ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

嫌なこと。

2021-02-01 15:47:35 | 実例体験観察

何故、彼のはっきりと意思表示しないのが嫌なのか?

こうして、とかは彼は言わないことが多い。

自分のせいにされたくない、と彼が思っている、と、私が観てる。

言葉を使って意志を出すことをしないことが多い。

彼がそうしたら駄目か?

何故駄目か?

私が結論つけて、私の意志でやることになるからか?

それが嫌なのか?

私のせいになる、のが嫌なのか。

そう思ってたよ!

じゃじゃ~ん!!!

これだ、大きな間違い。

「だれそれのせい」これだ。

私がこう言ったから相手がこうした、のではないはずだ。

私の言葉を聞いたひとが、その人の意志でなにかの行動をした。

そういうことなんだ。

私が言ったから、でも、彼が言ったから、でもない。

それを聞いた人の行為は聞いた人による行為だ。

書いてよかった。

 

 

 


後味悪し!

2020-08-31 10:28:54 | 実例体験観察

あのブラウス凄く気に入ってたんだけど、

着られなくなって妹にあげたんだ・・・あげなければよかった・・・

着られたかもしれない・・いや・・・無理か・・・

・・・ふうなニュアンスのこと、娘が言った。

そうなんだぁ・・と言った自分だったけど、

又、そんなこと言ってる・・という冷ややかな反応をしていた自分だった。

そんな自分に満足してたらそれはそれでいいんだけど、

後味悪し。

「あぁ、そんなにそのブラウス気に入ってたんだね♪」

そんな言葉が口から自然に出てたら、後味悪いなんてことなかったろうなぁ・・・

 

他者のことは他者がやる、そんなふうに思っているのに、

いや、心底、思ってないのだ・・・

他者の言葉に、そんなこと言ってぇと判断し(否定し)偉そうにしてたよ。

相手のことを相手に委せられない、偉そうな自分だったよ。

次にこんな機会があったら、その時は・・・

希望を持って行こう♪


太極拳で・・

2020-08-27 15:41:24 | 実例体験観察

最近夫の友人とその又友人と夫とで

近くの公園に行き、週に一度、太極拳をしている。

その友人たちは指導員とか師範の免許を持っていて、

いわば私と夫は無料で個人レッスンしてもらっているようなもんだ。

ここのところ毎日真面目にDVDを見ながら練習しているものだから、

それをする前に比べ、いくらか動けるようになっていた。

二回目の練習の日、

「太極拳は周りの人と合わせてやるものだからね」と言われた。

それを聞いてハッとした私。

以前より出来るようになり、速度がその時の自分流になっていて、

自分の前で動いている人の動きより私の動きが

少しだけどゆっくりだったところがあったのだ。

昔、『良いのが良いのではなく、合うのが良いのです』という言葉を聞いた。

その意味がそのときわかった気がした。

私は自分が観ていたDVDの速度と同じくらいの速度でやっていて、

その速度が良い、正しい、みたいな、それほど偉そう感はなかったつもりだったけど、

あったのだ。深い所に・・・あったのだ。

それって、「我一人」の境地だったなぁ。

やっぱり恥ずかしいという気持ちになる。


出来なさを怒られることほど、全存在・・

2017-08-19 12:02:05 | 実例体験観察

「・・・出来なさを怒られることほど、

全存在を否定された気分になり委縮してしまうことは、なかなかない。

盗みとか苛めるとかで怒られるのは納得できるけど

無能さを許せないのは程度が低い・・・」

・・確か、これは小池龍之介さんの書いた本にあったものだと思う。

この文章を読んだときにメモしたもの。

書いた人も本の名もメモらなかったので曖昧だけど多分そう。

 

・・怒ったわけじゃない、と思っていた私のしたことは・・・・

 

娘の或ることの出来なさに納得が行かなかった・・・

そんな馬鹿な・・みたいなのがあった。

大概の人には、その、或ることというのは容易いことなので、

出来て当たり前、というような迷妄の強気が無意識のうちに私にあった・・・

あの時私の心に生じたものはあの文章が言ってることだ・・・と、

娘とのラインでのやりとりが終えた後にいろいろと思って反省したとき、

この小池さんの文章を思い出したんだった。

 

自分の行為を 程度が低い! と一喝された。

 


そのままでいい・・・2

2017-08-14 14:39:45 | 実例体験観察

もし、私の怒りに対し、7才がだってぇ!と怒ったら、

こんなふうな展開になったろうか・・?

