ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

船旅♪

2014-05-26 14:34:13 | 日々の暮らし・思い出
明後日、船で岩手へと向かう。泊りがけの船旅なんて久しぶりだ。

10年くらい前に川崎から九州の日南市まで船に乗って、

一人で出かけたことがあったっけ。懐かしい。

旅の途中でセミナーを受けた。

その時の自分の心をよ~く覚えている。

あの頃の自分と今の自分の心の在りようがかなり違って来てるのは本当に嬉しい。

今の自分でこの船旅に出るのもすごく嬉しい。

それに今回は義父と夫との三人旅。一人じゃないことを喜べる自分が嬉しい。

若い頃は一人旅ばかりだった。

その頃は一人でないと意味がない旅だったからね。


岩手では夫の娘や孫たちに会う。

一年振りくらいだ。

その間に生まれた赤ちゃんも居る。

可愛いだろうなぁ。すごく楽しみ。

小学生の孫は前回会うなり「♪花は咲く」を何回も歌ってくれた。

今度はどんなふうだろう??^^

中学生や高校生の孫たちにも多分会えると思う。

本当にわくわくするよ。

その前には船旅がある!

早割というので申し込んだから正規の金額の半額近くになっているみたい。

義父も居るので3人の個室?にしてもらった。

トイレが部屋に在ることが大事だからね。

夜は映画だか、ショーがあるらしいよ。楽しみだね。

大きなお風呂もあるし。

それに人が作ってくれる食事がある!

海に落ちる夕日や上る朝日も見られるかなぁ。

じゃ、行って来ます♪


自分を刺す毒

2014-05-26 13:34:04 | 実例体験観察
ここ2,3日、私にしては本当に珍しく気持ちが沈んでいた。

この前書いた腹立ちとは全く無関係だよ。

あれはあれを書いた時点で終わっていた。

これはなんだ???とやっと自分の心を検査する気になった。

沈んでいるとそういう気も起らない。

起こらないからしない、しないとその気分が続く。

見事それに嵌った。

検査して自分の心の在りように気づいたら・・・

ぱっと変わった。なぁんだ。

“こんな自分じゃいけないんじゃないか・・・”

コレがあった。

この、在るがままの、自分じゃいけないんじゃないか・・・

“こんな自分じゃいけないんじゃないか”・・・これは自分を刺す毒だなぁと思った。

こんな自分が良い、素晴らしい、ので、

(いけないんじゃないか)が消えたわけじゃない。

事実、こんな自分、なのだ。

なんで“いけないんじゃないか”が出て来たのかって、

~すべきなのではないか ~する方がいいのではないか・・

自分の中のコレにやられた。

コレから毒が出ていた。

~すべき ~するのがいい そんな決まったものなどない。

要らない。

どんなことも自分がしたいからする。






腹が立った

2014-05-22 09:29:49 | 実例体験観察
何故腹が立ったのか????

