ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

やくざ風な人が・・②

2012-05-31 16:58:55 | ひとの幸福
そこにいた人をやくざ風な人だと思い、

恐いと思って、そこを通らなかったら、

「やくざ風な人がそこにいたから通れなかった」

・・という不満な思いが生まれる場合もあるけど、

「ヤクザがいたから通れなかったよ~」

と明るい気分で思う場合もある。


それは「ヤクザがいたせいで通れなかった」

と被害者的に暗い気分になるのとは意識の状態が違う。


明るい対応は、やくざ風な人を恐いと思う自分の気持ちを、

そのままその通り、自分で受け止めていて、

それに良いとか悪いとかの評価が無い状態じゃないかな。

なので、通ることが出来なかった、とそうする自分になんの不思議もない感じ。

通ることが出来なかった自分がそのままでいいとなってる。


その時のヤクザふうな人も、

その時の自分も、

どっちもそのままでいいよ~という感じ。


ヤクザふうな人がそこに居ることをナントカしようという発想も、

恐いと思った自分をナントカしようという発想もない。

そのままの自分がそのままの他者を受け入れ、それなりの動的平衡が始まっている。

思いがどこにも引っかかることなく、流れるようだ。
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ヤクザ風な人が・・①

2012-05-31 14:55:34 | ひとの幸福
狭い道路に居た人をやくざ風な人だと思い、

そこを通りたくても、恐いからと声もかけず、通らなかったら、

「やくざ風な人がそこにいたから、通れなかった」

と不満な思いが生まれることがある。

これも一つの動的平衡状態だろうと思う。


恐そうな人だと自分が思って、

声を掛けないことを自分で決めて、

そこを通らない事も自分で決めたという、

一連の自分の意識という実態を知らずに、

やくざふうな人が居たせいでその道を通れなかったと、

自分が自分の自由意志で行為したことをやくざ風の人のせいにし、

自ら被害者になる。


自分がそのときそのとき、

何を感じ、

何を思い、

何をしようとしているのか、

自分のことなのだが、知らないでいる。

そして知らないでいることを知らないでいる。

自分しかそこを観る人がいないのだけど・・・。


こういうのって、

目をつぶって生きていると言ってもいいかもしれない。
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水道ジャージャー

