ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

知恵

2012-10-08 22:08:36 | ひとの幸福
今日3才のイブが床拭きワイパー(クイックルワイパー)を持って、

大人の真似をして床を拭いていた。

ベビーベッドが高床になっていて、娘がベッドの下も拭いて、とイブに言った。

普通にワイパーを持っていたんじゃ、奥の方までワイパーが届かない。

持っている柄をぐっと下げるんだよ、と娘はイブに言っていた。

それを聞いて、これは『知識を教える』だなと思った。

こういう時の、たとえば、

「どうしたら奥の方まで拭けるだろうね~?」というような問いかけは「教え」とは言わないのかと思った。

その言葉を聞いて、考えて、自分で実践してみる・・・

こうしたらいいかな・・どうかな・・?・・あっ、先まで届いた!

やり方を一部始終教えて貰っても、出来るだろうけれど、

喜びはそれほど得られないんじゃないか。だってロボットみたいだ。

自分であーでもないこーでもないと考えることと、それを自分でやってみること、

・・そうして得られた、「あっ、そうか!」は『知恵』になるのかと思った。


教えるのではなく、自ら学ぶ・・・そういう言葉があった。

教えるのはどこまで行っても知識なんじゃないだろうか・・・

教えてもらうだけじゃ『知恵』にならない。


上に書いた例なんかはヒントを聞いて、考えたくてたまらなくなって考えて気がつく「知恵」かと思う。

『知識』も知りたくて、自ら教えを乞うこともある。

知識がダメで知恵がいいなんてことは一切無いし、知識が無ければ知恵も浮かばないだろう。

多くの知識は考えるのにとても役立つだろうし。


『知恵』は必ず、あっそうか、そうなのか、という気付きがあるものかと思う。

それは忘れない。身体で覚える。そして必ず喜びを伴う。

気づきというのは頭でわかるんじゃないんだろう。

知識は頭でわかるものだけど。

気付いて、何度も何度もやって、体得にまで行くのかと思う。


3才

2012-10-08 21:27:36 | ひとの幸福
たかが3才・・というなかれ・・・本当にそう。

3才だからこそ、彼女にはこちらがそのまま観える。

ひとの心の在りようをじっと見てる。観てる。

ちょっとでもこちらに否定があると嗅ぎつける。

本当にここに来てよかった。

剛は要らない。柔だけで真実は表せる、と思った。

ひとがどうしようと毅然とした態度をとる・・という言葉がある。

毅然と、というと、何か厳格なみたいなニュアンスを感じていた私だったけど、

『毅然』の意味は意志がしっかりしていて、ものに動じないさま。

ものに動じない、というと梃子でも動かない石のように思っていたけれど、

柳の葉のように風のままにさらさら動くけど、風が止まれば止まって、

根っこは全然動かない・・・そんなふうなのも毅然とした心だなぁと思った。

対応はどこまでも心柔らかく、受けて受けて、それでいて動じない・・

娘とも、なんか、しみじみと話せて、嬉しかった。

自然とやりたくなる・・それが本当に楽で楽しいだけの人生だね~