ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

明日は九月

2013-08-31 09:02:18 | 日々の暮らし・思い出
くそ暑い夏だった八月も今日で終わる。

いや、まだ夏は終わらないけど、九月と聞くと「秋」がぱっと浮かぶ。

昨日は義父の97才の誕生日だった。

その前日も、明日は誕生日ですねと言って、

夕飯がちょっと普段よりましなものだったので、前祝とかいって、

ビールを飲んだりした。

そうしたら義父は「もうこれ以上何もしてくれんでいい」と言った。

昨夜は義父の大好きな鯵が手に入ったので、それの刺身。

本当に朝獲れの新鮮な鯵は何より美味しい。ぷりぷりしてる。

毎日義父の体重を計っているけど、昨日は前日よりちょっと増えていた。

ここのところちょっとずつ増えていてそれも嬉しい。

くそ暑かった日々が続いたときは日に日に体重が減って、

ちょっと心配したけど、

この前、夫の弟が関東の自宅に帰るときには、

秋になったら、又そちらに行く、と言っていたという。

そういう発言があったことを聞いて、嬉しく思った。

こちらから又行きましょうと働きかけてないうちに、

そういう気持ちになったことが嬉しかった。

スクランブル交差点と鳥、魚

2013-08-31 08:46:02 | ひとの幸福
空を飛ぶ何十羽だか、百羽くらいだかが群れを成して飛ぶ姿がある。

ここらでも時々海上を飛ぶ鳥でそういう姿を見ることがある。

見ていて飽きないほどの美しい模様を描きながら、飛ぶ。

その模様は動きながら、流れるように変化する。

テレビで見たことがあるけど、海の鰯なんかも、

上に書いた鳥のような動きをする。

なんでそういうことが出来るのか????

