢遊病者だ。

コントロールの効かなくなった新幹線と同じなんじゃないかな。

 


友人夫婦が来てくれて

2023-03-19 18:02:09 | ひとの幸福

友人夫婦が遠くから会いに来てくれて、

お酒を飲みながら私と夫とその友人夫婦四人でお喋りを楽しんでいた。

その時、わたし、夫に対しての愚痴みたいなことを言った。

それについて他の三人は誰も何のコメントも言わなかった。

そのことがすごくよかった。

本当に有り難かった。

自分が発した言葉が自分にブーメランみたいに返って来た感じ・・

・・・と、言っていいんだろうか、

その時、それは相手に要求するものでなく、

私がそうしたいなら、私がすればいいことなんだ・・・

口には出さなかったけど、そうだよ!と自分が自分に言った。

わかりにくいね、これじゃ。

具体的に言うと、

二人で暮らしていて、食事の時私が話しかけなかったら、

彼も黙って食べてるだけで、

静かな静かな食事風景なのだが、

それがとても不満だったのだ、私は。

今回来てくれた友人夫婦は食事の時はいつも二人で

お喋りしながらすると聞いていて、

とても羨ましく思っていた私だった。

・・・私が話しかけなかったら、何も話してくれない・・・

という不満タラタラの(くれない族)だったのだ、私は‼️

それに気づいたのだった。

私が会話したいなら、そうしたい私がすること。

それだけのことじゃないか。

本当に恥ずかしい話しなんだけど、

いつも私ばかりが話しかけていて、自分からは何も話してくれない、

という不満にどっぷり浸かっていたのだった。

そういう不満本音を吐いて本当によかった!

それを他の三人はそんなこと言うの、おかしいよとか、

夫にたまには自分から話してみたら、とかの

意見とか説教とか一切発さなかった。

その結果、私の不平不満は自分に返って来たのだった。

 

新幹線に乗ってわざわざ来てくれた友人、

いつも傍にいてくれてる夫、

本当にありがとう。

そしてこれから、又何か不満とか生まれたら、

ここに正直に書こう。

それを自分から放して聴こう。

出来るかどうかわからないけど、やろう。

 


今年最後の日。

2022-12-31 16:42:08 | ひとの幸福

早いなぁ。速いなぁ。

今年も今日で終わり。

かなり今年は地球も世界も私も、え?!あれ?!!

マジヤバい!、、なんて表現は普段しないけど、

本当にマジヤバい。

個人的なマジヤバは忘れが酷くなってることだ。

これからどんどんそういう現象が進んで認知症になるかもしれない。

けれど、諦めるのは得意なんだ。

そうは言っても実際どうなるかなぁ。

苦しむかなぁ。

認知症になっても、性格とか生き方とかで、

うんと精神的に参るか、参らないかは違うかもしれないなぁ。

そういうのもここに気持ちを書いて行きたいなぁと

今のところ思っているよ。

ではまた。

良いお年をお迎えください。

私はこれから続きの読書です。

曽野綾子さんの「結局、人生の最後にほしいもの」

を読んでる。

この人のエッセイ何冊も読んでるけど、これが一番入って来る感じする。


大腿骨頚部骨折41

2022-12-24 13:39:34 | ひとの幸福

久しぶりだなぁ!