抑圧的雰囲気で発せられたその言葉を聞いたときは腹は立たなかった。

また、うるさいな、とは思ったけど。

そうか、と思ってすぐにやめた。

と、いうことは彼の言うことも尤もだと思ったからだ。

抑圧的な感じが気に入らないというのはあったけど、

彼の言わんとすることはわかったのだ。

瞬間に出た「うるさいな」を引きずることもなく、時間は過ぎた。

でもそのうち、考えが出てきた。これがまずい展開だ。

私は悪くないのにいちいちうるさいな、これだ。

やっぱり「悪くない!」が強くあった。

私は抑えつけられるということにすごく反応するタイプだ。

B型の典型でもあるのかもしれぬ。

それからこういうのも出てきた・・抑圧された私の悲しみなんかより、

人から悪く思われたくないという方が大事なんだ、この人は・・・

私のお得意の僻みが出てきたわけだ。これでフルコースだ。

彼の言わんとすることがわかった、それで終わりなのに

そこに自我がグンと出てきてしまったんだな。

在るから出てくる。

それにしても攻撃的な思いが生れてる最中の身体の何とも言えない感じ・・を体験した。

今までの人生で2回経験したことがあるワナワナ震えるほどの怒りにはほど遠いものだったけど、

身体を巡る血液の動きなのか、皮膚が細かく細かく動いているような感覚が感じられた。

今度そういうことがあったらその時に血圧を測ってみよう、と今思ったよ。

割と近くに血圧計が置いてあるからね。

その時そのくらいの冷静さはあったと思うから。





タラの芽  柿の葉  明日葉  蓬

2014-05-21 10:43:28 | 日々の暮らし・思い出
昨夜のメニューは葉っぱの天ぷら いや、精進揚げというのか。

先月関東の友人が訪ねて来てくれた時に一緒に歩いたんだけど、

道の傍に生えてる木を見て、彼女が

これ、タラの芽じゃない?多分そうよ♪と言ったのだった。

よく通る道にそういうものがあったのだとは知らなかった。

彼女は「タラの芽の天ぷらとよく言うけど、

わたし、美味しいと思ったことはないの、

まだその味をわからないんだと思うわ・・」と言っていた。

私もまったく同感だった。


この前の人生の楽園というテレビ番組で、

10センチくらいのタラの芽で天ぷらをしていたのを見た。

このくらいの大きさの方が美味しいとか言っていたのを聞いて、

そうか!じゃ、やってみようと思ったのだった。

小さい芽だったから美味しくなかったのかもしれない、なんて

ひとり合点していそいそと摘みに行った。


ここら辺の人は自生の明日葉もタラの芽もフキノトウも食べる習慣はないようだ。

タラの芽も採った形跡は全然ないみたい。

タラの芽だけ揚げるのも寂しいから、浜の明日葉と畑の柿の葉と

よもぎも揚げてみた。

よもぎを揚げたのは初めてだけど、

フキノトウの天ぷらと同じくらい美味しかった!

香りもちゃんと残って、何とも言えず美味しかった。

肝心のタラの芽ももちろん不味くはなかったけど、

あ~そうですか、という感じ。

やっぱりタラの芽の味も香りもわからない私であった。

これをとびきりの美味さだなんて思う人って居るのかなぁ、なんてことも思った。




とらわれていた

2014-05-20 14:42:08 | 実例体験観察
さっきそう思って携帯を手にとり、打とうとしたら、

その画面に普段にはない色が着いていて、それを消そうとしてしまった・・のだった。

・・・で、それをやっているうちに・・・・

メモろうと思ったことがなんだったのか忘れてしまった・・・・

さっき書いたコレ。

メモろうと思って携帯を手に取ったのだけど、

削除かなんかしてるうちに時間が過ぎ・・


メモするには携帯でなくてもそこらへんの紙でよかったわけだ。

冷蔵庫には書くスペースのあるホワイトボードが貼ってあるし、

居間のテーブルには今朝のチラシがまだあって字を書けるスペースくらいあった。

新聞の余白の欄にだって書けた。

テーブルに夫が使っていたボールペンは転がっていた。


「メモするのは携帯のメモ欄」

それが固定的になっていた。

(したいこと) が (そうするもの)に負けちゃった。


自覚のなさ

2014-05-20 14:01:46 | ひとの幸福
あ、これ、どういうことなんだろう???が浮かび、

考えたくなって、でもそれをすぐ忘れてしまうだろうから、

携帯のメモ欄にすぐメモるようにしてる。

さっきそう思って携帯を手にとり、打とうとしたら、

その画面に普段にはない色が着いていて、それを消そうとしてしまった・・のだった。

・・・で、それをやっているうちに・・・・

メモろうと思ったことがなんだったのか忘れてしまった。

あぁ、思い出せない。考えたい ってなったことなのに・・

消えてしまった・・・・

このことで思い出した。

小泉八雲の怪談だったか、物語にこんなふうなのがあった。

うろ覚えなんだけど、・・・・

人を恨み、死んだら化けて出てやると言う罪人がいて、

死ぬ瞬間に思っていることは実現すると当時思われていたらしく、

刑の執行人は、思ったことが強いと実現するなら、

そこの石を噛んでやる!と思ったら噛めるのかとかなんとか??言う・・

すると、その罪人はすぐに、そうしよう、となってその石を強く噛む。

ここぞとばかり刑の執行人は、そのとき刑を執行してしまう。

その罪人の死ぬ瞬間の思いは「石を強く噛むぞ」で、

「化けて出てやる」という思いではなかった・・というような内容。

全くのうろ覚えで正確じゃないのはもちろんなんだけど、

全体的な筋はそんなだったかな・・?


