ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「和」のウォーキング・・・その時のことはその時に、

2014-11-24 14:31:48 | ひとの幸福
・・・頑張って歩いていた事に気付いた私が

楽しみにしてた歩きはどうなったか・・

今朝、家を出て急坂を上り、海沿いの道に出た。

朝の美しい海を見ながら、今日は浅間神社(隣の集落の突き出た半島のてっぺんにある)まで

歩こうかな、と思った・・その時に、

ま、決めずに気ままに歩くか・・という思いが浮かんだ。

何故そう思ったのかわからないんだけど、

何も決めず、その時のことはその時の自分に任せよう。そう思った。


浅間神社方面に行く道とスーパーの方に行く道の分岐点に来た。

そこへ着く直前までどちらを選ぶのか自分でもわからなかった。

そこへ来て、神社方面へ曲がった。

少し歩くと直進が神社方面で、

右折すると半島の向こう側の浜に出る岐路があった。

どっちに行く私だろう?

その岐路では右折した。

湾に出た。突き当りが湾だ。

右か左か。右に行けば国道に出る。

左に行くと古い造船所があるどん詰まりだ。左に進んだ。

・・こんなふうに前もってこうしようという思考一切なしに歩いた。

ゆっくりゆっくり歩いて途中で道端の苔を少し頂き、

最後は畑に寄って、最後のキュウリを一本採って帰って来た。

二時間くらいだった。

それなりに疲れたけど、満足した。

こんなふうに、他のことも何も決めずにやっていけるな、と思った。

その時のことはその時の自分にまかせる。



「和」のウォーキング」 能楽師 安田登さんの

2014-11-24 13:44:55 | 本を読んで
いま、読んでる本、『体と心がラクになる 「和」のウォーキング』

サブで“ゆっくり歩き”で全身協調性と深層筋が目覚める、とあった。

著者は 下掛宝生流 能楽師 の 安田 登さんというひと。

能楽師というものがどういうものなのか無知な私は何も知らない。

友人に誘われて15年位前に、薪能というのを一度見に行ったことがあって、

いいなぁ、と思ったけど、どんなことがいいと思ったのかも忘れてしまった。

雅楽もいいなぁと思ったなぁ。


その本の1章までしか読んでないんだけど、

たったったと大股で歩かない、ゆっくり歩く、

肩甲骨、肩関節、筋肉をゆるめる、

すり足で歩く、ゆっくり歩けば大腰筋が目覚める、

楽しみながら歩く、・・・

ゆっくりその歩き方で歩けば一日八時間だって歩ける、・・・

それを読んだら、なぁ~んだ、ゆっくり歩けば八時間だって歩けるんだ♪

とすぐに思ってしまった。

いつもたったったったと大股で歩いているウォーキングを変えてみようかと思った。

全く私はすぐその気になる、なぁ。

それともう一つの発見、私は、歩くとき頑張っていたなと気づいた。

朝、雨が降っていると、今日は歩かないで済む、

なんていう思いが浮かんでいたのは頑張っていた証拠だ。

筋肉を落とさないため、元気でいられるため、みたいな目的に縛られていたような気がした。

昨夜、布団の中でその本を閉じたら、今日歩くことを楽しみにしてた自分だったよ。




乗る 乗れない

2014-11-21 09:51:28 | ひとの幸福
「流れに乗る」「乗ってるね~調子いいね~」

「ちょっと乗り過ぎだよ」

「則る・法る」これも「のる」らしい。今変換したら出てきた。

乗れないのはどんな時か・・・

例えば宴会で歌ってよ~なんて声かけられても、

どうしてもそれに乗れないのは、歌が下手だから恥ずかしい思いをしたくないとか、

そう、プライドがあると乗れない。

「乗せられてたまるか」なんてのもある。これもプライドか。

踊る阿呆に見る阿呆同じ阿呆なら踊らにゃソンソン♪

なんてのはまぁ、乗ってみよう、なんてことだろう。

乗って踊ったら楽しいしね~


乗れないわけはプライドだけじゃないだろうな。

最初からそのことを否定してたら乗れない。

なに、馬鹿なこと言ってるんだろ、なんて思ってたら乗れない。

そんなぁ・・こと・・・というような抵抗があると乗れない。