この前渋谷駅前のスクランブル交差点のことを書いた。

スクランブル交差点での人々の動きは何故うまいこと行くのか・・・

潜在意識のなせる技なんだろうなと書いた・・・

それが群れで動くときの鳥や魚に似てるなって思った。

全体を見てそうなるように指示する単体なんか居ない。

そうなる設計図を持って指示するものはいない。

人体の細胞やなんかも同じだ。

隣近所の細胞たちとあなたがそうなるんなら私はこうなるわ、みたいな、

互いに情報を交換し合って動きながら変化している。

そして身体という全体がうまいこと行っている。

こういうことが福岡伸一ハカセの「動的平衡」にあったと思う。

一つの細胞も一羽の鳥も一尾の鰯も一人の人間も、

みな、こういう力を秘めているのかと思う。

こういう力が潜んでいる。

どれも生命と言えるもので、その在りようというのは一緒なのかな・・

そして、

そういう生命である人間が創ってるこの世がうまいこと行かないのは、

植物や鳥や魚には無い顕在意識・観念が不自然に作用するからなのかと思う。

不自然な動きが自然な動きになる可能性はあるのだから、

ひとはもっと進化していくものだと思う。

寡黙なる巨人 ②

2013-08-30 09:21:23 | 本を読んで
昨日引用した「受苦ということは・・」の文章も、

この本の「苦しみが教えてくれたこと」という章にある。

やはりその章にこういう文章があった。

以下引用です。

「・・・病という抵抗があるおかげで、

何かを達成したときの喜びはたとえようのないものである。

初めて一歩歩けたときは、涙が止まらなかったし、

初めて左手でワープロを一字一字打って、

エッセイを一篇書き上げたときも喜びで体が震えた。


・・・そうやって、些細なことに泣き笑いしていると、

昔健康なころ無意識に暮らしていたころと比べて、

今のほうがもっと生きているという実感を持っていることに気づく。


身体についても新しい発見がある。

たとえば頬の痒みを掻くと麻痺した手が不随意に動く。

あくびと同時に、麻痺した胸の筋肉が緊張する。

猫のあくびと同じだ。いわゆる錐体外路系の神経が活動するからだろうか。

麻痺で不随意になっても、

人間の運動系は一体になって動いていることが実感としてわかる。

こんなことも健康なときは気づかないで、

何でも細分化すれば理解できると思っていた。

医学を学んだ身として愚かなことだった」

病気という体験をすることで、こんなふうに思える人は多いのだろうか。

私たちは一人一人全く異なる心の世界に生きている。

そりゃ、正常な身体は非正常な身体よりいいものなんだけど、

そのことを通してどんな心の世界を生きているか、が人生だ。

喜びや悲しみや辛さ寂しさ痛さは、

全部(感じる)という心の世界に在るもの。

病気になってよかった、とはなかなか思えないものだけど、

病気になってよかった、と思うのは、

それまで当たり前だったことに喜びを見出せることなんだろう。

そう、当たり前だとしてることは面白くもなんとも無い。

観念を持たない動物では決して得られない喜びだし、

悲しみだって、同じかと思う。

絶対の世界に居たら、この喜びを感じることは出来ない。

この相対的世界という心の世界に生きている私たちは、

ホント!素晴らしい。ラッキーだ。

寡黙なる巨人

2013-08-29 15:38:18 | 本を読んで
免疫学者の多田富雄さんの「寡黙の巨人」という本を読んだ。

新聞とかでしかこの人の文章を読んだ事がなかった。

脳梗塞で倒れた後の活躍、その努力についてはよく新聞に載っていた。

私が30代の頃か、新聞に何かを連載してたことがあったと記憶していて、

それを興味深く読んだというおぼろげな記憶があるけど、

内容はまるで憶えていない。

脳梗塞で倒れたときやその後の暮らしや思いがとても細かく書かれてあって、

脳梗塞についてこんなふうに表現された文章は私にとって初めてだった。

私の母も脳梗塞で倒れ、感情失禁、失語症、右半身不随になって、

それは多田さんと同じだったけど、

多田さんは考えることについての神経細胞はやられなかったみたいで、

だから、こうした文章が書けたんだけど、

そのことが苦しみとなり、また喜びにもなったのだと思う。

私の母みたいにそこがやられた(多分・・)場合は、

思いの苦しみはそれほどなかったろうと思われる。

倒れてそれほど経ってない頃は無念みたいな涙を見たけれど、

それも早いうちになくなってしまったように見受けられたから。

でもいつもどんな心の世界に生きているんだろう???というのは私にはあった。

さっきのブログで書いたけど、

「いつ何があるかわからない」

多田さんも倒れる前の健康診断ではいつもどこも悪くなく、

それまでとても元気に活躍してたみたいだ。

それが突然別人になってしまった。


昨日夫とこんな話をしていて、

自分がこんなふうに健康で日々を暮らせているのも、

私自身の努力とかでは全く無い、ということがよくわかる。

何故かこんな気質に生まれ、鼻炎や腰痛や五十肩はあるけれど、

今のところ何故か健康に恵まれ、

何故かやりたいことがやれている。

夫は「生かされているっていうことだろうね」と言った。

本当だと思った。私自身の力なんて無いといっていい。

いや、こんなふうに生きていられることに、

私自身とか私以外の何かとか、そういう区別はないんだな、と思った。

(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)といっていいかな。

そして今以降の(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)の身に

何が起こるのかわからない。

(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)の管理人である私は、

何が起こっても引き受けたいと思ってるけど、

そんなこと思ってみても、

この本を読むと脳梗塞の症状やその後の暮らしの辛さに

耐えられるか心もとない(すべてがこういう現れ方をしてるところの私)だと観ている管理人の私だ。

彼にこんな言葉があった。

「受苦ということは魂を成長させるが、

気を許すと人格まで破壊される。

私はそれを本能的に免れるためにがんばっているのである」

がんばっている、という表現は

こう在りたいという管理人の思いかと受け取った私だ。



正常化の偏見 心の惰性化

2013-08-29 10:42:11 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の余禄欄に、こんなことが書かれてあった。