まぁまぁ元気。

骨折から2年3ヶ月だ。最近はいっ時より痛むことが多い。

腰から右脚にかけてビビビビ‼️

とかなり痛みが先月あって、病院へ。

レントゲン写真では骨折の所に異常なし。

で、MR Iで調べた結果、神経の痛みだと。

所謂神経痛というもので、リリカという薬を処方されたが、

効果を感じられず。

で、薬を飲むのをやめてみた。

どういう動作をしたとき痛むか、よくよく観察して、

椅子から立ち上がる時の動作が良くないと、多分わかり、

そういう動作はせずにいたところ、痛みが出なくなり、

それを続けていくうち、それを気にせず自然な動作になり、

気づいてみたら、自然な動作でいても痛みが消えていた。

そういう顛末に。

その変化がこれからだんだん良くなる兆候なのか、

悪くなる兆候なのか、わからない。

何故そう思うかというと、走るのが痛くて出来なくなったからだ。

大股で速く歩くことはある程度の距離なら出来るから、

急ぐときはそんな感じでやってる。

ドクターは術後の痛みはない筈と言ってたから

何かしら良くないことがあるんだろうけど、

自分の身体がどうなっているのかわからない。

まぁ、痛みが無かった過去も身体がどうなっているのか

わからなかった自分だから、まぁ、いいかと。

今日はクリスマスイブだ。

私には何にも関係ないことですが^ ^


何故こうなのか

2021-08-09 12:34:06 | ひとの幸福

久しぶりだ。

書こう書こうと思っているのにパソコンの調子が悪くて

面倒に思ってしまってる。

で、これはスマホから。

何故私はこうなのか・・・

最近そんなことを思う。

何故こうでしかないのか・・・

能天気というが当たっている気もする。

のうてんきと打ったらこの字が出た。

娘と話しているとき、よく彼女は「悔しい」という言葉を発する。

それを聞いて、私は悔しいと思ったことがあまりないなぁと思った。

けれど、自分がしていないことをしたと言われ、

非難された事なんかでは

悔しいという気持ちになった事はある。

けど、自分の持っている能力以上のことについては直ぐに諦めてしまう傾向は大有りだと思う。

出来ないことを出来ないままにしていることに抵抗がない。

小学生の時から・・・

鉄棒で逆上がりが出来なかった。

縄跳びの二重跳びなんてとても出来なかった。

走ることは出来たけど、かなりタイムは悪かった。

運動会で最後尾を一人走っていて誰も周りにいないのに一人で転んだ。

跳び箱は跳べなかった。

音楽の♪を見てもまるきり音を想像出来なかった。

・・・こういった出来ない事について悩んだ事がなかった。

私は出来ないんだ。

それだけだった。

向上心がない。

そういうことなんだろうと思う。

向上心が強くて、それが叶わないと悔しいのかと思う。

向上心もあって、トライして、出来ないとわかっても、

悔しいと思わない人っているのだろうか・・・

・・・わからない。

唯一できないことをやってみようと思ったのは

ピアノを弾くことだった。

53才頃、いきなりピアノを弾きたい!と思いつき、

電子ピアノまで買って一年レッスンに通った。

向上心はあった。

思うように指が動かず、やだー!!と思ったことがあり、

あぁ、こういう気持ちの経験をスポーツをする人はしてるんだ!と思った。

一応バイエルは終えた。

今はかなり練習しないと50番位も弾けないと思うけど。

他の上に書いた出来なかった事については向上心などまるきりなかったのだ。

出来るようになりたい、という強い思いがピアノのレッスンを後押しした。

思うように指が動かないということに、

あ〰️😞‼️‼️‼️もうやだぁ‼️と嘆き、

でも、次のレッスンの日までは習得しなくちゃ!で、

頑張ってやった。

やりたくなくても、それをしないと、

その曲を弾けるようになれないことはわかっていた。

こういう経験はピアノを前にしたことだけだ、私の人生で。

 

私は跳び箱も縄跳びも逆上がりも出来るようになりたいと思わなかったのだ。

ただそれだけのことだ。

・・・こうしたい!こうなりたい!という欲望がなければ、

悔しいと思う気持ちもない。

かといって、自分は欲望がないわけじゃない、と思う。

欲望大有りだ。けど、

鉄棒も跳び箱も出来なくていい、というのが無意識にあったんだろうな。

出来ない私にとってはどうでもいいことだったんだろう。

自分がやりたいと思うことについては熱心だった、熱心だ、と思う。

やりたいと思うことはやって来た、と思う。

この人生やりたいと思うことしかやって来てないかもしれない。

そんなこと聞くと、えぇー!!かもしれないけど、

悔しいという気持ちも味わわずにいたということは

そういうことなのかもしれない・・・

なんて思うのだ。

やりたいことの中身は小さなことだ。

大それたことなんかない。

自分の身に合ってたことなんだろうと思う。

ちっとも立派なことじゃない事柄ばかりだと思う。

食事の支度なんかしたくない!