そんなことしたら、あ~なるじゃないか・・なんていう不安があっても乗れない。

ということはその言動に対して、

最初からそういうことをしたらあ~なると判断してしまっているということだろうと思う。

以前にそういう経験があるから?いや、ない場合もあるかもしれないけど、

あ~なるということをほとんど確信してるからこそ乗れない。

これは別の表現で言えば、

他の在るがままの姿を受け容れられない状態だと乗れない。

そう言えるかな。

へぼプレー見ると悪影響・・③

2014-11-19 14:55:58 | 新聞を読んで
近所の年寄りを見て、年取るとこうなると予測して、

それが当たると自分もそうなる。

昨日か?そう書いたけど、これを又考えたい。

ディパック・チョプラさんの本で読んでこんなのがあったのを覚えている。

・・・周りの人が70代や80代で亡くなるのを見ていると、

人間はそのくらいの年で死ぬものだ、

というプログラムを知らぬ間に持ってしまい、

そしてその通りになる、というもの。

予測し、それが当たる。

予測するから当たる。予測しなかったら外れる、ということもない、ところの。

予測というものをしなかったら、

当たるのか当たらないのか、というそんなことは考えないしね。

当たるという思いも外れたという思いも、予測すればこそのこと。



けれど、人は見て予測・推測してしまう。

そして人の老いや死を見ていれば、

誰だっていづれこうなる、と思うものだ。

そしてだいたいの人がその通りに、老いたり死んだりするのを見たら、

俺の予測は当たってる、ってなるのも不思議じゃない。

そして自分もそのくらいの年に老い、死んでゆく。


周りの人が皆80才くらいで死んでゆくなか、

自分はそんな気がしない、100才は軽く生きそうと、

意識がなってる人が居たとして、

その人の意識はどうなっているか見ると・・・

人は80才くらいで死ぬという寿命観を持っていないのか、

持っていたとしても、

その寿命観を正しいとしていないのではないか・・


へぼプレーを見て、こうしたらこうなると予測しても、

そういう自分の予測が正しかったのか、正しくなかったのかわからないでいた人は、

予測能力も上がらなかったけど、下手にならなかった・・

という事実から学ぶことは・・・

正しさを持たないでいると、人に影響されることがない、

ということなんだろうか・・・


自分の見方は自分の見方としてあるけれども、

それを正しいとしないで、ひとはひとの見方があるというふうに心がなってると、

脳の動きもそれなりになる・・そうなんだろうか??


義父の暮らしやこの頃・・・

2014-11-17 14:55:18 | 日々の暮らし・思い出
98才の義父は夏から畑に行かなくなった。

秋が来ても行かなかった。

歩くのがしんどくなった・・よう。

スーパーに行った時にカートを押してもらったことがあり、

そうしたら、こうすると楽に歩けると言った。

それ以前には、それを使うと楽なんだろうけど、世間体が悪い、

というようなことを言っていたんだけど。

カートを押してもらったその日その店ですぐに押し車、シルバーカーというのか、それを買った。

恥ずかしくはないわなぁ・・みたいなことを言っていたけど、

観念したんだと思う。カッコより実を取った。

それから晴れた日にはそれを押して浜まで歩き、

その車にブレーキをかけ、そこに座り、海を見て日向ぼっこをしていたようだ。

最近はそれも寒くなったのでだと思うけど、

うちの車を居間にして、車内の人になっている。

最近は本を読むこともしなくなっていたんだけど、

この前は「なにか本はないか」と言って、

夫が借りている本を持って行ってもらった。

食欲は下がり止まりかな。

でも夕飯に焼酎の湯割りを飲んで、酒の肴を食べると、

それ以外の物は漬物をちょっと口にするくらいだ。

柿が大好きでそれを一日一個は食べてるけど。


近所も年寄りばかりのここの暮らしでは、

あんなふうになるのかな・・ばかりだよ。

さっき書いたへぼダーツの話で考えると、

年寄りばかり見ていて、

あ~なるのかな、と観て、それが当たると、

私もどんどんあ~なるんだろうか!!!???