人は異常な状態に直面しても、

「大変だ、これは非常事態だ」という心のスイッチがなかなか入らない。

災害の専門家が『正常化の偏見』と呼ぶ心理だそうだ。

たいしたことはない、と考えてしまう平常時の心の惰性。

東北の大震災で多くの人が亡くなったのもこの心理が働いたからではないかと。

刺激臭のある煙を徐々に部屋に充満させても、

7割の人がそこにとどまり続けたという。

ううん・・・なんか実に覚えがある。

その煙の実験なんかでは「徐々に」というのがクセモノかもしれない。

一気に刺激臭が部屋に入ってきたら、違う対応をするかもしれない。

この前麻生財務大臣がわからないうちにささっとやってしまえ・・みたいな発言をしたけど、

あの真意は知らないけど、わからないうちにやる、というのは

この、徐々に煙が充満・・みたいな感じなんだろうな。

ちょっとずつちょっとずつ進むと進んでいることがわからない。

一緒に暮らしている親は子供の背が伸びてることがわからないけど、

久しぶりに会った叔母さんがすぐに「大きくなった!」と言うことも一緒かも。

いいことも悪いこともちょっとずつだとわからない。

軍国主義がいつのまにか忍び足で・・・なんていうのも

そういうことなのかもしれない。

いつも「正常」という軸を自覚してないといけないね。

脱線したかな。

この欄で言ってるのはもうちょっと違うことか。

『正常化の偏見』

『たいしたことはない、と考えてしまう平常時の心の惰性。』

大変なことはそうそう起こらない・・・

そういうふうに私たちはなっているのかもしれない。

実際大変なことはそうそう起こらない、とは言える。

毎日暴風雨じゃないし、毎日家族が死ぬほどの目に遭ってることもない。

だから、「大変なことはそうそう起こらない」と潜在意識で固定しちゃってる。

でも大変なことは常に起こりうる。

可能性はある。無いなんていえない。

天候の警報が出るとき、狼が来たという嘘を聞き続けた大人みたいに、

又、空振りだろうと瞬時に決めてしまう心。

この子供向けの話は、だから嘘をつくのは止めましょう、ということらしいけど、

空振りを出すのは止めましょう、というのは言えない。

空振りか空振りでないかはその時点でわからない。

そうそう、これは出す側の問題じゃない。

聞く側が平常時の心の惰性化状態になってることが問題なわけだ。

さてさて、非常時異常時であるかもしれない、のとき、どうしたらいいか・・・

どうしたらいいか、じゃなくて、

やっぱりどう在ったらいいか・・ということになるんじゃないか・・

これは異常じゃないか!?というふうに頭が働けばいいんだが・・・

「いつ何があるかわからない」・・・これかな、

これをいつも頭におくこと・・・・・

本当にいつ何が起こるか今の私たちにはわからない。

そういう、わからない私たちなんだという自覚を持つことなのかな・・

それと、

パッと、「あれ、なんか変だぞ?」と感知したら、

それを流さないで、その感知を大事にするというか、

感知を信じ、感知通りに行動する、というのも有効かも・・?