と思ったことはあるけど、

わりと直ぐに、やるか!になる。

本当に本当に本当にやりたくないことをやったことは

40年近く前の事だけど凄くよく覚えている。

凄く凄く苦痛だった。

嫌々ながらやることの多大な嫌な嫌な気持ちは忘れることは出来ない。

 

悔しいという気持ちもそれほど経験せずに、

蛙の面にしょんべん、で生きて来たんだろう。

悔しさも歯がゆい思いもせずに蛙の面でこの人生を生きて来た。

そういうことなのかもしれない。

幸福だったか?と聞かれてもそれはよくわからないけど、

自分を好きで居られる時間が多いなら

幸福だと言えるんじゃないかと思う。

自分の人生は自分しかわからないもの。

自分を好き、という目安も人それぞれだろうけど、

私はそのハードルが低いのかもしれないな。

まだもう少しこの人生もあるだろう・・・

・・ないかもしれないけど・・・

明日死ななければこの人生は明日も続いて行くだろう。

生きている間、自分を好きで居られる日が多いといいなと思う。

 


ゼロで聴くこと

2021-04-05 14:41:07 | ひとの幸福

「我 当然  執 抹殺」

という言葉があった。

 

私はコレコレこう思う、

私はコレコレこういうやり方が正しいと思う、

私はコレコレが好き、

私はコレコレするのが当たり前と思う、

私はコレコレするなんてとても出来ない、

私はソンナコトは無意味と思う、

私はコレコレするなんて恥ずべきことだと思う、

・・・こういうような自分の思いや考えを持っているのは当たり前のことだ。

人それぞれいろんな価値観、人生観、世界観を持っているのは当然だ。

けれど、その考えを知らぬうちに正しいと決めつけていることが多い。

他人じゃなく、家族とか、ごく身近な人の言葉や行動を

見聞きしている、その時、その瞬間、

自分の機嫌が悪くなってるとしたら、

自分の考えは正しい!と思い込んでいる証拠。

・・・・それは間違っているよ・・

・・・なんで又こんなことを言うんだ・・・

自分の気持ちがこんなふうな展開になるのは、

自分が思い込んでいる正しさを放せない状態だ。

そういう放せない自分の思いが自分の機嫌を悪くする。

自分の機嫌を悪くするのは自分しか出来ないことだ。

いや他者が自分の機嫌を悪くする、と思い込んでいることが

多いけど、

よくよく、自分のうちを観察すれば、わかる。

自分しか自分を傷つけることは出来ない。

肉体的なことは別として。

ちょっと脱線したけど。

 

在ること、在る思いや考えは否定出来ない。

そこに今、在る という事実は否定することは出来ない。

だって在るんだから。

在る は 無い ではないから。

人は否定されるとへこむ。

そうでない人は別として。

否定してるうちは、その現状は変わらない。

否定は否定しか生まない。

これを常に銘じていたい。

自覚していたい。

 

これをやってみてどうかをここに書けるといいなと思っているんだけど、

どうなるだろう。

また、しくじった、ばかりだろうか・・・

自分のためにやりたい。

自分のため以外ない。


私には何も出来ない

2021-03-25 16:34:16 | ひとの幸福

ちょっといろいろなことが起こって、

「私には何も出来ない」(その人に)

この思いが頭に浮かんだとき、

その人にこんなふうに思ったのは初めて、かもしれない・・・

と、思った。

そして、

私には何も出来ない、という思いが初めて、ということは、

それまでは、私には何か出来る、と思い込んでいた・・・

ということじゃないか・・・

そう思った後、

そうか。そうだよね。

が、来た。

そして、次には、

なんだか、気持ちがすうっとした。軽くなった。

お手上げ。

そうだ。お手上げ。

降参。

何に降参したのか?

