ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

今泣いたカラスが・・・

2017-07-22 10:58:02 | 量子力学と心

小さい人、孫らと暮らしていると、自分が本当によく見える。

孫らの言動は本当にくるくると変わって、

今泣いたカラスがもう笑ってる・・・というようなことはしょっちゅう。

全く自分勝手な人たちである。

分別ある大人と全く違う。そう、分別がない。

元々「分別」というのは仏教から来ているらしいね。

分けて考える、なんて発想がないから孫らは自分勝手で自由なんだわ、きっと。

~こんなことで泣き騒ぐのかと驚き、

その大声にうんざりするが、せいぜい二、三分。

本当に涙ぽろぽろこぼしていても二、三分後には笑ってる。

孫ら・物事はどんどん変わっていくということを大いに実感するよ。

あんなに泣いたのに、こんなに早く笑ってしまったらみっともないとか、

メンツが・・なんてのがないからね~

それに4才児には何と言っても理屈は通らない。全く通らない。

泣き騒ぎをやめさせようと、つい理屈や

こちらがそうするわけなんぞを話そうとしても聞く耳は持たない。

結果二、三分では済まなくなるのはずいぶん経験した。

そんなのは非局所的に存在している量子(意識)を局所的に存在させてしまう。

そういうことだと思うよ。

いっときの泣き騒ぎを問題視しなきゃいいんだ。

そうなるのは量子力学で明らかなんだなぁと思うよ。

頭だけでなく身をもってわかりました。

が、まだ体得まで行ってません。

 

 

 

 

 


干渉

2017-03-25 13:35:10 | 量子力学と心

小さな人たち、4才と7才でよく揉めている。

何が起こっているのか、つい見、聞いてしまう。

すると何か言いたくなってくることがある。

なぜ、言いたくなるのか・・・

それはどちらが悪いのか、ということを

無意識的に瞬時に判断してしまう自分があるからだ。

そして裁判官を始めることになる。

そうすると・・・どうなるのか・・・

揉め事の当事者の一人が「はい、私が悪かったです」と反省し、

態度を改める・・・

・・・となることはない。

はっきり申し上げて、そういうことは一度もないのであります。


安倍さんの言ってることの効果

2014-08-06 16:29:31 | 量子力学と心
「戦争をするつもりは毛頭ない・・・」

安倍首相がよくこんなふうに言っている。

あぁ、そう思っているんだろうなあと思う。

彼なりに真面目にそう思っているんだろうと思う。

戦争をしたいわけでも、戦争になってもいいと思ってるわけでもないと思う。


「喧嘩をするつもりなんか全然なかったんだよ・・

事の成り行きでそうなっちゃったけど・・・」

個人同士の喧嘩も戦争もそうなる仕組みを観れば根本は同じなのかと思う。

中国も日本もそんな感じなのかと思う。

戦争にならないようにならないようにとやることは、

結果としてどういう現象を呼び起こすか、というと

この前書いたけど量子ゼノン効果かと思う。

悪くならないように・・とは、何に関心を寄せているかといえば、

(悪くなる)こと。

関心の向いている事が実現しやすい。

量子ゼノン効果かと思う。

やかんの水がまだ沸かないかまだ沸かないか・・と

関心を寄せていると

そんなこと思ってない時より、沸くのに時間がかかるというもの。

よくないことに関心を寄せるとそれが実現しやすい。

波動であり粒子である量子は、意識でもある。

物事が起こる一番最初に動くのは意識だ。

悪くならないように・・量子ゼノン効果

2014-08-01 15:24:51 | 量子力学と心
人に対して、その人が悪くならないように悪くならないように・・と思って、

何らかの行動をすることは、効果がない。

結果として悪くなってしまうよう。

よくなるようによくなるように・・・

と思って何らかの行為をすることは効果が出る。

どうしてなのか?