その時傍にいた娘も私に何にも言わなかった。

7才もわざとやったわけじゃないんだからそんなに怒らなくていいでしょ!と

娘が言ったら、こんなふうな展開になったろうか・・・?

多分そうならなかった・・・んじゃないだろうか・・・

・・・以上昨日の。

 

ここまで頭が動いて、それきり止まってしまったので、

今日また頭を動かしたい・・・

どうして私はそうなったのか・・・それをじっくり考えたい・・・

今回のは私の怒りをそのまま娘らが受け止めてくれたから、

私の怒りはふぅう~っと宙に浮いてしまったようになった・・・

なんだかアホなことしちまったなぁ‥という感じになった。

そうか、私の怒りという言動に周りが注目しなかったので

波動関数の収縮が発生しなかった・・・

 

怒った私への反発がなかったからだなぁ・・・

いや、待てよ、実際娘らは私への反発が発生したのかもしれないけど、

私のいつにない剣幕に押し黙っただけなのかもしれない・・・

その時の私は彼らに視線を向けなかった・・・

あったとしてもそれを私が知らなかったから・・・

いや、あったかなかったかなんて、ひとのことは私にはわからない・・・はず・・

 

そうか・・・・・無いと私が決めればいいことなのか・・・

それは私という世界になかったのだ・・・

世界は私なのだから。

こういうことなんだろうか・・・

なんだか、書いていてこんなふうになっちまった。


そのままでいい・・・そのままがいい・・・?

2017-08-13 13:06:54 | 実例体験観察

そのままでいい・・そのままがいい・・・

確かそんな言葉が画面に流れ、ダイヤモンドを妻に贈るテレビコマーシャルがあった。

もう何年も前だ。上手いこと言うなぁと思ったけど、

そのままでいい、はわかるけど、そのままがいい、とはどうしても言えないよなぁ・・・

・・とも思った。

変わりたいところ、変わってほしいところがある。

すぐにイライラする自分。ついつい頑張ってしまう自分。

出来もしないのに自分をコントロールしようとする自分。

夫と二人で居た時よりそういう自分がよく見える。

イライラしたり怒りが湧いた自分をそのまま出さない方がいい状況もあることは確か。

出さないことを今は選択してると自覚があればいいんじゃないかと思うけれど、

そのままを出さない方がいいと決めてるそのことが間違っていることもある。

共に暮らす家族は互いがそのまんまでいいというベースがなければ

やっていけないなぁと思う。

 

そのままの自分を出さないでいると、そのそのままの自分状態が変わりなく続く。

なんかコレ前に書いたような気もする。

 

今住んで居るこの賃貸マンションは古いせいか、安っぽい造りのせいか、

私の部屋の入口ドアはかなり意識的にゆっくり閉めれば大きな音はしないけど、

それほど強く閉めていないのに、バッタ~ン!!とすごい音がする。

孫が出入りする時は無意識的にやるからだろう・・すごい音がする。

ドア周辺が良くないせいであって、孫が悪いわけじゃないと頭では思っていた。

けど、その音にストレスは感じていたのでその度にゆっくり閉めてねと言っていた。

昨日、あまりに頻繁にそのドアを7才が開け閉めし、その度にすごい音。

その時、「何度言ったらわかるのっ!!!」と私。

そう言った後、4才が「怒ってる?」と小さな声で。

「怒ってる!」と私。

7才は何も言わなかった。

怒りをそのまま出したら、

私は何を思い、何をしだしたか・・・

ドアが閉まる凹の穴がある部分に幅4センチくらいのフエルトを張り、

それを固定するため、

部屋の内側と外側の木の部分にそのフエルトを画鋲で止めた。

賃貸だから元に戻すことを考えないといけないからね。

画鋲ならいいだろうと。

そうしてドアを乱暴に閉めてみた。

効果あり!大きな音は立たなかった。

感じた怒りをしまわずにそのまま出したことで、

7才はわざと大きな音を立てたわけじゃないと又格別に思って反省したし、

このマンションは古いんだからこれは直せないと

最初からあきらめていた自分だったと気づいたんだった。

 

もし、私の怒りに対し、7才がだってぇ!と怒ったら、

こんなふうな展開になったろうか・・?