降参する、ということは戦っていたのか・・・・

勝負してたのか、わたしは。

何に勝とうとしてたのか・・・

勝負など、最初から有り得ないのに。

無い勝負を放棄したのか、わたしは。

 

さて・・・・・

 


変わる為に何もしてないのに・・・・・

2021-02-27 15:43:41 | ひとの幸福

肉体的苦痛が続いていたひとのこと。

「こんな自分は嫌だ・・・

こんな目に遇うのは嫌だ・・・・・

こんな状況は嫌だ・・・・・

イヤだ!イヤだ!イヤだ!・・・」

と、嘆き、悲しむ日々が続いていたよう、

 

そりゃ、不快感や肉体的苦痛は誰だって嫌だ。

肉体的苦痛や不快感が好きという人は多分居ない・・・と、思う。

ずっとそういう思いを持ち続け、

少しでもいっとき気持ちが和らぐ他者の言葉を追い求めながら、

嘆き悲しんでいた。

願い通りになる兆しもなかった。

そう、状態は変わらなかった。

それがある日、

何の行動もしないのに状態が変わったよう。

 

「自分の身体の状態を受け容れてない、んじゃないかな?

嫌だ嫌だと否定ばかりしているんじゃないかな?」

そういう言葉を掛けて貰ったそう。

 

その言葉を聞いて・・・・・

どか〰️ん!という衝撃はなかったようだが、

何か響いたよう。

 

何もしてないのに。

聞いただけ。

その言葉を聴ける状態にその人が在った。

時が来た。そう思った。

嫌だ嫌だ嫌だ・・・の、嘆きの言葉が消えた。

肉体的苦痛が格段に減ったよう。


危うい集団思考 麻痺

2021-02-16 20:44:30 | ひとの幸福

・・・けれど、それだけじゃない。

麻痺だ。

集団の中にいると、段々麻痺してくる。

意識が正常な働きをしなくなる。

それが当たり前になって、麻痺してることがわからなくなってくる。

怖いものだ。

 

「それ」以外が無いと、

「それ」の、おかしさ、間違い、に気付かなくなる。


自己に発し 自己に還る

2021-02-14 15:13:35 | ひとの幸福

自分が他者にしてきたことの結果はちゃんと自分に還って来る。

所謂いいことも悪いことも。

子育てなんてまさにそうだなぁと思う。

悪いことの方はもう取り返しなんてつかないけど、

目の前の姿は自分がしてきたことの結果だと心底思ったら、

少しでも、何かが変わって行くだろうか。

やってもいないうちに図々しいよ。

そう自分に言う。

やってみてから言えよ。

と、自分に言う


ひがみ根性の元・・・

2020-08-23 10:22:37 | ひとの幸福

20年位前に娘が定期購読していた月刊波動というのを

私も読ませてもらって、へぇこんな世界があるのかと思った。

いろいろととても勉強になったし、面白かった。

水は答えを知っている、という本を書いた江本勝さんが出している本のようだった。

いや、なんでそんなことを書いているかというと、

その本に波動調整というのをしている所がある云々の記事があり、

割と近くにそういう所があって、行ったことがある。

人の臓器には固有の振動数があって・・・云々・・

詳しいことはもう忘れてしまったけど、そこで手をその機械に入れて計ると・・・

私はひがみの波動の数値が高い、というのが出たんだよ。

とても納得が行ったのでよく覚えているんだ。

一緒に行って調べた人はそういうのは出ず、恨みの波動が高かった。

それはいわゆる、いい人 にそういう傾向があるということ。

無意識的に自分より他者を優先してしまいがちの人は

そういう波動が高くなるそうだ。

それも納得できる。

自分が一番自分を大事にしなければいけない。

でもやはり無意識的に人のためにとそうしちゃうんだよね。

そんなふうに育てられたりして・・・

 

幼稚園に行く前、何歳頃だったか忘れたけど、

もう話が出来てたから三歳か四歳頃のことだ。

毎晩のように私は庭に出て大きなツツジの植え込みの下で泣いていた。

自分が家の中に居ないことを家族にわかってほしくて、

探してくれるまでここに居ようと思っていたことを憶えている。

ほとんどの日が探されることのなかった日だった。

一度だけ、そんなところで何してるのっ!と言われた記憶がある。

その口調のせいかちっとも嬉しくなかった。

そして毎晩のように泣きながら眠った、という記憶がある。

あれはどういうことだったんだろう??というのがある。

よく、子供には厳しかったけれど、孫は可愛がるとか聞くけど、

同居の祖母はとても厳しい人で、

日常的にそんなふうにされた記憶はないんだ。

ケチばかり付けられたという印象がある。

わたしは女が嫌いなんだと堂々と私の前でも言っていた。

わたしは女の子だった。

そして祖母も女だった。

祖母は自分が嫌いだったんだろうか・・・

 