罪人は刑の執行人からその思いをはぐらかされてしまった。

正確に言えば、その時、執行人の言うことを聞いて、

罪人はそうしよう、と思ってしまったのだ。

こんなふうに思いはすぐに飛んでしまうことがある。

ちょっとした人からの声掛けにすぐ反応して、他の何かをやろうとしたり、

上に書いた私の例みたいに、したいことを実現する為に、

何かをしようとしてるのに、目の前に起こった事態に対応しようと、

すぐなってしまい、

それにのこのこ着いていってしまう、ような感じになる。

刻々と変わっていく意識を見張らないと、やりたいことがなんだったのかわからなくなってしまう。

目前に現れた現象に振り回されて目的を見失ってしまう。


人間は一日に6万個の考え・思いが浮かぶというのを読んだことがある。

へぇ、そんなに!・と思ったけど、そう馬鹿げた数字でもないと思う。

瞬間瞬間浮かぶ思いの中で雑草のような思いは忘れていいのだけど、

(~したい)という今ここという時空での意志は自覚していたいもんだ。


忘れてしまうようなことは結局自分にとってそれほどのことじゃない・・というようなことも聞く。

それもそうかな、と思うけど、

認知症が進むと自分の夫や子供のことまでわからなくなってしまうのは、

自分にとってそれほどのことじゃないから、ではないと思う。

う~ん・・でも、その頃のその人にとって夫や子供のことも雑草のようなものになっている、ということなのかなぁ。


この頃、昨日何をしたのかなんてことを忘れることが多くて、

いよいよ呆けに突入か・・・なんて思ったりもしたけど、

今という時に何をしたくてこうしているのか(行為の目的)、

それに自覚があれば、過去である昨日のことを忘れるのは・・ま、いいか・・・・・

・・こう書いてみて、

ま、いいか、が言えるのは行為の目的に自覚があれば・・の話で、

行為自体は常に目的があるものなので、

ときに目的に自覚のない状態がある私は・・・ま、これからやな。










抑止力と積極的平和主義

2014-05-18 12:54:10 | ひとの幸福
安倍首相がさかんに積極的平和主義という言葉を言っている。

積極的と聞くとなんだか良さそうに思ってしまいがちだけど、

どうなんだろう・・・・

抑えて止める・・・こういうやり方では

抑えられた方のエネルギーは余計に増大する。

当座はそれでおさまるかもしれないけど、後々の火種を作る。

日本人の平和と安全のためとか、国民の幸福を守るとかも

盛んに言ってくれていた。

日本人さえ幸福ならいい、その時だけ幸福ならいい・・

まさかそんなふうには思っていないと思うけど、

日本人の幸福と他の国の人の幸福はセットでなるものだし、

その当座だけ平和ならいいというものでもない。

日本の憲法は恒久平和を謳っている。

問題解決のために武力は用いないと宣誓している。

恒久平和というその四文字だけ、それが

どのようにしてなるものかを真面目に考えることが要るのかなと思う。


花粉症の抑止力である薬(ステロイド系)を

ある程度の副作用を承知で、その時は使っているという自分の事から考えると・・・

・・・

私の身体全体を世界と考えると鼻の症状を治めるために、

抑止力(ステロイド剤)を使うと、

身体のどこか(世界のどこか)の働きが狂う、正常ではなくなる・・・

それでも不自然ではあるけれど鼻はある程度よくなってその日は通常に動ける。

けれども又、抑止力(ステロイド剤)を使っている間は

身体全体は正常健康にはならない・・・

抑止力(ステロイド剤)を様子を見ながら使いながら、

根本的治癒・根本的解決の方法を見出せるように・・・・





本 庭 畑 赤毛のアン

2014-05-17 12:32:40 | 日々の暮らし・思い出
今図書館で借りてる本「幸せは弱さにある」曽野綾子さんの。

「神とゴッドはどう違うか」鹿嶋春平太さんという人の。

どちらもパッと見て借りたんだけど、あまり面白くない。

最近選んだ本はほとんどあまり面白くない。