悪くならないように・・とは、何に関心を寄せているかといえば、

(悪くなる)こと。

関心の向いている事が実現しやすい。

量子ゼノン効果かと思う。

やかんの水がまだ沸かないかまだ沸かないか・・と

関心を寄せていると

そんなこと思ってない時より、沸くのに時間がかかるというもの。

よくないことに関心を寄せるとそれが実現しやすい。

良いことに関心を寄せればそれが実現しやすい。

こんなこと前にも気が付いてそれを書いたような気がする。

漢検の勉強と一緒だ。一度わかっても、やってないと忘れる。

ここのところ、それに嵌まっていた、と気づいた。


悪くならないように・・と云う思考は暗い。

今それを悪い、と観ている処から始まっているから。

人は何かを悪いと思って居て、いい気分になることはない。

暗いのはいいことない。

でも、そういう自分だったことに気づくと一気に気分は明るくなる。

そしてその事で自分以外もすごく前進した感あり。

嬉しいな♪

指貫行方不明 

2014-03-29 14:48:39 | 量子力学と心
手芸をしてる途中で他の用事をして戻ったら、右指にしてた指貫がない。

外した記憶がなかった。洗濯してたから、

その時指から抜けて洗濯機に落ちたかもしれないと思って見たら、

脱水された洗濯物と一緒にそれはあった。

今回、指貫を外した記憶がなかった事をちゃんと覚えていた。

手芸していて、使っていた待ち針や糸を、

「いま、待ち針を抜いて針山に刺した」

「いま糸を針箱の引き出しに入れた」と、

いちいち意識的になる練習をしていたからだ。

手芸をする前とした後で待ち針の数が減っていることがあって、

周り中を探し回る羽目になる。探すのが面倒くさい。

以前は「コレコレを覚えていよう」という思いを、

“意識的に”する練習をしたことがあるけど、

それでは効果がなかった。

それが「指貫を今外してドコソコに置いた」と鉄道員の指差し確認みたいに

声は出さないけど、いちいち意識的に思う、

ということを始めていたので、

「指貫を外してドコソコへ置いた」、という記憶がまるでなかったから、

外してないのに外れてしまったんだなと思って、

探したら、すぐに見つけることが出来た。

こんなこと些細なことだけど、私には大きな出来事だった。

「これを覚えていよう」という思いでは効果が無く、

「指貫を外してドコソコに置いた」と自覚的に思うことは効果があった。


『見ようとすると見えない』という不思議な粒子の振る舞いがある。

眠ろうとすると眠れない。忘れようとすると忘れられない。

覚えていようとすると忘れる。

見る、眠る、忘れる、覚える、この4つとも(行動)じゃない。

自然な(思い)だ。

「~しよう」は行為・行動の意志を表わす言葉だから、

行動じゃない「覚えよう」では覚えられない。

「忘れよう」「眠ろう」「覚えよう」という言葉はこの世にあるけど、

自然に忘れることは忘れる、自然に眠くなったら眠る、自然に覚えてたら覚えてる。

けど、覚えていたかったら、

「指貫をドコソコへ置いた」という言葉を意識的に思うこと。

「それを覚えよう」という顕在意識は要らない。

見ようとすると見えない、という粒子の振る舞いと、

意識の振る舞いは同じだからかなと思う。




人間の自由意志

2014-02-16 13:17:00 | 量子力学と心
ベンジャミン・リベットが行なった脳の実験で、

ぱっと何かを思った瞬間からその思いを受けての行為に移る間には

コンマ6秒だか8秒だか、

実験によっては数秒あるということが実証できたというのがあるらしいけど、

その短い時間が自由意志を働かせられる時間なのかと思う。

ベンジャミン・リベットも自由意志の問題がそこにあるんじゃないかと

思っていたというようなことを読んだことがある。

何かを見て「なんて悪いことしてるんだろう」と思った時に、

その思い(判断)のまま、

それを非難せずにはいられないとか、軽蔑せずにはいられないとか、