感知の後に(たいしたことはない、と考えてしまう平常時の心の惰性)という理性が

働き出す前に行動すること・・とか。




同じ歩調で・・

2013-08-29 09:22:07 | 本を読んで
公開してから、ちょっと違うなと思って・・・

「自分が先取りしてからでなく、自分より遅れている人、

弱い人の手を曳いて誘い合い、持ち合わして、

同じ歩調で進み度いのです。」・・・青い本から。

待ち合わしてじゃなくて、“持ち合わして”。

持ち合わして・・というのは人それぞれの個性というか、

持ち味というか、その人でしかそう在れないこととか、

そういうものを互いに持ち寄って・・というようなことか・・・


同じ歩幅じゃなくて、“同じ歩調で”。

調子を合わせる、流れに乗るということかな・・

すぐそれは間違ってるとか、違うんじゃないか、とかじゃなく、

優越感などない心の状態ともいえるし、

無評価の状態とも言えると思う。

自分が先取りしてからでなく・・・とは

自分はそのことがわかっていると上から目線で見るんじゃなくて、

自分より弱い人の弱さを否定せず、

そう在ることを無批判無評価の心の姿勢で観て・・

これは共に在ろうとする心の姿勢かな・・




バナナと庭

2013-08-28 14:11:17 | 日々の暮らし・思い出
うちの台所に小さなサイズのバナナが3房吊るして在る。

なんと!このバナナは娘の家の庭にあるバナナの木からもいだもの。

石垣から送られてきたもので、島バナナという。

送られてきた時はどれも緑色をしていた。

バナナが庭に生る。

ここら辺の家の庭に柿の実が生るのと同じことだと頭では思うけど、

やっぱり驚く。

黄色くなって柔らかくなったら食べられるよ、と聞いて、

毎日眺めていた。

黄色くなってきたよ~♪ 

ちゃんと黄色く、柔らかく、なった!

スーパーのバナナと違って、ちょっと酸味があって、

静かな穏やかなさっぱりとした味です。

柿の実が赤くなってもこんなふうにいろいろ思わない。

やっぱり当たり前としてると人生は面白くないんだな~

自分さえよかったら・・

2013-08-28 13:09:53 | 本を読んで
青い本の「・・・自分さえよかったらの、禽獣にも劣る浅ましい気風が瀰漫し、

これを正すためにも、獣性の助長は絶対出来ないです。」

・・・禽獣(きんじゅう)の意味は

①鳥と獣。「禽獣にも劣る行為」。

②恩義や道理を知らない人をののしっていう語。畜生。

瀰漫(びまん)の意味は(気分や風潮が)一面にみなぎること。

ひろがりはびこること。以上。

自分でことばの意味、使われ方を正確に知らないから、

広辞苑から引用して書いてるけど、

読んで邪魔な人もあるかもしれないね~

勘弁してください。

意識的に「自分さえよければ・・・」と思うというのもあると思うけど、

それほど多くは無いんじゃないかと思う。

無意識的にそうなっているという場合の方が多いと思う。

自分だけよくなるという事実は自然界には有り得ないことなんだけど、

人間の意識はそうなっちゃうことがある。

なので、「禽獣にも劣る浅ましい気風が瀰漫する」ということになるのかと思う。


「これを正すためにも、獣性の助長は絶対出来ないです。」とは・・・?