今の自分に適期じゃないんだろうな・・という感じはする。

そういうのを読むより庭に出て鉢植えの植え替えをしたり、

畑に行く方をしてしまう。

どんなことも受身的行動より能動的行動の方が面白く感じるものだと思う。

本を読むということが受身的にしか過ぎないときは面白くない。

読むことで頭が生き生きと動き出すときと、

そうではないときとがある。


朝のNHK連ドラで「花子とアン」だっけ?やってる。

赤毛のアンの訳者の村岡花子をモデルにしたドラマだ。

「赤毛のアン」は私にとって初めての読書といえるものだったんじゃないかなぁ。

それまでも何かの本は読んだことがあったと思うけど、

「赤毛のアン」は別格だった。

アンはいわゆる優等生じゃなかったから惹きこまれた。

いま、ドラマを見ていて、今の自分がそれをどう読むのか・・と思う。

どんなふうに感じるのか・・・

借りてる本が面白くないから「赤毛のアン」をまた読んでみようかな・・


隣の畑のDさんが・・・

2014-05-16 13:39:19 | 日々の暮らし・思い出
昨日テーブルについた夫が言った。

「昨日、Dさんが死んだんだってよ」

えええええっ!!!!!ってなった私。

米粉パン事件の時より、驚きは大きかった。

だって一昨日だか畑で「お先にぃ♪」って声かけたら、

「はーい さよなら」と返してくれた人なんだよ!

朝起きて来ないので見に行ったら既に息をしてなかったと

今日聞いた。

まだ70少しくらいだったと思う。

心臓の手術をしていてペースメーカーを入れていたらしい。

昨日初めて知った。

義父もペースメーカーを入れているから、

そういう亡くなり方を義父もするんだろうか???が浮かんだ。

いや、そんなことはわからない・・

さっき畑に行った。Dさんの畑を見た。

来月Dさんが収穫するはずのジャガイモの葉っぱが青々と茂っている。

かぼちゃの苗が五つくらい並んでいる。

種を取るつもりだったのだろうか、ネギ坊主が堂々と立っている。

紫玉ねぎが収穫を待っている。

来年とれる夏みかんの花がたくさん咲いている。

他にもいろいろが・・・

それを見てたら涙が出て来た。

今もこうしていると泣けてくる。

家も近くじゃないし、特別親しくしてたわけじゃないんだけど、

畑が隣同士だから、二人の会話はいつも作物の話題。

夏みかんの収穫の仕方も教わった。

Dさんはいつも普通の音量で独り言を言いながら作業していた。

作物に話しかけていたのか、なにを言ってるのかはわからなかったけど、

いつも一人でお喋りしていた。

去年長いこと畑に来なかったのは入院してたからだと後で聞いたことがあった。

その間、畑は荒れ放題だった。

Dさんが帰ってきて畑がみるみる生き生きしてきたときは嬉しかったものだ。

Dさんの配偶者さんは畑仕事に興味がないのかと思う・・・

またあんなふうになってしまうのだろうか・・・

Dさんがもうこの世に居ないということを

横を通るたびに思いそう。

長い年月

2014-05-14 14:16:28 | テレビを見て
アルツハイマーで脳がかなり委縮してる状態になるには

15年から20年くらいはかかっているという。

あぁ、やはりそうなのだなぁと思った。

転んだことがきっかけで出血した血が脳を圧迫し続けて(硬膜下血症)

二か月後くらいに認知症状が出たなんていう義父のとは違う。

認知症になる要因として糖尿病・運動不足・喫煙・

中年期肥満・うつ病・高血圧なんかがあると番組で言っていた。

このどれをとっても一朝一夕になれるもんじゃない。

今日運動不足で明日脳が委縮するということじゃない。

ちょっと鬱っぽい気分になったから危ないということでもない。

みんな蓄積だ。


今の自分の身体、今の家庭、今の自分を取り巻く世界、

今の日本、今の世界、良いものも悪いものも何でも全部、

それまでのことの結晶と言える。

病は気からということも思う。それも長い年月の。





何を忘れるのか?