その時傍にいた娘も私に何にも言わなかった。

7才もわざとやったわけじゃないんだからそんなに怒らなくていいでしょ!と

娘が言ったら、こんなふうな展開になったろうか・・・?

多分そうならなかった・・・んじゃないだろうか・・・


心が傷つくこと

2017-08-01 09:46:22 | 実例体験観察

ここに引用(一部表現は変えたのもあるけど)するのは6年前にこのブログに書いたもの。

私が夫の前で屁をして、それに夫が「失礼だな」と言った事件?

のことで自分を観察したときのもの。

以下・・・なんで傷ついたのか?と観察すると、

「自然に屁をしたらいけない。

在りのままの私でいたらいけない。」

こういうものが自分にあったのだと思う。

「失礼だな」の言葉に傷ついたのではなく、

その言葉を聞いて、

「それは、在りのままの私でいちゃいけないということなんだな」と

他の誰でもない自分が無意識のうちにそう解釈し、受け取ったのだった。

でなければ、傷つくということには成り得ない。

「失礼だな」を聞いて

「へー、そんなふうに思うのか、この人は」と受け取る場合もあれば、

「何がどう失礼なんだろう?どんな感じか、聴いてみよう」

と受け取る場合もあるかもしれない。

選択肢はたくさんある。


それにしても、

在りのままでいてはいけない と思うことくらい辛いことはないと思う。

この、今の、この、私しか、ここにいないのに、

そういう私じゃいけないんだったら、どうしたらいいの?

・・っていう感じに成るのは当たり前だ。


本当に、自縄自縛。

自分以外の誰が自分の心を傷つけられるだろう。

身体は他者によって傷つくことも可能だけど、

自分の心を傷つけることの出来るのは自分以外にない。

そう思っているので、

傷ついちゃった時は、しらべることにしている。

でも自分でも人でも、傷ついてしまうということを否定はしてない。

否定など出来ようも無い。

だって、そうなっちゃうんだから。

なってるもの は なんだって 在るもの。

存在は 否定なんかしようがない。だって 在る。

在るものに 在るな なんて思うことは ナンセンス。

・・・以上。

 

一昨日かな、こころが傷ついたことがあった。

何故心が傷ついたのか??

心の傷は怒りにもなる。

「なんでこんな目に遭わなきゃならないの!?」・・これ。

そして次はこれ・・・「わたし何も悪いことしてないのに!」

その次はこれ・・・「いろいろしてやってる人にこういう態度はないでしょう!」

これがあった・・・・

いま、こうして書いていてわかった。

いろいろしてやってる人、と自分のことをそう観ているのだな・・

いろいろとしてはいたのは事実だけど、

それに、やってやってるという恩着せがましい思いがくっ付いている。

何故それが付くのかといえば、

その時、そこに居ることが半ば嫌々だったからだ。

今この瞬間、この部屋に居たくない、という本音がありながら、

それを無視して(意識的でなく)おざなりにやっていた自分だった。

その時の気持ちを自分で尊重してやらず、

無理して頑張っていたからだ。

自分で無理を押し通すと相手にも無理を要求するようになる。

私がこんなに無理してるんだから、あんただってしてよって。

恐いですねぇ。

 