「獣性」の意味は人間が持っている肉体的欲望などの動物的な性質。

「助長」の意味は物事の成長発展のために外からの力を添えること。

よほどの聖人か仙人でも無い限り、

人間という動物は獣性を皆持っているのかと思う。

肉体的欲望である食欲も性欲も睡眠欲もあるのは当たり前。

最近よくいう遺伝子がオンになってるとかオフになってるとかいうのも、

在るもののどれを引き出すか、ということかなと思う。

災難時、食糧がほんの少ししか手に入らない時に、

母親はいくら自分が空腹でも、それを子供に与えたいと思ったとしたら、

それは食欲より子を思う気持ちが優っていたということだろうし、

食欲信号がその思いによってオフになったということかもしれない。

獣性がオンになるかオフになるかは、

周りの働きかけ(物事の成長発展のために外からの力を添えること)でなることもある。

一体の観方でない気風がはびこる世の中で、

部分だけが栄える(自分だけよくなるように)という、

ひとの獣性がオンになるような、

キッカケになる行為は絶対出来ない、

と云っているんだろうか・・・


これも去年ので、公開することにしたよ。

冷蔵庫掃除

2013-08-28 09:19:51 | 日々の暮らし・思い出
いま、冷蔵庫の掃除をしてきた。

棚板の隅に汚れが付いているのでそれを取りたいと思った。

その棚板を外そうとしてたんだけど、硬くてなかなか外れない。

隣の部屋で新聞を読んでた夫にちょっと知恵と手を貸してと頼んだ。

彼は新聞を置いてすぐに来た。

私は「ここがこうなってるから、外せると思うんだよね」と言いながら、

様子を見てもらおうと、引っ張ったりたたいたりしたら、

夫は「ここが外せるようになってるか、取扱説明書を見たか?」と。

見てないと言ったら、「まず見たらいいんだよ」と言って、

それが在る場所にスタスタと行って、持って来て、

ページを開いた・・・「お手入れのしかた」というページがちゃんとあり、

冷蔵庫の庫内の説明図がまたまたちゃんとあり、

その棚は「この棚は取り外しが出来ません」とちゃんとあったのだった。

夫は「あんたは説明書を見ようとしないで、

いきなりあんなに乱暴にたたいたりする・・」と非難のかけらもなく言って、

説明書をしまいにスタスタと歩いて行った。

全く私はその通りであった。

彼を尊敬のまなざしで見た私であった。

小泉純一郎さん

2013-08-27 10:25:32 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞の「風知草」という欄は「小泉純一郎の『原発ゼロ』」

小泉さんは今月中旬、脱原発のドイツと原発推進のフィンランドを視察して、

その感想は「脱原発、行って納得、見て確信」に尽きるそう。


ゼネコン幹部の一人が「あなたは影響力がある。

考えを変えて我々の味方になってくれませんか」とささやいた。

小泉さんは「オレの今までの人生経験から言うとね、

重要な問題ってのは、10人いて3人が賛成すれば、

2人は反対で、後の5人は『どっちでもいい』というようなケースが多いんだよ。

いま、オレが現役に戻って、態度未定の国会議員を説得するとしてね、

『原発は必要』という線でまとめる自信はない。

今回いろいろ見て、『原発ゼロ』という方向なら説得できると思ったな。

ますますその自信が深まったよ」と言ったそう。


原発は「トイレなきマンション」であるとこの欄の筆者が紹介してた。

そうだろうな。

小泉さんはーーー今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが・・に対して、

「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと

将来ゼロにするのは難しいんだよ。

野党はみんな原発ゼロに賛成だ。

総理が決断すりゃ出来る。

あとは知恵者が知恵を出す。

『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、

そんなことないね。

昔も『満州は日本の生命線』といったけど、

満州を失ったって日本は発展したじゃないか。

必要は発明の母って言うだろ?

敗戦、石油ショック、東日本大震災。ピンチはチャンス。

自然を資源にする循環型社会を、

日本がつくりゃいい。」

・・この欄の筆者の山田孝男さんは、小気味よく聞いた、とあった。

私もそう感じた。

同じ内容を他の政治家の誰かが言ったとしても、

この小泉節というこのなんともゆるい感じは出ないのかなと思った。

この人の軽さは持ってない感じ。

なんというか、原発反対論者の絶対これが正しい、みたいな

肩肘張る感じが無いと受け取るのは私だけじゃないだろうな。

毎日新聞をとってる人は朝日や読売ほど多くないだろうから、

ちょっと紹介したくて書いちゃったよ。


願う前から・・

2013-08-27 09:53:08 | ひとの幸福
これって、願う前から叶えられている、って感じだね。

・・って書いて・・そうなのか、って思った。

顕在意識で(そうしよう)、なんて思う前に既に叶えられている。

そうしよう、なんて思う事自体がそうなるのを邪魔する。

きっとそうだよ、そこに居る人たちに全体を見て、

他の人の邪魔にならないようによく考えて、

行きたい所に着けるのはどう歩いたらいいかをよく考えて、

歩いてくださいと誰かが提示したらどうなるんだろうなぁ・・

真面目にそれをしようとする人なんて居ないか?