その行為をやめさせずにはいられないとかで、

突っ走ってしまうのは不自由意志といえるのかと思う。

そう行為をするか、しないか、選べることが出来るのは

上に書いたその短い時間を自分が捕まえられるかどうかだろうと思う。

自分の心の状態に意識が行っているかどうかだろうと思うんだ。

それが鍵なんじゃないかな。

人間の自由の問題については

科学的に片が付いてないというようなのを読んだことがある。

片がついてない、というのは片づけが終わってないということで、

まだ散らかっているということかと思う。

決定論では人間は自由意志なんかなくて、

無意識という怪獣からの指令に操られる小人のようなもんだ、

というような見解も読んだことがある。

(“わかっちゃいる”がやめられない)という人間の在りようが

それを示しているということなのかと思うけど。

でもわかったつもりでいるかもしれないけど、

本当は“わかってない”んだったら、

わかればやめられる、ということになる・・ね。


釈迦と山岸さん

2014-02-11 15:51:33 | 量子力学と心
山奥に金塊が在り、それを人間が見つけようと見つけられなかろうと

金塊が在ることに変わりはない。

でも、それを人間が見つけなければ、「金塊が在る」という思考は無い。

そう考えると、それに関心を向けること、

それに認識を持つということがその人間にとって、在るということになる。

その時その人が関心を向けたものだけがその人に見える、ということになる。

そのものに関心が行かなかった人にとってそれは存在しない・・

ということは・・・昼日中の公園の性器出し男に関心を向けなければ、

それは時間差を置いて、対象は存在しなくなる、

・・ということじゃないのか・・・

心に無いものは形にも現れなくなる・・・ということじゃないのか・・・

何が心になかったかというと・・・

どんな関心がなかったのかというと・・・・

その男を非難軽蔑するという。


見る側が、見られる側のその行為に対し非難軽蔑する気持ちがないと、

見られる側は、

いわゆる、非難軽蔑される行為で在ったものが、

非難軽蔑されない行為に自発的に変化する。


けれど、非難軽蔑するという気持ちが出てくるのは、

そういう常識が私たちにあるからだろう。

真善美を願ってしまうわたしたちの本質から来るものだと思う。

世間ではそういう行為は悪いと毛嫌いされるものだし、

賞賛される行為じゃない。

ただ、そういう考えでやって来たことで、

私たちの住む世界がどうなったかを

観察することが欠けていたんだろうと思う。

戦争反対と叫んで来て・・・悪を非難批判軽蔑して来て・・・

それらを征伐しようと、“なくそうとして”、一生懸命頑張って来た・・・

それを悪いと判断することなど一切ないけれど、

自分の願うこと(戦争がなくなることや、悪徳政治家がいなくなることや、

詐欺恐喝殺人傷害がなくなることや、平等な自由な世界になることや、

公園の性器出し現象がなくなることなんか)が、

その判断に基づく行為では叶わないという意味では、

悪いといえる。

“なくそうとするとなくならない”ということについては

見ようとすると見えない、という言葉を使っても、

何度も考え書いてきたし、

やっぱりそうなんだろうなぁと思う。


また、釈迦流に言えば、一切が、くう(空)であり、

それの言い方を変えれば、全てのものは相互作用でなってきたもの、

動的平衡と非動的平衡の繰り返しというプロセスからなってきたもの、

という事実からすれば、

その一点だけ、その現象だけをとって、軽蔑し批判し非難し注意し説得するのは、

事実に則してない観念といえるんだろうと思う。


釈迦の云ったという『見ないことが、究極のありようを見たことである』

こういう言葉からも、

その境地(判断無し)から発する思いが

対象にそういう変化をもたらすということに、

釈迦は確信を持っていたのかと思う。

そういう世界(人間)の変わり方を釈迦は提唱していたと言えないかな・・・