2012-05-31 11:43:48 | 実例体験観察
仏壇にあげたご飯とお茶のセットを義父は夕方下げてくれる。

だいたいその時間は私は台所で夕飯の支度をしている。

彼はそれを水道の水を出しながら洗う。

かなりな勢いで水道の蛇口から水が流れ落ちる。

洗っていない間も水はジャージャーと流れる。

全部で6個の小さな食器を水洗いするのに多分バケツ3、4杯くらいの水が流れる。

正直気になる。水道料金がタダだとしても多分気になる。

けれど、水の勢いをもう少し小さくとか、今の義父に言う気にはならない。

言おうと思わない。なので言わない。

けれど見るとどうしても気になる。

そこで見ないことにした。

義父がそれをしに台所に来た時は、別の用事を作ってそこから離れる。

実際その時間に他の部屋にいて別の事をしている時はそれを見ることがない。

その場に居なかったら、それが気にならない。

洗って伏せてある仏壇用の食器を見ても、気になることはない。

この(見ないこと)って、日光の三猿の話(2/17・18burogu)と同じことなんだろうか。

ガンジーも言っていたというもの。

自分にとって見えないものは無いのと同じ。

家の屋根裏に金塊があったとしても、それを知らなければ無いのと同じように。

自分が見たり聞いたりしないことはなんの問題にもならない。


問題にすると、それを解決しようとしておかしくなることが多い。

解決しようとすると、情勢はその介入を受けての、

動的平衡の姿を現象化する。

思ってもない方向へ動き出すこともある。





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かたち と こころ

2012-05-31 09:58:05 | ひとの幸福
「ちゃんとありがとうと言いなさい ほら、何してるのっ」とか・・

「そんなことじゃだめでしょう」
 
・・・そんなことを一回ならまだしも何回も何回も何年も・・

その時その時の自分が 在りのままでいる・・ことを否定されたら

「このままではいけないんじゃないか」

「こう思うのはいけないんじゃないか」

という トラワレ が育つ のは当然じゃないかなぁと思う。

そう思うようになる のは当然じゃないかなと思う。


愛するわが子が周りの人とうまいことやっていけるように、

これじゃダメとシツケる、教える。目に見えるかたちを教える。

そういう繰り返しの歴史。

親は子供の幸福を願って・・


けど、子供は ありがとう という言葉を知らないうちから、

嬉しかったら喜ぶ。

かたちは 心 があれば、

自然に結果として表れてしまうもの と思う。
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世界と家庭

2012-05-31 09:19:50 | ひとの幸福
この前、イブ2才と暮らしてこんなことを思った。

添加物の入ってない食品や有機農法の野菜や、

暴力シーンのないテレビ番組なんかだけ見せて、

いろいろと厳選した家庭環境で子供を育てていたとする。

(イブがそういう暮らしをしてるということじゃないよ)

子供は家の外での経験も既にある。

そこには子供が喜ぶようなマンガの絵が付いてる添加物どっさりの食品や、

化学肥料で育った野菜や暴力シーンのあるテレビ番組が待っている。

楽しいマンガの絵が付いたものは子供は大好きだ。

暴力シーンも興味を持つ。

やはり全体が変わらないと・・・と、つい考えてしまうけど、

そう思ったって今の段階でしかたのないこと。

いろいろな環境と動的平衡を保ちながら人は進化するのかと思う。

いろいろな環境を敵対視してる間はそれが続くのは、

量子メカニズムで明らかと思う。
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期待

2012-05-30 19:31:47 | ひとの幸福
互いに、一番身近な存在として共に暮らしていこう・・と二人が決めて、

共に暮らし出した最初の朝 彼から言われた。

「僕に一切期待しないで下さい」と。

私も同じ気持ちだったので、

「私も全くその通り、一切私に期待しないで下さい」と言った。

バツイチ同士の二人のいい出発だったと思う。


まぁ、今振り返ると、

意識して期待したわけじゃないけど、

知らないうちに期待しちゃっていて、

楽な気分でないこともちょこちょこあった。


相手のことを、ちょっと嫌だな、と思うことも、

意識的じゃないけど、なんらかの期待があるのだと思う。


相手が今その姿、状態だということに満足していない・・

それは違う姿を期待しているということかな。


何かを「嫌だな」と思って、それが気になるのは

愉快じゃない。


いつも機嫌よくいたい、が、望みの私なので、

つい自分を掘り下げてみたくなる。

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考えないでやっている

2012-05-30 16:28:36 | ひとの幸福
このブログのサブタイトルは

「ムカデとことこ」で、ムカデが脚がたくさんあるのにスムースに歩けるのは

考えないからというジョークをここで紹介したけど、

考えないでいけるように“なる”には「考える」ことが必要な気がしてる。

“考えないで歩く=自然に生きる”ということだと思ってるんだけど、

自然に生きる、のが難しい!

身体は食べ物が口に入ると自動的に咀嚼し、

食道へと案内し、膵臓から消化酵素が出て、胃で消化、吸収・・・なんたらかんたらと、

実に巧みに自動的にうまいことやってくれる。

自然にやってくれる。

これを考えて(顕在意識で)やってたら、た~いへん!

今から食べ物を入れるから、歯は噛んでくれよ、唾液よ、出せよ、

胃もちゃんと動けよ~ おいおい心臓も休んじゃイケナイぞ~

手は箸をうまいこと使ってるか~、お椀は左手で持って・・次、とんかつ行くから、・・

血液も流れを止めるな、息もしてろよ~・・・・エンエンと続く・・・

・・・こんなふうに頼まないでも、

身体の諸機関はナンダカカンダカ、

いろいろと連携を取り合いながらせっせと動いている。

自然に動的平衡という在りようでやってくれている。

潜在意識がこういう身体の動きの担当だということをブルース・リプトンの「思考の力」で読んだ。

身体じゃない意識の方は時々、非常に不自然になる・・。

自然に不自然になってしまう。

この言い回し、なかなかだけど、ホント、自然と不自然になる。

この「自然と」というのは潜在意識の働きで・・ということになるね。
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心にもないこと