その言葉を聞くだけでやる気が失われそうだし。

実践て、何も考えないでやることなんだと思うな。

何も考えずにやれるようになる・・のが本物か・・

習うより慣れろという言葉もその一部を表している表現なのかな。

渋谷のスクランブル交差点も毎年4月は初出勤の人や、

初通学の人が居て、幾らかはぶつかったりすることがあるらしいけど、

一週間(二週間だったか)もすればそれもなくなるとあったよ。

渋谷駅前

2013-08-27 09:39:34 | 新聞を読んで
昨日の毎日新聞の社説欄「日本のファンをもっと」と見出し。

日本への観光客を増やそうみたいな奴だったんだけど。

アメリカのタイム誌で「東京観光トップ10」が挙げられたことがあって、

その中の一つに「渋谷駅前のスクランブル交差点」というのがあったそう。

そのわけは「整然としたカオス」だから・・

以下はネットでスクランブル交差点を検索したものからです・・・

・・・もちろん斜めに横断することも可能なので、

交差点を渡ろうとする人の流れは大変複雑で、

前から来る人ばかりではなく横からも、斜めからも

やって来る歩行者を巧みに避けつつ渡らなければなりません。

外国人観光客がここぞとばかりに、

出来るだけ多くの人々を写真に収めようと懸命にシャッターを切っている。

日本人にとっては単に交差点を横断する人々でしかありませんが、

彼らの目にはこれこそが「日本人」、

そして「東京」を象徴する実にユニークな光景として映っているようです。

海外のガイドブックでも、「渋谷駅前の交差点」は

「ハチ公の像」と並んで、

れっきとした東京の観光名所になっています。

信号が変わるたびに一定のリズムで移動を繰り返す人の流れを見て、

外国人観光客は、しばしばこんな感想をもらします。

こんな多くの人が一度に道路を渡っているのを見たことがないなあ。

まるで打ち寄せては返す波のようだね。

どうやったらあんなふうにお互いぶつからずに歩けるんだろう。

・・・引用以上。

へぇ、そうなのかと思った。

新宿東口のスクランブル交差点は何度か通ったことがあるけど、

そこを通る度、私も海外からの旅行者みたいに、

誰も指図する人なんていないのに、多くの人が実にスムーズに、

ぶつかりもしないでそれぞれが行きたいところに向かっているんだなぁと

感心してた。

海外からの旅行者が驚くのは、

自国ではそんなふうな光景にあってないんだろうか・・・

スクランブル交差点は元々アメリカやカナダで始まったらしい。

そこを歩く人たちはみんながうまくいくように

・・なんて思ってるわけじゃないと思う。

それぞれの自分が行きたい所へと脚を運んでいるだけだ。

ひとのことなんか考えちゃ居ない。

それなのにそこに歩いて居るひとたち全員がうまいこといってる。

こっちへ行きたいんじゃないよ~なんて流れに逆らう人は見たことがなかった。

顕在意識でうまくいってるんじゃないね、これは。

日本人の潜在意識のプログラムにそうなる(もの)があるんだろうね。

日本では自動販売機が壊されないということなんかもそうだろうな。

これって、願う前から叶えられている、って感じだね。

あまちゃん・・・から

2013-08-26 15:36:21 | テレビを見て
今朝の連ドラ「あまちゃん」可愛かったな。

役者の名前、能年玲奈だっけ、主人公。

今朝のヘアースタイルだと若い頃の吉永小百合に似てた。

この人はこれからどんな俳優になるんだろうか。

演じるのが楽しくてたまらないというような俳優になったらいいなぁ。

こう書いて、これを書き出した今日のわたしだ・・・

わたし、小中学校時代演劇部だった。

小学校4年生でクラブ活動が始まったそのとき、

なんで演劇部なんかに入りたいと思ったんだろ???