2014-05-14 13:33:37 | テレビを見て
昨日認知症特集のテレビ番組を見た。

その中でも言っていたけど、昨日何を食べたのか忘れるのは

単なる物忘れで、病気ではない。

食べたことを忘れるのが認知症という病気。

「物忘れ」とはよく言ったものだと思う。

何を食べたかという「物」は忘れるけど、

食べた事というのは忘れない。

何かを取りに行って何を取りに来たのか忘れるなんてことはよくある。

何かを取りに行こうと思ったけど、その「何か」は物だから忘れるけど、

(取りに行こうと思った)という(思い)は忘れてないわけだ。

昨日の夕飯に何を食べたのかはその時に思った(思い)を覚えていれば容易く思い出せるけれど、

料理が大好きというわけでも大嫌いというわけでもない私が作るものだし、

うちみたいに変わり映えのしないメニューばかりだと関心もなく覚えないということもあると思う。

似たような材料で似たようなメニューだと忘れやすいかなと思う。

義父の希望でほとんど毎日刺身にしてるし、

野菜は買わないでうちのでやろうと思っているから、

毎日キャベツ、玉ねぎ、スナックエンドウ、菜花、きぬさやばかり。

こういうんじゃなくて変わったものを食べたら忘れない気がする。

「超美味しい!」とか「なんじゃこれは???」なんて思ったら、

その(思い)は忘れにくいんじゃないかな。

ほとんど変わり映えのしない毎日は認知症になりやすいのかもしれない。

そういえば、昨日の番組でも茂木健一郎さんが

ときめくことが認知症になりにくいとか言っていた。

短期記憶をつかさどる海馬というところで神経細胞が破壊されると、

海馬は委縮するのだという。

ときめくと脳の中でドーパミンやエンドルフィンがたくさん出て

神経細胞が増えるので海馬は委縮しないとか言っていた。

そうだ、覚えている記憶というのは喜怒哀楽を伴っているものだ、というのも言っていた。

記憶というのは映像と共に過去の(思い)が今の自分の意識に浮かび上がってくることなので、

やっぱり(こう思った)ということを意識的に自覚することが

認知症になりにくいと言えるんじゃないか。

あまり喜怒哀楽を伴わない行為である、畑で剪定ばさみを作業の途中で置くことも、

置いた後で「はさみをナンタラへ置いた」とわざと意識的に思って

声に出して言うと忘れないというのも予防法の一つかもしれぬ。

認知症は自分のしたことを忘れてしまうのだから。

意識を見張ること・したこと、していることを自覚するというのは

何を描いてそうしてるのかということに当然つながることだし、

自分が認知症になるならないにとどまるもんじゃないと思うから、

常に自分の意識を見失わないようにしたいものだ。

米粉パン焼いた・・・つもり

2014-05-14 09:41:56 | 日々の暮らし・思い出
昨日、米粉パンを焼いた・・・つもりだった・・・

が、ホームベーカリーを開けた途端、えぇーー!!ーーーーーーっ!!!

そこに在った物は小さなみっともない姿の薄茶色の塊であった・・・

その瞬間意識がさっきという過去を思い出そうとくるくる動くのがわかった。

そして・・あっ!! イーストを入れてなかったぁ~~~~~!!!!!!

あぁ、なんという悔恨。あぁあああああぁ・・・

イーストを入れる事を忘れた。これはどういうことか?

何故こういうことが起こったのか、思い返すと、

いろんな都合があって、焼くことを急いでいる気持ちがあったのだった。

いろんな都合の中で何か一つが無かったら、急がなかったかもしれない・・・

こういう場合焦る気持ちが出てくるんだなぁ・・・

急いては事をし損じる・・その通りであった。

前は水を入れ忘れたことがあった。今回はイーストだ。

次回は砂糖か、塩か、はたまた粉か・・・・・


「零位に立つ」

2014-05-12 11:44:26 | ひとの幸福
「零位に立つ」という言葉は山岸さんが云ったのだろうか。

そこらへん、よくは知らないんだけど、この言葉と、

「いつでもどこでも誰とでも仲良し」という言葉と、

「自他一体」という言葉と、

禅なんかで言うところの「無我の境地」という言葉と・・・・

みな同じ内容なのだとこの頃思う。

どれも或る心の状態・境地を云っているのかと思う。

「いつでもどこでも誰とでも仲良し」なんていう言葉は

その境地の結果としての行為や行動も表しているけれども。


境地は状態だからひとりの人のなかでその状態が変わることもあるんだと思う。

24時間そういう状態の人も広いこの地球に居るんだろうなぁ。

音読

2014-05-11 16:23:46 | ひとの幸福
明治の頃までだったか、江戸時代までだったか、

日本では読むといえば、

黙読ではなく音読が主流だったということを最近聞いたような気がする。

いやだね~ みんなうろ覚えだ。

昔の日本は音読が主だった、ということだけ覚えていて、

いつの時代の事だったか、それは聞いたのか、読んだのか、

とかの他の情報がはっきりしてない。

これは音読が主だったということ以外にはそれほど関心がなかった、ということなんだろか??