2012-05-30 15:40:02 | ひとの幸福
ある優しい言葉を聞いて、「あぁあ、あんな心にも無いこと言っちゃって」と、

皮肉っぽく言った・・・

「・・心にも無いこと・・」と言っていた他の誰かが、

その時、心から言っていたのか、

心にも無いことを言っていたのか、

本当には他の誰にもわからないこと。


それまで常に心にも無いことを言っていたとしても、

その時は心から言っていた、ということも、

無いとは言い切れない。


(そういうのは心にないことを言ってること)っていうのが聞いた人にあるから、

そう聞こえる場合もある。


やはり目の前の人の姿は自分の心を映す鏡。


実際に天から見て、事実、その他者が心にもないことを言っていたとしても、

「心にもないこと言っちゃって」という思いは、

なんだかあまり美しく感じられないのは何故だろう・・・



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鰹船に乗ってた義父

2012-05-30 12:31:33 | 日々の暮らし・思い出
うちの義父は長い年月鰹船に乗っていたそう。

その食生活を聞いたことがある。

朝食は少しの野菜の入った味噌汁とご飯、漬物。

昼食は鰹の刺身とご飯。

夕食は鰹の煮付けとご飯。毎日こうだったという。

「野菜は味噌汁の実だけですか?」と尋ねたら「そうだった」と。

義父の記憶が間違ってなければ、

こんなふうに野菜が少ない食生活を何十年もしていたということ。

今の時代管理栄養士がこんな事を聞いたら、

もっと野菜をとらなくちゃいけないだの、なんだのと言うだろうなぁ。

けれど、そういう食生活でも義父はあと3ヶ月で96才だけど、

毎日のように畑の草取りに精を出し、

家に居て読書もする。パンツのゴムも自分で取り替えようとする。

衣類の衣替えも自分でする。毎晩少しの焼酎を湯割で美味そうに飲む。

自分の洗濯物は自分で干す。(この頃は洗うのは私にさせてくれるようになった。

洗濯機がしてくれるんだけど)

・・・なので、思う。

身体は動的平衡という在りようで、

野菜が入って来ないなら、入って来ないなりに、なんとかするんだろうと思う。

身体って(健全正常になろう)っている目的がはっきりあって、

その為にひとつひとつの分子や細胞は、

周りの細胞やらナンタラカンタラと、

あなたが(そうならそれで)と在りのままのお互いで、常に調和して、

常に(こうなろう)という目的を忘れずに働いている状態で、

それが動的平衡という状態に現われているんだと思う。

薬が入って来ようとと釘が入って来ようと、

野菜や果物が入って来なかろうと関係なく、

目的を忘れない。


「雨なら雨で」という言葉が持つのはそういう意味だろうと思う。

降って来た雨という在りのままの状態と調和して行こうとする自分・・

調和とは否定がないこと。

降って来た雨を敵対視しない状態。

そのまま受け入れる心の状態。

降って来た雨と心が仲良し状態。


義父の身体は(野菜少ない)状態を敵対視しなかった。(当たり前だけど)

野菜が少ないから・・ナンタラカンタラと不満を言わなかった。

それならそれでと身体の全部の細胞は互いに連絡を取り合ってせっせと働いた。

(こうなりたい)という目的を常に忘れないからだろう。


身体という生命、地球という生命、宇宙という生命、多くの動植物という生命、

人間の意識という生命、

みな一緒だろうと思う。


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怒ろう!?  寂しがろう・・・?

2012-05-30 11:16:35 | ひとの幸福
あれをしようとか、これにする とかを、

決める判断は出来るけど、
 
決められるのはあくまで 事柄について。

意識して、悲しもう とか 怒ろう とか 寂しがろう とか 喜ぼう

なんてことは出来ない。

喜びも 悲しみも 寂しさも 苦しさも 怒りも、

何かが自分の中で起って自ずから湧いて来るもの。


俳優がドラマの中で、意識して悲しがろうとして、

ドラマとは関係ない自分の悲しかったことを思い出すことをして、涙が出る・・

・・という話も聞いたことがあるけど、それもなるほどと思った。

けど、役になりきると自然に自ずと湧いて来るんだろうとは思う。

俳優というのは凄いもんだ。役になりきるなんて。

そうスイッチが入るんだろうな。





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同じ穴のムジナ

2012-05-29 19:04:53 | 実例体験観察
夫が私の話したことに「それは違うよ」と言った。

私の言葉を「ああ、そうか そう思ったんだ」

と聞いてもらえなかった感じで。

「おいしい」と言ったら「おいしいのはおかしい、まちがっている」

といわれたようなニュアンスを感じてしまった。
   

「私はひとつの感想を言っただけで、

それが正しいなんて言ってないよ」と言った。

すこしムキになった感じ・・

なんでムキになったのか?