それを実現するのに修行をするとか講話を聞くとか説教を聞くとか、

念仏を唱えるとかお経を聞くとかの方法があって、

それもいいけれど、科学的な現代人向きの、

研鑽方式で実現しようと考えたのが山岸さんなのかと思う。


釈迦とエントロピー

2014-02-09 10:12:31 | 量子力学と心
ダライ・ラマの著書の中に、

「釈尊は経典の中で、『見ないことが、究極のありようを見たことである』

と述べられています。」というのがあった。

釈迦の「見ない」とは・・

どんな現象、対象に対しても、何の先入観もなしに

(これはなんだろう?)というまなざしで見ることがそれなのかと思った。

非難がましくなく、責める気持ちなど一切なく、

ただ、(これはなんだろう????)と。

去年ダライ・ラマの文章を読みながらブログに書きながら、考えて、

そういうことになるな・・と思ったんだった。

ちょっと書くと、

対象であるそれが何をしてるのかわからないから、何だろう?と見るわけだ。

それが何かわかっていたら、何だろう?という?は浮かばない。

何を思って何をしようとしてるのかわからないから、

何だろう?と見るわけだ。

対象を見聞きしたときに、「これはこういうことだ」なんて、

瞬時に無意識的に判断・解釈してしまうというのがよくあるというか、

私たち凡人はだいたいそうなってる場合が多いけど。

だから瞬時に腹が立つことが可能になるんだし。


何度も例として出している、昼日中の井の頭公園の性器出し男に、

(それが何なのかわからないというまなざし、

何を思って何をしようとしてるのだろう?)を向けたら、

その男は自分の性器をズボンにしまった。

そのまなざしは、対象である相手に、

(自分が今ここで、何のためにこうしているのか?)を問わせることになる。

その邪心のないまなざしがキッカケで相手は自分の心に問いたくなる。

自分は今ここで、何をしたくてこうしているのだろう??と。

すると、自発的にその人は究極のありように戻る。

釈迦が云っていたというのはそういうことなんじゃないかな。


世の中で酷いと云われる現象に際しても、

非難も邪推もない透き通ったまなざし(境地)で在ることは、

世界を変え得るキッカケになると思う。

邪心のないまなざしは愛から生まれる。


相手がどうしようと何を思おうと変わらないその境地には、

どうやってなるんだろうと考えると、

そのときどき、愛の方を選択したり選択しなかったりして、

選択したその結果を体験し、味わい、次に繋げる、そういうプロセスを経て、

“常に”愛の方を選択し続けるようになる、のかと思う。

心というものが相対的であるからこそやれることだ。

また、そう在るという強い意志が初めにあるからこそ出来ることなんだろう。

そして、いつも意識的で居ないとそうは生り得ないのかと思う。


やっぱり、釈迦が云ったという、

『見ないことが、究極のありようを見たことである』というのと、

湯川秀樹のエントロピーの話は繋がっている。


人格的行為と直接結びついたもの、という言葉

2014-02-06 16:57:42 | 量子力学と心
これも湯川秀樹の言葉です・・・

「精神と物質は表裏一体をなしているかもしれない。

それはある絶対的な直観的な知識を意味するであろう。

それこそ真の知識であるかもしれない。

否、それは“単なる知識以上のもの、

人格的行為と直接結び付いたもの”であるかもしれない。

私はそれを何と呼んでよいか知らない。

・・・・いずれにしても物質の問題が錯雑した迷路に入り込んで、

途方に暮れようとする行き詰まりから、

自ら精神の世界が開けて来るのである。

それはもはや狭い意味における物理学の世界ではない。

主として心理学によって研究されるべき領域である。」

・・これは昭和18年3月に発表されたらしい『物質と精神』からの引用です。


この中の“単なる知識以上のもの、人格的行為と直接結び付いたもの”