へぼプレー見ると悪影響 ②

2014-11-17 14:37:51 | 新聞を読んで
昨日の書いた奴なんだけど、読みが浅かったかな~と書いてから思った。

この投げ方では矢は~あそこに当たるんじゃないか、~なるんじゃないか・・と予測して、

その予測が当たったか当たらなかったかがわかる・・と、

だんだん予測能力が高くなったわけだ。

そういう人たちは実験後の技量が下がってしまった(下手になった)けど、

同じようにへぼプレーを見て~なると予測しても、

自分の予測が当たったのか当たらなかったのか、知らされないでいると、

予測能力は上がらなかった。

そしてその人たちは実験後も技量が下がらなかった(下手にならなかった)という。


ようするに同じようにへぼプレーを見ていても、

自分の予想が当たったのか当たらなかったのか知らされないと、

技量は下がらない!へぼにならない!下手にならない!!


この謎を解きたいよ。

ただへぼプレーを見て予測してても、

予測が当たったのか知らされなければ、ダーツ能力は変わらないのが本当だとしたら、

下手を見ると下手になる、とは言えないんじゃないか。


下手なダーツをやる人の投げ方を見て、

これはあそこに当たりそう・・

あ、これはもう少し的に近いところに当たりそう・・

そしてそうした自分の予測が当たると、

やっぱりそうか、自分の予測能力は高い、凄いもんだ、とかになる・・?

予測、推測 が当たった、という自信を得たことの弊害なんだろうか??

~こう投げたら~こうなる、と予測してそれが当たると、

自分も~投げて~なってしまった・・・!?


反対に、自分より上級の人の投げ方を下手な人が見た場合、

何処に当たるかの予測の精度はかなり低いんだろうか・・

それとも上手くは投げられないけど、良い投げ方という知識は持っているから、

予測して、それが当たったか当たらなかったか、知ると、

予測能力も上がって、

実験後にはダーツ能力が向上するんだろうか???


上手な人を見て、その予測をしても、当たったか当たらなかったか知らされない人は、

上手なプレーを見ても、実験後に能力は上がらないんだろうか???


ネットでその記事を詳しく見たらこんなのが載っていた。


・・・脳がどのように他者の動作を理解し、結果を予測するかについては

ほとんど解明されていない。今回の実験で、

他者の動作の結果を予測する能力が学習によって変化すると、

無関係に見える自分自身の動作にも影響が及ぶと分かった。

【ポイント】
■ 他者の動作を予測する場合と自分が同じ動作を行う場合に

共通した脳内プロセスが関与していることを解明

■ 他者の動作の結果を予測できるように学習すると、

共通した脳内プロセスが変化し、自分の動作にも影響が及ぶ

■ 他者の動作を予測する能力と自分の運動能力の向上を導く

リハビリやトレーニング方法の開発に応用可能

 池上研究員は「『下手な選手の動きは見ない方がいい』と言う一流選手がいるが、

その理由が科学的に実証された。

・・・とあった。


ううん・・・そうなのか・・・よくわからない・・・

けど、下手な・・は見ない方がいい とはやっぱりそうなんじゃないかなと思う。

実験例の数も千とか万とかになったら、また違うのかもしれないし・・・

へぼプレー見ると悪影響・・・

2014-11-16 14:11:48 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の社会面の小さな記事、