やっぱり自分の心を傷つけられるのは自分しかいない。

人の言動はきっかけに過ぎない。

傷ついた、、じゃない、傷つけた自分の心を検査してよかった。


気の重さについて

2016-11-23 10:45:20 | 実例体験観察
小学一年生の孫がよく遊びに来る。

この子は芝居ごっこが好きで、それをおうちごっこと孫は言う。

まぁ、ままごとのようなものだ。

その孫と私が姉妹役になって二人で即興の芝居をする。

その役になりきって二人でストーリーを作りながら。

それが終わると工作だ。段ボールやら牛乳パックやラップの芯、

ペットボトルなんかを遊び用にとっておいてるんだけど、

それで彼女はスマホ風とかテレビ風とか、望遠鏡風とか、

わけのわからないものを作ったりする。

一人で集中してやっている。この時は楽。

それを使って邸宅を作ったりもする。

りかちゃん人形の家のようなものだ。

牛乳パックで家を作り、窓や玄関を作り、小さなベッドやらトイレやら流し台やらテーブルやら作って、

人間役も作って、出来るとそれでままごと遊びだ。

私もままごと遊びが好きだった。

いろんな役をやる、なりきる、というのが面白かったんだろうなぁと思う。

その役の名前、年齢、職業、家族、好み、何でもかんでも勝手に考えてつくる、それが面白いのかなぁ・・

隠れ家ごっこもよくする。

これは身体をちょこちょこ動かさなくちゃならないから、

長くやってるとハード。

高反発の3つ折のマットレスを横に立てて上にタオルケットを掛け、暗くし、そこに隠れる。

私も外でだけど隠れ家遊びもよくやったものだ。


こんなふうに書いてると楽しいだけのような感じを受けるかもしれないけど、

休みなしに今度こうしようあ~しよう一緒に遊ぼうの連続で、

疲れて来る。

そんな遊び自体は私好みで苦痛ではないはずなんだけど・・・

こんなことが重なって、その孫から遊びに行ってもいい?という声がかかると、

気が重くなってきた。


何故気が重くなるか、自分でわからなかった。

そんなことも自分でわからないのか!?今になるとそう思うんだけどね。


ノーと言わずに孫に合わせすぎるんじゃないか・・・

いや、言ってないことない・・・ちゃんと言ってる・・・

けど、ノーという時、(もう、この子イヤだぁ・・しつこい・・)

孫に対してこういう否定的な思いが出て来ていたなぁ・・・・

気が重いということ自体をなにかいけないかのように暗く捉えてる???!!!!!

あっ、そうだったんだ、という深い納得。

そこから自分を観てみた・・

気が重くなるのも当たり前だ、と気付いた。

あんなにエネルギッシュな子供と長時間対等に付き合うのは66才の私にはきついという、

今の私の心身にとって当たり前のことを知らぬ間に否定してる自分があったんだと思う。

一緒に遊んでいるうちに身体もきつくなってきて、

頭も疲れて来て、それを続けると思うと気が重くなるのは当たり前だという、

そういう在りのままの自分に気付いてなかった・・・

ここに来る前の十数年の暮らしで私の体力はかなり落ちたと思うしね。

こんなにハードなことする機会なんてなかったし。

こういうことで疲れてしまう新しい自分を知らなかった。


たった今、その孫から遊びに行ってもいいかという電話が入った。

咽喉も痛いし、遊ぶ気になれないので、

明るく、今日は遊べないと話せたよ。

しつこい子から又電話だ、というようなモワーッとするイヤな気分に襲われなかった。

何の憂いもなくことわれた。

そういう自分が嬉しいな。

在りのままの自分を否定してたから、

エネルギッシュな孫のことをしつこいだなんて否定的に見てたんだ。

いつも在りのままで居られる人から見たら、

こんなこと当たり前じゃん、といわれるようなことだね。うん。

二人ともご飯の支度がしたくならないときは

2016-10-12 14:18:37 | 実例体験観察
疲れたので、昼ごはんの支度してくれない?と彼に言った。

夫は「・・・・」

それを見て、夫も疲れているんだろう、と思った。

しばらく二人とも無言。

そのうち私が立って支度を始めた。

夫も傍に来て、何かし出した。

でも、雰囲気が重い。

こういうのイヤだなぁと思った。


何がおかしいのか??