きっとそうだ、ま、今はそういうことにしよう。

えーっと音読。昨日の新幹線の安全確認作業でも声を出して確認というのがあって、

それは鉄道ができた明治の頃からやっている、ということだった。

何故それを続けているかというと効果が感じられるということだと思う。

効果がないかもしれないと思われるような事はしないだろう。

本を読む時に音読するのは声に出すことで、

その声が発した自分にもう一度帰ってくるからじゃないか・・・

出すのと入れるのとその両方が出来る。

言って確認、聞いて確認。

こうして文章をパソコンで書いていて、

書き(出す)ながら読んでる(入れる)のと一緒だなと思う。




過去を忘れる 未来を忘れる 

2014-05-11 15:56:38 | ひとの幸福
忘れるというのは行為したことを忘れるというような、

過去に為したことを忘れることと、

行為しようと思ったことを忘れるというような、

未来にしようと思ったことを忘れることとの二つがあると思うんだけど、

これの違いはどういうことなのか、ぱっとわからないもんだから考える。

ちょっと考えると、その違いは前者の場合、

過去にした(行為行動)を忘れるということで、

後者は未来にしようと思ったその(思い)を忘れるということなんだけど、

過去にしたことを“思い出す”というように、

それは行為じゃなくて、やっぱり(思い)の方の担当なので、

両方とも(思い)がみつからないということか・・・??

で、忘れるということがどういうふうな仕組みで起こるのか考えよう。

自分の実例で考える。何かをどこかに仕舞ったという記憶はあるんだけど、

何処に仕舞ったかを忘れるということがある。

それとか、そうしようと思ってもその場でしないこともあるから、

実際にそれを(仕舞ったか仕舞わなかったか)も覚えていないということもある。


どういうふうにこういうことが起こるのか・・・

(コレをここに仕舞おう)という思いをしたことは覚えている。

言い方を変えれば、(コレをここに仕舞おう)という顕在意識が在ったことは覚えている。

ところが(コレをここに仕舞った)という顕在意識に覚えがないのだ。

物を仕舞った時に顕在意識で「ここに仕舞ったと思った」なんて思いは

自然と出て来るものではないので、

物をそこに仕舞った(そう行為した)時に「ここに仕舞った」と、

自分の中で言語化することがないと、記憶に残らないということになるのか・・・

いや、若い時にはそんなこといちいちしてなくても覚えていられたのは、

もっと脳の別の部分が今より優れて活動していたのかもしれない。

その辺のことはわからない。

この年齢になった今、そういう行為を無意識的にやっていることで、

忘れる、ということになるのかもしれない。


それを防ぐには・・・

お喋りしながら車の運転ができるのは意識的になんにも思わずにその行為をしてるからで、

(今アクセルペダルを踏もうと思った)

(今踏んだ)なんて意識的に思わないでやってる。自然にそうしてる。

今の処、そのことはそれで問題はないからいいと思うけど、

発進とバックのギアの確認をこの頃は意識的にやっている。

これは新幹線の安全管理作業と一緒だ。

自分も他者も不幸にならないように。

事故にならないように。

意識して行為することが身に付けばいいと思ってる。

確認しながらやることが身に付けばいいと思ってる。

身に付くって体得だ。

こんなふうに「発進のギアを入れた」と意識的に思うことと同じように

「ここに仕舞った」と意識的に思うことが、

後々の事に有効に繋がることになるかなと思った。


最近の忘れる仕組みを踏まえて、

過去にした行為の中で忘れない方がいいことを、

忘れないで居るための方法が

意識的で在ること 意識を自覚していること といえるのかもしれない。

これをやると認知症にならずに済むだろうか・・・??

(気になったところを書き直したよ)


えーっともう一つ、未来についての、(明日コレをやろうと思った)事を忘れるのは

どういうふうに起こるのか・・・?