「へぼプレー見ると悪影響 ダーツで実証 命中予測させると上級者が下手に」

どういうことかというと、

ダーツの上級者が下手な人のダーツを見て、何処に当たるか予測し、

その予測が当たったかどうかの答え合わせをしてると、

段々その予測の精度が上がるという。

けれどけれど、その実験の後にその上級者がダーツをすると

技量が下がったという結果が出た、というもの。

この実験で何がわかったかというと、

他者の動作の結果を予測する能力が学習によって変化すると、

無関係に見える自分の動作に影響が及ぶということのよう。

なんでこうなるかというと、他者の動作を予測する時と、

自分が動作する時の脳内の情報処理に共通する部分があるため、と、あった。

運動してる人の姿を見てるだけで、見てる人の脳は

運動してる人と同じところが同じように動くということを聞いたことがある。

そういうことと関係あるんだろうか。

美しいもの、正しいもの 真実のもの、じゃないものばかり見てると、

見てるだけで自分の見方も曇って来るんだろうか・・・

そりゃそうだろう・・!?

面白い。ほんとに面白い。

「ふしぎな岬の物語」と無抵抗

2014-11-12 19:23:26 | ひとの幸福
二十日ほど前に吉永小百合がナンタラいう映画賞を取ったという、

「ふしぎな岬の物語」を家族で見に行った。

昨日こんなニュースがあった。

老人夫婦が家に入ってきた若い男に殺された。

本当に気の毒だと思った。

いきなり知らない人が家に入って来て、

良からぬことを言ったり、何かしたりしたら、大概の人はびっくりしてしまう。
 

その事件をテレビで見た後、上に書いた映画のワンシーンを思い出した。


吉永小百合が店主の喫茶店に夜中泥棒が入る。

店主はあまり驚かない。

で、抵抗しない。

それとこれも思い出した。私の兄が受験勉強をしていたもう50年近く前のこと。

夜中、トイレに行こうと部屋を出たら、隣の部屋に見知らぬ男が居たという。

兄はそこで「ここで何をしてるんですか?」と聞いたという。

それを翌日聞いたときは家族みんなで笑ったように憶えている。

家の出入り自由の猫を何匹も飼っていたので、

寝る時は一応毎晩雨戸を閉めてはいたけど、猫が通れる位は開けっ放しだったのだ。

雨戸と部屋との間に縁側があって、障子もあって、

その障子も猫が通れるようにひとますだけ障子紙が暖簾みたいに切ってあった、そんな家だった。


その男の人は兄にそう言われて何と言ったのかそこまでは憶えていないけど、すぐに出て行ったらしい。

そのことがあったからといっても雨戸を開けておくのは変わらなかったねぇ、そういえば。

猫がいたからね。


この場合とニュースの殺人事件はまるで状況は違うと思うよ。

今、新聞をちゃんと読んだら、包丁を最初から持っていたみたいだ。

初めから人を殺すつもりだったのかもしれない。

気狂いに刃物・・本当に怖い。

ただただ運が悪かったとしか言いようがない。


無抵抗というとインドのガンジーを思い出すけど、

あの映画の喫茶店店主も当時の兄も無抵抗という心の状態だったんだろうなと思う。

その瞬間、何も守るものがない心の状態、失うものがない心の状態、なんだろうね。

失うものが無いとは、何も持ってないということ。

よくいう「恐いものなし」の心境なんだろう。

無執着。

映画の中の店主も金目のものはこれくらいよ、と穏やかに言ってた。


無執着というのは諦めている状態なんだね。やっぱり。

そういう無抵抗の心は相手の行為行動や対象を否定視しない。

在る、ただそれだけを認める。何の判断もなく。


否定したら相手にエネルギーを与えることになるもんね。



「~してもらっていいかな」の続き

2014-11-11 09:58:42 | ひとの幸福
臆病になっている。

傷つけたくない、傷つきたくない…症候群。

・・そんな感じがする。

そりゃ誰だってそうだ、なのかもしれないけど、

なんか・・変な感じがする。

何処が変なんだろう・・・?

どう思われるかという関係性ばかりに気をとられてる状況のような感じ。

どう思われたっていい、という覚悟がない状態なのかな。

「人は人。自分は自分。」

こういう時にこういう言い方がぴったり来るのか、と書いてみて思ったわ。


「~してもらっていいかな」という言い方のいやらしさ

2014-11-11 09:30:51 | ひとの幸福
「~してもらっていいかな」

最近こんなもの言いが増えてる。

なんだかあまり好きじゃない。

なんでか?