これが云っているのって、ある境地のことじゃないか・・・

人格的行為であっても非人格的行為であっても、

行為は境地から発生するものだから。

ここで彼が言っている、“単なる知識以上のもの、

人格的行為と直接結び付いたもの”とは、

キリスト的境地、釈迦的境地、無我の境地と云ってもいいし、

究極の境地、自他一体の境地、ある存在の状態、

潜在意識のあるプログラムが作用する状態というか、

心境の状態がある段階に達したもの・・・とか。

この境地がエントロピーが増えも減りもしないという状態なんじゃないか・・・


この本の『エントロピー原理とは』という章の最後に、

湯川秀樹が言ってる言葉がある。

「・・・法則が何らかの形で現実世界で具現されていると考えるか・・・」。




湯川秀樹の言葉を思い出した・・・

2014-02-06 15:54:57 | 量子力学と心
「・・・常に自己の相対性を反省しつつ、

一歩一歩絶対的な真理に近づこうとする努力の中にこそ、

科学の本質が見出される。

(湯川秀樹の「常識と非常識」より)

・・・この文章を読むと、

湯川秀樹自身の心がそういうものだったのかと思う。

さっきのブログを書いた(一部書き直した)とき、彼のこの文章を思い出した。


人間は相対的存在だからこそ、

生命の究極的意志(愛・真・善・美)を形に表わす(行為)ことも出来るし、

そうしないことも出来る。

そういう選択の自由の中、意識的か無意識的かはあるけれど、どちらかを選ぶ。

どっちを選ぶことも出来るという自由の存在だ。

望むこと何でも出来るという自由な存在だ。(結果はどうであれ)

人間が愛・・美しか選ぶことが出来ない状態だったら、

不自由な状態といえる。


相対的存在である人間も生命・自然の一部だ。

その意志は常に今ここに“在る”

存在は法則から逃れられない。

(量子力学の根本の法則は向きのない時間ひとつだけ。

それはエントロピーは増えないもの。絶対的なもの。それが在る)


究極である愛が在る・・ということと、

それを行為で表わす、ということは次元が違うことだ。

愛が在ると知っているというのは形のない知識に過ぎない。

それを体験すること(形ある)で喜びが生まれる。感情が生まれる。

愛ではない行為があるから、愛ある行為が喜べる。


神というか、それは、

経験が出来るという相対的世界に在るものじゃない。

神というか、それは相対ではない絶対なものだから。

それはある意味自由じゃない。

それしかない。選べない。

人間が意識的、精神的に成長するということは、

相対的世界の中で常に愛・・美という選択肢しか選ばない状態

になることを言うのかと思う。

キリストとか釈迦とかはそういうひとだったのかと想像する。





ある絶対的なものに非常に近いもの・・ 

2014-02-06 12:22:55 | 量子力学と心
湯川秀樹の言葉の中にとても興味深いものがある。

以下のこれ・・・

「エントロピーの法則と量子力学の根本法則の方の時間の向きのないものとは、

どうせそれは人間的なものがどこかにあるにしても、

一つオーダー(数式でいう次数。ここでは位置とか時間などの

不確実な要因の数)の違うものであるのは確かに言える。

というのは、今のエントロピーが増えるというようなことは、

つまり人間的なスケール(位置・時間など)ということと

非常に密接に結びついているのです。

ところが“根本法則は人間的な位置、時間などを離れてしまった問題”・・・

これは神さまじゃないかもしれんが、

ある絶対的なものに非常に近いもの、

例えば因果律的なものですね。

それは統計と解釈しようが、どう解釈しようが、

そういうもの自身はずっと絶対的なものに近いですね。」

・・・湯川博士の言葉である。

これは何を云っているのか???