「私の言った言葉はただの感想なのにい!」

そう思った途端・・

私もまた、夫のその言葉を、

ひとつの感想として「ああ そう思ったんだね」

と聞くことができなかったんだ。

同じ穴のムジナだったわけで。


・・・この文章を書いたのもこのブログ以前のことなんだけど、

これもなかなかいい経験だった。

やはりこれもそう見える相手の姿は自分の心が映っているだけのこと。

相手を見ているのではなく自分の心を観ている。
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言葉と細胞

2012-05-29 14:58:52 | 言葉
例えば 猫 という言葉。

猫 と聞けば誰でも 犬 と認識することはない。

誰でも 猫 しか浮かばない。

が、聞いた一人一人 思い浮かべる猫 は違う。

ことば というものは 一つ であって、

すべて である。

これも似てる。

受精卵は一つの細胞であり、

すべてに成り得る。

ひとつであり すべてである。

時空を利用して。


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世界・・って

2012-05-29 14:11:23 | ひとの幸福
小学生の頃だと思うけど、

自分に意識がある!!

自分の 意識 というものの存在にびっくりして。

もう全くびっくりして。

私が見ているもの、私が見てそうだとしているもの

「おかあちゃん」(そう呼んでいた) というのも

私が(認識している世界)のもので、

他の人には「おかあちゃん」は全く知らない人だったり、

「ナンタラさん」だったり、「隣のおばさん」だったりする!!

別の人なんだぁ!!

その人がそうだとしている私の母と、私がそうだとしてる私の母は全く別物なんだ!と

本当にびっくりして。

学校で勉強する 世界 はあるんだろうけど、

それと私や他の人の世界とはまるきり別なんだぁ!!!!!

地球上にいる何億という人のその数だけ

世界があるんだぁ!!!!

だって今こうしている私が思っていること、その意識のこと

誰も知らないんだもの。

私が知ってることしか私は知らないんだ。

・・・そんなふうに思った。


ようするに世界を認識しているのは、自分の意識なんだ、

世界は自分なんだとということに気が付いたんだろ、と思う。


ここまでは鮮明に思い出せるんだけど、

びっくり状態後もどんどんどんどん、、

意識が広がっていって なんか 宇宙の方へ

飛んでいったというような記憶があるんだけど

それが今は体験できない。

気が遠くなるような感覚があったことは憶えているんだけど。

時々そういう世界に飛んだ。

(そうなろうとしたら、なれた)

そこは何とも居心地が良くて、言葉には出来ない感じだった。

そして楽しんでる時、普段の暮らしに帰れなくなりそうな感覚がやって来て、

意識を日常に戻したことも憶えている。

これってかの(幽体離脱)というしろものなんだろうか。

ジュピターを歌った歌手、あの人が同じようなことを言っていたように思う。

テレビで見た。

今でも この私・・というひとの意識で生きていることが

なんなんだろう?って不思議な感覚になる。

この意識しか生きられない自分。

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必要 と 自立

2012-05-29 11:04:21 | ひとの幸福
周りのある人が不機嫌で、

そのことで気持ちが不安定になる場合がある。

このことは・・・ 

気持ちの安定のために、

周りの人が機嫌の良い状態、身体の良い状態であることが

必要だということなのか・・・


周りが機嫌よくしていないと精神が安定しないと云う状態は・・

自分がストレスなく、機嫌よく暮らすことを、明らかに人頼みしてるということだ。

自分の幸福を人頼みにしているというのは、

自立していない・・といえないかな?

誰かに冷たくされて、

それで傷ついたりする・・とかいうことは・・

温かくしてもらわないと、気持ちよく生きられない・・

ということかな。

これは勿論、動的平衡の作用だろう。

なるべくしてなる心だ。

なので一切の否定はない。なったのはなったのだから。

それにしても、究極的に言えば、不自由な 自立してない感じがする・・・

いつでも、自由に生きたい私はつい考えてしまう・・・

違う動的平衡をその都度見出したい。

違うなり方を見出したい。

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わからない

2012-05-29 09:55:29 | ひとの幸福
これはどういうことなんだろうと考える のは、

自分がそれを(知らない、わからない)と、

わかっているから。

そのことをわかっていないことが、自分でわかると、

考え始める、ということが起こる。


そのことを知っている、わかっている、という心の状態だと、

それについては考えることをしなくなるのは当然かもしれない。


「あの人は攻撃的で恐い人」と自分がわかっている、

という状態。

実際のあの人はどういう人なんだろう・・・

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