最初、(黙ってないで何か思ってることあれば出してほしい)というのが浮かんだ。

出し合わないと・・・なんてね。

でも今の二人が出し合ったとしても互いの心が明るくなる見通しは無い・・・

すぐに、そう思った。

このやり方じゃ心が安心できないだろうな。

もわぁ~っとした心が変わる感じがしない。

やり方のなにかが間違ってる、というか、正常な感じじゃない・・・


振り返ると、最初の、「支度してほしい」が既に重かった・・・なぁ・・・

なんでだ??

(してほしい)の奥には(やってくれて当然)があった・・

だから重い重い。

振り返るとそれがよく観えて来る。


観えて来てから・・・

「二人ともがそれをする気(ごはんの支度とか)にならないとき、

どうしたらいいんだろうね??」・・・

これを出せたらいいんじゃないか・・共に考える、だ。

こんな問いかけを私はあまり出したことがない・・気がしてきた。

ちょっと愕然。

でも、疲れたから今日は外食しよう、なんて軽く言うことだってあった・・

それになるにも、まず、どうしようか?って軽く明るく言えるのがいい。

重くずあぁ~んという感じはイヤだ。

重くずあぁ~んとしてるのはちょっと深い所の私の、

「~してくれて当然」という思い込みのせい。

それは他人の意識じゃない私の意識だけれど、

私一人で構成したもんじゃないから、こうして書けるんだな、と思うんだ。

このように対処してよかったです。



あ~なったらイヤだなぁ・・2

2016-10-10 14:56:27 | 実例体験観察
さっき書いたみたいなイヤな気分とか腹立ちとかイライラ、不安、恐怖みんな・・・

自分が勝手にドラマを制作して、

そういうふうな気分不安定な人物を勝手に演じて、

疲れて身体に悪影響与えて、それをまた勝手にドラマにして・・・

つくづくそういう自分であります。

こう書いていても気分は悪くないのは不思議です。

いや、不思議じゃないか・・・

そういう自分をダメ視してないからかと思うよ。

あ~なったらイヤだ・・・

2016-10-10 14:46:50 | 実例体験観察
(明日の朝はもしかしてアレがあ~なって、コレがこ~なるかもしれない・・・)

昨日そう思った途端、イヤな気分になった。

その時点での、体調気分では、明日朝アレがあ~なるのはイヤだったんだ。

しばらくそのイヤな気分が続いて・・・


なんでこんなイヤな気分なんだ??と

やっとこさ自分を観ようと、なった。

・・・

「明日朝の体調や気分は今はわからない。

今(昨夜のこと)の体調や気分と同じわけがない・・・

わからないことを前提にイヤがってるなんておかしい」

そうだ!と気付いたら、瞬時にあのイヤな気分が消えていった。


その時のことはその時の自分におまかせしよう。

そのことの何という軽さよ。


所有意識と気分

2016-08-30 12:15:08 | 実例体験観察
昨日娘から電話があり、彼女はちょっと情緒不安定な感じだった。

でも話の中で大笑いしたり、小笑いしたりしながらいろいろ話し、

電話が終わる頃には気持ちが安定して来たようで、

最後は明るい感じで終わることが出来た。

夜になってその事をキッカケにして、

娘の前に居る自分について夫に話した。

夫に自分の気持ちを聞いてもらったという表現がぴったりかな。

話しているうち、可笑しくなってきた。


今までの、娘の話を聞いている時の自分の姿が見えた。

今までの自分の姿といっても二十数年の間のことだし、

その姿も程度はいろいろだったなぁと思うんだけど、

はっきり言って話を聴いてなかった自分だった。

彼女の言葉を耳では聞いてはいたけど、

彼女についての自分の思いで頭がいっぱいで見事に話を聴いてなかった。

見事にその時の彼女を聴いてない。


このブログに娘との間で生まれる自分の思いについて何度も書いてきた。

書くことで気付いたこともいっぱいあったけど、

話を聞いている時の自分の心が今回ほど鮮やかに見えたことはなかった。

そうしたらなんということだろう・・・

気分がとても愉快になった。可笑しくてたまらなくなった。


娘にしてみたら本当に災難の続きだった。

何とお詫びをしていいかわからないくらいひどいことをして来た。

こういうふうに全面的に心から思うのは多分初めてだと思う。


今まで娘に対してのひどかった自分に気付いたとき、

なんて酷かったんだろうと泣けたこともあった。

それが今回泣けるどころがおかしくて笑ってしまった。

ごめん!娘よ!笑ってしまって。



酷かった自分を見つけて泣けてしまった自分と、

笑ってしまった昨日の自分とで何が違うんだろう???