量子力学の根本法則の方の時間の向きのないもの、

人間的な位置・時間などを離れてしまった、もの、

それって、愛とか真・善・美というような形のない意志のようなもの、

なんじゃないか・・・

それは相互作用で起こったものではなく、

観測作用で起こったり起こらなかったりするものでなく、

絶対にある、目に見えない、形のないもの。

何と言われようと何をされようと、ある状態の人間から消えないもの。

相手がどうしようと、それに左右されずにどうしても在るもの。

母の愛に似てるもの。

そのような状態ではエントロピーが増えもせず減りもしない。

根本法則の方の時間の向きのないものとは

生命・宇宙の究極の意志、なんじゃないか・・

それは常に“今ここ”という向きのない時間に在る。

在るけれども、人間界で考えると、

人間というものは相対的世界に生きているから、

愛や真を選択したり、選択しなかったり出来る。

けれど、常に愛を選択することしか出来ない場合には

エントロピーが増えない・・・

そういうことかと考えた。







エントロピー原理は・・・②

2014-02-05 13:33:52 | 量子力学と心
初めて湯川秀樹と小林秀雄の対話を読んだときは

ただ文字列をさっと追ったくらいで、

面白くもなんともなかった。

要は読んでなかった。文字を見ただけだった。

それが読みたくて読んでいくうちに、

これはどういうことか?が浮かんで来た。

わからないってことがわかって来た。

そうなると面白くなってくる。

特にこの文章・・・

「・・・ところが、知らぬ間に観測をやって、結果をわれわれが知らずにいると、

あいてはだんだんわからなくなってくる。

ということはエントロピーが増えることです。

初めよくわかっていたのを、そのまま外部と全く切り離して放っておいても、

エントロピーはふえない。・・・(中略)・・・

分子がどうなっているか、われわれが実際知らずにいると

エントロピーが増える。

ところが全部知ったらどうなるか。エントロピーはふえない。」

・・この言葉は本当に意味深だし、面白い。

さっきも少し書いたけど、考えるためにもう少し・・

「初めよくわかっていたのを、そのまま外部と全く切り離して放っておいても、

エントロピーはふえない」・・このことはどういうことか??

「初めよくわかっていたのを」・・これどういうこと???

何がどうよくわかっていたのか?

分子の状態が観測者によくわかっていた、ということだろうか・・

分子が秩序を保っていた状態だったということだろうか・・・

(それがどういうことかわからないけど)

その状態のまま、外部と切り離して放っておくというのは、

何の干渉(観測)もせずにいたということだろうか。

それは人間の意識で考えると、

相手の在るがままを受容し、見守るだけで、

余計な口出し手出しをしないでいるということだろうか。

すると、対象は混沌とはならない。秩序状態を保っている。

そういうことだろうか???



「人間の進歩について」というタイトルだった

2014-02-04 10:41:50 | 量子力学と心
小林秀雄の対話集で湯川秀樹との対話のタイトルは

「人間の進歩について」だった。

その中の「エントロピー原理とは」という章に、

量子力学で“根本の方程式”としては、

“向きのない時間一つしかない”という文章があった。

物理的な難しいことは全然わからないんだけど、

向きのない一つの時間しかないのが量子力学の根本原則だとすれば、

やっぱりやっぱり、量子は意識だ。

量子力学は意識力学だ。

生命を、世界を、人間を、意識を、心を、

他の何もかもを研究し、地球を調和あるものするために

量子力学があるんじゃないか。

全くの無学のあほのミーハーの私がこんなこと言っても

誰も見向きもしないだろうけど、

思っちゃうものはしょうがない。

でも、湯川秀樹も山岸さんも応援してくれてる感じが勝手にしてる。


意識・境地は今ここに在る。

いや、昨日も意識はあった、なんて言わないでね。

そう思ってる意識は今ここに。

過去も未来も今ここという瞬間の意識にある。

けれど、実際私たちが生きて暮らしているということは

時間の向きがあると感じる。

こういう湯川秀樹の言葉もあった。

『根本の方程式としては向きのない時間一つしかない。

しかし、同時に

エントロピーが増加するという場合のある向きの時間も確かにある。

根本の方程式から出発して、

“ある人間的な条件では”このエントロピーが増加する場合“だけ”出てくる。

その逆というのはめったにない。』

(“ ”印は私がつけた。)

こういうのを読むとぞくぞくしてくるよ。

なんでかって、考えたい考えたいってなるからさぁ。

“ある人間的な条件”ではエントロピーが増加する場合だけ出て来る・・・

けれど、鉄が酸化してぼろぼろになるのを

エントロピーが増加してる状態だと聞いたことがあるんだけど、

鉄が酸化するのに人間的条件が関係あるんだろうか???