当時の学校では毎年学芸会というものがあり、

合唱と劇をするのと、どっちがやりたいか本人の希望で決めた。

3年生のとき、劇を選んだわたしだった。

当時配役は先生が決めた。

主人公は成績のいい子がやった。

成績のあまり良くない私は脇役だった。

学校の成績と劇は違うんだけどな~と思ったことを憶えてる。

女の先生が演技指導をした。

その先生の指導について、

こんなときこんな動作をするなんてリアルじゃない・・・

リアルなんて言葉は知らなかったけど、そんなニュアンスのことを思った。

思ったけど、上に書いた思いもこれも言わなかったから、

よく憶えているのかもしれない。

きっとそうだ。思って自然に話してたら、記憶に残らない。

そのことについて関心が残ったから記憶にとどめているんだろう。

なんで演劇部を選んだのかっていうのは、

どういうことだったのか憶えていない。

合唱より面白そうだと思った・・多分そんな感じだったんじゃないかな。

現金だね~

2013-08-26 14:25:46 | 日々の暮らし・思い出
涼しい日が三日目。

あの狂ったような暑さは何処へ行ってしまったのか・・・・・

というような一昨日昨日今日。

こうなると、少し寂しくなる。現金なもんだ。

まだ秋じゃないだろうけど、後一月もしないで秋の彼岸だし。

秋になるというのは人生で云うと私くらいの年代をいうんだろうか。

わたし団塊世代という奴なんだけど。

あと4日で97才になる義父からみたらまだ秋になってないかな~

いや、やっぱり秋だろうな。

秋あきというと・・・空き・飽き・開き・厭き・明き、こういう字があるのも面白い。

そうそう、去年の秋から左腕が痛く、

左手を背中に回そうとしても痛くて、

右腕を上から下ろして、下から左腕を上に持っていって、

背中で手を繋ぐことが出来なくなった。

去年の秋の前までは出来たんだけどな~

まぁ、出来なくてもいいけど、痛いのは治って欲しいと思って、

痛すぎないくらいの腕の運動をしてるんだけど、

この前立て続けに近くの女の人に、

それは四十肩とか五十肩とかいうもんじゃないかと言われた。

そしてそれはいつの間にか治るもんだと。

おお!ラッキー!いや、ラッキーというのは相応しくないのかもしれないけど、

老化の一つでもうこれはずーっと続くものだとあきらめていたから、

すごく嬉しくなった。

今後の展開が楽しみであります。

秋から春の気分になったよ。

こういうのも現金だね~だ。

「同調の人々と共に」 ②

2013-08-26 11:09:38 | 本を読んで
「・・観方・行き方・言動に対し、

一時は批難する人が現われるやも計られませんが、

批難する前に、直接真相をよく検べてから、

批判を加えられますなれば、私は如何なる批判をも、

よろこんで聴き、・・・・」

・・『観方・行き方・言動』この言葉でも、理想社会とは、

理想の心の状態だとわかる。

観方や行き方や言動は社会はしない。

するのは人であり、ひとの意識だ。

人間は罪深きものであるというような人間観やいろんな人間観、

世界観なんかを『観方』と云っているのかと思う。

「戦争反対」なんかは上に書いたような人間観に立っての

考え方なんじゃないかと思う。

理想の心への『行き方』として、仮説誘導方式とか、

施設雰囲気病的精神誘導詐術や、

神秘的精神集中転換誘導法とか、のもそうだけど、

彼が考え、実践する『行き方』は彼の云う研鑽方式なのかと思う。

この研鑽という言葉を説明するのは結構大変。

今の私の程度の分だけしか言葉にならない。

条理を知り、事実実際を在りのままに観察し、

条理と照らし合わせることによって、

相対的意識であるその時々の自らの心的位置に気付き、

反省し、反省し、ただ、かく在りたいと乞い願い、

本来の人間の在りようとしての行為を実践できるようになる方向の方式・・・

それは理念・方法・実行の三つによって。

なんだかしっちゃかめっちゃかだね~


そして、『言動』は観方から起こる目に見えるもの。


「・・観方・行き方・言動に対し、

一時は批難する人が現われるやも計られませんが、

批難する前に、直接真相をよく検べてから、

批判を加えられますなれば、私は如何なる批判をも、

よろこんで聴き、・・・・」

例えていえば・・「戦争反対」という意識は

戦争がなくなるには効果が無いというようなことを言うと、

一時は批難する人も現われるやも“計られませんが”・・

計られません、とは計画できないということか??

研鑽方式でわかれば納得できると、

彼は確信していたということだろうか??

批難とは欠点や過失などを責めとがめること、という意味だけど、

直接“真相”を検べられていれば(真実の姿であるかどうか検査すれば)

批難には行き着かないから、

“計られませんが”と云ったんだろうか・・・?

・・・これも非公開してたようなので、載せることにします。