小学生になって家族以外の世界を知ってからは

毎晩泣きながら眠るというようなことはなくなって、

いわゆる元気で明るい子供だったよう。

なんでこんなことを書いているかと言えば、

自分の意識が暗くなるときは必ずひがみ感情が出てくるから

関係あるのかなと思って。

でも、関係あるからとわかったとしても、そんなことわかってもしようがない、

と、今書いてて思ったよ。

 

「どうせ私なんか」・・・・

あ、今この言葉を書いてわかった!

どうせ私なんか、と思うということは、

私という自我が凄く大きくなっているということだ!

ここに私さまがおるのがわからんか、このたわけ者めが・・・これだ。

言葉にして出してよかった。

ひがみ、なんてちっとも偉そうとは思ってなかったけど、

本当に偉そうな自分だったんだ。

それがわかってとても嬉しい。


新型コロナウイルス 諦めること・・・

2020-05-29 12:15:45 | ひとの幸福

新型コロナウイルスも今のところおとなしくなってるようだけど、

新型コロナウィルスに感染してしまうこともあるかもしれないと、

割と早くに観念した。

そうなっても仕方ないと。

考えると、COPDと医師に言われたときもそうだった。

仕方ないと観念した。

所謂悲観することはなかったなぁ。

しょうがないもんねぇ、という感じ。

ただなるべく心地よく今後の人生を過ごしたいと思い、

運動を真面目にしたり、

煙草を吸っている人の傍には行かないようにしたり、

ステロイドの吸入薬を吸入したりしたのだった。

まぁ、そんなに早く諦めなければ、

もっと早くに他の医師に診てもらって、

要らぬステロイド剤など身体にいれることはなかったし、

その一年間の医療費も払うこともなかったんだけどねぇ。

なんせそれは誤診だったので。

まぁ、そういうことも済んだことだとすぐに諦めた。

ただ、その医師に誤診だったことは報告したよ。

 

諦めることについての批判的なことも聞くことはあるけれど、

どんなことにも良い面と悪い面があるもので、

実感するんだけど、諦めると、気分がさっぱりして、

じゃあ、どうしようかということにすぐ進む。

諦める、という気持ち、心、の裏には「引き受ける」がある気がするよ。

諦める。

そのことを投げ出す。

お手上げ。

どうしようもない。

仕方ない。

どうなってもいい。

・・・そういう感じ。

ゼロ 零 に立つ という感じ。

今、ここ に立てる。

新型コロナウイルスにかかるかもしれない・・・

かかってもいい、という、今ここ の自分 を決めることだ。

どうなってもいい、という境地に立つこと・・・・

COPDと言われた、そのときの 今ここ の自分は

諦めよう、引き受けよう、じたばたしない・・・だったと思う。

思いつく限りの最悪の事を予想して、それをそうなってもいいと。

すると、所謂 前向きになるんだなぁ。

 

で、私は気分よく手洗いを面倒がらずにし、

出かける時はきちんとマスクをし、

外では大きな声を出さずにしております。

 

で、私のCOPDみたいに新型コロナウイルスは嘘でした!

世紀のデマでした!

・・なんてことはないだろうなぁ。

 


他力本願・・・ってこういうことかな・・

2020-03-11 15:21:05 | ひとの幸福

これは2011年にここに書いたものなんだけど、

今、ちょっと時間が出来たから過去のを読んでいて、

もう一度出したいなと思ったんだ。

最近は深く思考することもなく、

生活に流されて認知症発症かと思うくらいの自分なので、

ちょっとカツを入れようと、自分の過去のブログを訪ねたんだ。

読むとなかなか面白く感じる。

なるほどなるほど・・なんて。

どの瞬間の過去の私も、今ここの私とは別人だから、

気にせず、書くよ、面白いってね。

以下がそれ。

 

