今日3才のイブが床拭きワイパー(クイックルワイパー)を持って、
大人の真似をして床を拭いていた。
ベビーベッドが高床になっていて、娘がベッドの下も拭いて、とイブに言った。
普通にワイパーを持っていたんじゃ、奥の方までワイパーが届かない。
持っている柄をぐっと下げるんだよ、と娘はイブに言っていた。
それを聞いて、これは『知識を教える』だなと思った。
こういう時の、たとえば、
「どうしたら奥の方まで拭けるだろうね~?」というような問いかけは「教え」とは言わないのかと思った。
その言葉を聞いて、考えて、自分で実践してみる・・・
こうしたらいいかな・・どうかな・・?・・あっ、先まで届いた!
やり方を一部始終教えて貰っても、出来るだろうけれど、
喜びはそれほど得られないんじゃないか。だってロボットみたいだ。
自分であーでもないこーでもないと考えることと、それを自分でやってみること、
・・そうして得られた、「あっ、そうか!」は『知恵』になるのかと思った。
教えるのではなく、自ら学ぶ・・・そういう言葉があった。
教えるのはどこまで行っても知識なんじゃないだろうか・・・
教えてもらうだけじゃ『知恵』にならない。
上に書いた例なんかはヒントを聞いて、考えたくてたまらなくなって考えて気がつく「知恵」かと思う。
『知識』も知りたくて、自ら教えを乞うこともある。
知識がダメで知恵がいいなんてことは一切無いし、知識が無ければ知恵も浮かばないだろう。
多くの知識は考えるのにとても役立つだろうし。
『知恵』は必ず、あっそうか、そうなのか、という気付きがあるものかと思う。
それは忘れない。身体で覚える。そして必ず喜びを伴う。
気づきというのは頭でわかるんじゃないんだろう。
知識は頭でわかるものだけど。
気付いて、何度も何度もやって、体得にまで行くのかと思う。
大人の真似をして床を拭いていた。
ベビーベッドが高床になっていて、娘がベッドの下も拭いて、とイブに言った。
普通にワイパーを持っていたんじゃ、奥の方までワイパーが届かない。
持っている柄をぐっと下げるんだよ、と娘はイブに言っていた。
それを聞いて、これは『知識を教える』だなと思った。
こういう時の、たとえば、
「どうしたら奥の方まで拭けるだろうね~?」というような問いかけは「教え」とは言わないのかと思った。
その言葉を聞いて、考えて、自分で実践してみる・・・
こうしたらいいかな・・どうかな・・?・・あっ、先まで届いた!
やり方を一部始終教えて貰っても、出来るだろうけれど、
喜びはそれほど得られないんじゃないか。だってロボットみたいだ。
自分であーでもないこーでもないと考えることと、それを自分でやってみること、
・・そうして得られた、「あっ、そうか!」は『知恵』になるのかと思った。
教えるのではなく、自ら学ぶ・・・そういう言葉があった。
教えるのはどこまで行っても知識なんじゃないだろうか・・・
教えてもらうだけじゃ『知恵』にならない。
上に書いた例なんかはヒントを聞いて、考えたくてたまらなくなって考えて気がつく「知恵」かと思う。
『知識』も知りたくて、自ら教えを乞うこともある。
知識がダメで知恵がいいなんてことは一切無いし、知識が無ければ知恵も浮かばないだろう。
多くの知識は考えるのにとても役立つだろうし。
『知恵』は必ず、あっそうか、そうなのか、という気付きがあるものかと思う。
それは忘れない。身体で覚える。そして必ず喜びを伴う。
気づきというのは頭でわかるんじゃないんだろう。
知識は頭でわかるものだけど。
気付いて、何度も何度もやって、体得にまで行くのかと思う。