~して下さいとか、こうしてほしい、という自分の意志があるのにそれを隠してる。

それが胡散臭いと感じるんだろうな。

てめーの意志をはっきり言えよ、なんてやくざっぽい口調になりそう。

なんで自分の意思を隠そうとするんだろう?

自分のせいにされたくない、というのがある・・のか、と思われる。

~してください と自分が言っても、

それをするもしないも相手の意志だというのが抜けているんだろうな・・


「理不尽な進化」 養老先生の書評で・・

2014-11-09 10:46:12 | 新聞を読んで
『理不尽な進化』―遺伝子と運のあいだ(間)ー

今日の毎日新聞書評欄、私の大好きな養老先生が書評したもの。

私が印象的だったのはここ・・・

「・・・現代進化論を支える大きな柱は二本あって、

一つは自然淘汰(これは適者生存ともいう)だが、

もう一つは系統樹すなわち歴史なのである・というもの。

こんなのがあった。

ある患者が尿が出なくなって入院したら、原因は頸椎にあって、

それを矯正したら尿が出るようになったという。

その人は養老先生とその病気の話しをしてしばらくした時にあっと思い出した。

それは昔、特攻隊員で、特攻にでることが決まってたのだけど、

終戦になったことで機会を失って、

戦後二回首を吊って死のうとしたのだけど失敗した、

その時の頸椎の傷が原因で尿が出なくなっていたという話。

これを読んで今西錦司さんの進化論だという“なるようになる進化”というのを思い出した。

首つり失敗によるおしっこ出ない例によって、

人間の身体が次の世代に繋がるわけじゃないし、進化でもないのは勿論だけど、

どんなこともそれがそうなるには歴史があった、ということを云っているのかと思った。


「絶滅も歴史のうち『自然淘汰』超える哲学」というのがこの書評のサブタイトル。


過去と関係ない現在はないし、今に関係ない未来もない。

時間的にも空間的にもすべては繋がっている。

過去も未来も全部 今 にある。

まぁ、こう考えると、今という時を大事に生きる・・

なんていう簡単な表現になってしまうんだけど、

過去も未来も憂えず明るくやっていきたいと思った今日この頃です。

こんなのがこの書評の最後にあったよ・・・

「・・人文社会学の分野には近年良い著作が出る。

個人的にそう感じる。

経済だけではなく、日本社会は変わりつつあるのではないか。」

養老先生はそう感じたんだなぁ。





~をしようと思った・・

2014-11-04 10:30:45 | 日々の暮らし・思い出
スーパーに行くのに、海を見ながら行こうと思って、海沿いの旧道を車で走り始めたのに、

すぐにそのことは忘れ、海など見もしないで他のことを思って運転していた。

そこを過ぎてから、あ、海を見ようと思ってたんだっけ・・・

よく、何かを取りに行って、その物が何かを忘れてしまったり、

コレコレをしようと二階に上がって二階に着いたら、

何をしに来たのか忘れてしまう、ということと一緒だ。

まぁ、もの忘れには違いない。

救いは、忘れたということが自分でわかっている、ということだ。

けれど、よくよく考えると、今を生きている とも言える…言えないか・・

~しよう の「~」は今このときじゃなくて、未来についての計画だからね。

けど、~しようと思った・・のはその時の、今ここ。

二階への階段を歩いている時は、また次の「今ここ」。


最近義父は時々おかしなことを言う。

昨日、昼過ぎに「一回さんまの塩焼きを食いたいなぁ」と言った。

三日ほど前にさんまを焼いて、それを出した・・・

その一週間前くらいにも出した・・・

腎臓が不調なので低たんぱく食にしだして、以前より魚の量は減ってるけど、

さんまの塩焼きは何回か、確かに出した・・・

その過去は憶えている私だ。

義父のその言葉を聞いて、ちょっとぎくっとした。