私が頼んだわけじゃないのに、対向車はちゃんと反対車線を走ってくれる。

(なかには、そうしないで事故になることもある)

頼んだわけじゃないのに、うちの隣の家は火事を出さないでいてくれる。

(延焼することも世の中にはある)

頼んだわけじゃないのに、私が出かけるのに必要な道路を造ってくれてある。

頼んだわけじゃないのに、上空を飛ぶ飛行機はこの家に落ちてこないで飛んでくれている。
(住宅地に飛行機が落ちる事がある)

頼んだわけじゃないのに、

欲しいと思っている野菜や米や味噌しょう油、

本やいろんな物を誰かが作ってくれている。

頼んだわけじゃないのに、

うちの前の道を突き抜けてうちの部屋に車が飛び込んでこない。

頼んだわけじゃないのに、私にちょうどいい服を誰かが作ってくれている。


それぞれのひとが自分のやれることを、している。

私が死なない為に、飛行機のパイロットは操縦しているわけじゃない。

隣の人は私が死なない為に、火事を出さないわけじゃない。

たくさんのひとが

私を助けよう、とか、生きてもらいたいと思って、

何かをやっているわけじゃない。


こういうのって・・

私が生きていたくて、生きていることを叶えてくれてる。

他力本願 という言葉があらわすもの なのかと思う。


「おかげさまで」という日本語も、

こういうことを知っているのかな。


自分の幅で自分が生きているだけでいい。

人の役に立つことがあったとしたら、それは結果に過ぎない。

役立つために何かをする ということも勿論あるけど、

無理もせず、自分が自分のやれることをやるだけで、

結果として、ひとの幸福にも積極的に関わっている・・?

・・のかなぁと思う。

 

と、ここまでなんだけど、読んでみて加えたくなったよ。

最後の、「結果として、人の幸福にも積極的に関わっている・・?」

なんだけど、それもそうだけど、

何気なく生きているだけで、

人の不幸にも積極的に関わっている、こともあるのか?!


嫌な自分 2

2019-12-05 15:22:25 | ひとの幸福

この前、嫌な自分 を書いたことは頭ん中を洗ったみたいな気がする。

やっぱりやっぱり、やっぱりやっぱり・・・

自分の気分の状態は常に監視してないといけない。

他者のことを批判非難したり自分勝手ばかりの状態でいるときって、

気分が快晴状態じゃない。

雨が降って、出かけるのに傘が要るからいやだなぁ・・なんてのは

気分が快晴じゃないとは言えないんだ・・・

それは空を非難してる、なんて意識が皆無だからね。

出かける用事に対しても非難なんぞしていない。

・・こうして考えると、雨が降っていることを納得の上、嫌だなぁ、と思ってるわけだ。

出かける用事についてもそれがあるのを納得の上、嫌だなぁと思ってるわけだ。

・・・ということは嫌な自分と感じる時の相手の様子、在りよう、に納得してないからだ。

雨空には納得し、その人の在りようには納得できてない・・・・

・・・こういうことだ。

深~く納得!

 

気分の監視なんぞしなくても済む人はいいんだけど、

私はそうしないとどんどん堕落し続ける感じがするよ。

 


赤ちゃんの意思

2019-12-05 09:53:56 | ひとの幸福

赤ん坊に離乳食をやっている時、

口に入れたスプーンをこちらの意思で出そうとすると、

ききゅっと噛んで離さないことが以前にあった。

後で、娘がネットで調べたところ、

こちらの意思で出そうとしないでいると、

自分から放す、とあったよう。

それを聞いて、あ~なるほど~と思ったよ。

こんなに小さな人でも意志を持った人間。

一方的な意思でこちらが出そうとすると、

いやだよ~、ちょっと待ってよ~・・・こうなる。

スプーンを出そうとしないでいると、する~っと出せる。

相手の意思を確認しないうちに、出させよう、寝させよう・・・

まぁ、おむつを替える時などそういうことはたくさんあって、

そのことが悪いわけじゃないのはもちろんなんだけど、

今は遊んでいたい、今は眠い、今はこちらに興味津々・・・などなど・・

というような意思がしっかりとあることを確認しておくのは

自分にとって大事なことだと思うなぁ。