量子力学とマンデラ氏 ③

2013-12-12 10:20:35 | 量子力学と心
「・・・不確定原理によれば、粒子の「位置」や「速さ」とかは

それがいつでも持っているいわゆる「第一性質」ではなく、

むしろ“その時々の状態、あるいはわれわれの見方に

応じて現われてくる性質”であると考えられるのである」

・・またまた引用した『目に見えないもの』の中の湯川博士の言葉です・・


“その時々の状態”とは人間界ではどのようなことか・・

まさしく“その時々の状態”でしょう、と言われそうかな。

状態に応じて現れてくる性質・・・

誰の状態か・・白人、黒人双方の・・

例えば白人が何か凄く具合が悪そうにしている時、

たまたまその場に黒人しか居なくて、その黒人が思わず声をかけたり、

医師を呼ぼうとしたりするようなことがあるかもしれない。

普段なら自分たちに差別の目を向ける白人に対して、

情が起こってくることなど無い人も、

そういう状態の時は内にある自然な感情が起こってくることもあるだろう。

立場が反対の状況でもこういうことはあるかもしれない。

その時々の状態によって現れてくる性質とは

こういうようなことを言うんじゃないかな・・

そういう状態の時に主義とか見方がその瞬間吹っ飛んでしまうのは、

後から付いた主義などより、

元々ある自然の力の方が大きく作用するからだろうと思う。

理性による考えや主義 と 行動の間には時間差がある場合が多いけれど、

一方が苦しんでいる状態とか緊急の場合には、

本能・元々在る感情 と 行為行動の間は時間がかからない。

火事場の馬鹿力なんていうのもそういう種類かと思う。

“今ここ”という時空に忠実に生きていると、

常にそういう状態なのかもしれない・・な。


見方に応じて、時々の状態に応じて、内にあるものが引き出される。

現れてくるのは内に在るから現れる。

獣性も慈性も内に在る。

どちらも選択出来る自由を私たちは生まれながらに持っている。

量子力学とマンデラ氏 ②

2013-12-11 19:10:32 | 量子力学と心
「・・・不確定原理によれば、粒子の「位置」や「速さ」とかは

それがいつでも持っているいわゆる「第一性質」ではなく、

むしろ“その時々の状態、あるいはわれわれの見方に

応じて現われてくる性質”であると考えられるのである」

・・・・・

黒人を虐げる白人たちに対しての見方が変わったとき、

マンデラ氏の行為は変わった。

差別的行為に対し、非難し、抵抗し、

自分たちの自由を主張していたそれまでと、

打って変わった。すると、当然白人も変わった。

マンデラ氏のその見方に応じて現れてきた白人の性質といえる。


それ以前白人は黒人は劣っているという見方をしていた。

そういう、白人が持つ、黒人を差別する見方

(黒人は白人以下であるという)に応じて、

黒人側に現れていたのは批判・非難・抵抗という性質だった。


マンデラ氏は悪循環から抜け出すキッカケを作った。

真実の循環を作るキッカケになった。


民族融和政策をマンデラ氏がやったと、

そういう表現でネットやら新聞やらに出ているけど、

何故そういう政策をとるように“なったのか”、

何故白人と黒人が仲良く“なれたのか”、

そのプロセスがもっともっと多くの人に明らかに

なったらいいなぁと思う。