と思った。

泣いてしまったときの意識の奥深くの心が

それを自分一人の問題としている所有状態に在った、といえるんじゃないかと思う。

だから責任を感じて自分で自分を責める。

責められた自分は泣く。


娘の心や思いを聴こうとする心の姿勢などない状態の自分だったと知った、その事は一緒なのに、

泣けるのと笑うのと正反対の反応がある、その元はコレだ、と思ったよ。

何でも自分に都合のいいように考える癖のある、楽観的な私なので

未熟な自分の発見に笑えたことは大変結構なことじゃないか・・と思ったのでした。


明るいのが本当。


これからだってまだまだいろんなことがあると思うけれど、

楽しみにやって行くよ。









旧友と会って・・

2016-03-09 16:52:03 | 実例体験観察
20年ほど前近くに居た友人夫婦と昨日会った。

ひょんな事から割と近くに住んでいることが分かったんだ。

人生はひょんひょんだなぁ・・・でも、

自分一人のこととして考えるとひょんな事だけど、

すべて出来事は起こるべくして起こったことだ。

友人二人はちっとも変ってない(風貌が)と思ったよ。

いい時間を過ごして来たのかなと思った。

本当に懐かしく、会うなり肩をたたき合い、手を握り合った。

山道を4人で歩いたり、食事したりしながら、

いろんなこと話した。


彼女の昔から凄いなぁと思うところもそのままだった。

私、料理が苦手だから・・云々などと言うと、

そんなことないでしょ・・なんていう返事が返って来ることが最近ほとんどだけど、

彼女の場合、ふんふん、そうか、それで・・みたいな聴き方をしてくれる。

私が発した言葉をそのまま受け取ってくれる、そういう感じ。

すると、「苦手だから」という自分の言葉が宙に浮く・・感じになる。

そして、なんだか恥ずかしくなる。

以前傍に居た時もそんなことがあって、

自分を観るいい機会になったことを憶えてる。


何故恥ずかしく思ったんだろう???

自分が「苦手だから」と発したのはどういうところから??

何故その言葉を発したのか??

それは謙遜の言葉だったのか?

いや、全く違う。


炊事調理を長いことやっていながら、料理をおいしく作れない事の言い訳にしてる・・・

多くの経験があるのに、上手じゃないのはあまりいいことじゃない、という判断、

長くしてれば上手で当たり前というキメを、

他の誰でもない自分が持ってるから、

自分で自分に言い訳をしたくなる・・・んだ。

元々苦手なのだから、下手でもしょうがないんだよ、って。


誰からも料理が上手に出来ないって責められたことないのにね。

自分一人の一人芝居だねぇ。

そんなカラクリがあったから、あの恥ずかしさが出て来たんじゃないかな。

むむむむ・・・・気になる気になる・・・・

2015-11-02 08:51:13 | 実例体験観察
家から出て、人に会う機会が以前より多い最近。

腰痛やら身体硬化症?やら認知症予備群?症状とかあるので、

自治体が設けてくれている太極拳と自力整体の教室に参加するようになったり、

自治体の秋の行事にも出かけている。

昨日も久し振りに以前働いていた職場の人に出会った。

むむむむ・・・と気になる気になる・・・

のはその人のことじゃなく、

その時の自分の心の状態。

後になって、その時の自分の心が観えてくる。

不自然な心が観える。

あぁ、そんな自分だったなぁ・・・とちょっと暗い気分になったんよ。

でも、さっき池田晶子さんと大峯顕さんという人の対談集を読んでいたら、

興味深い文章があって、

そうだな、そうだな、と思った。

(どういう文章だったか、またの機会に書くね)

そうしたらその後で、

こうして観える個である自分の心じゃなくて、

もっとずっと大きな心、それも自分なんだけど、それが確実にあるとわかるから、

こういう個である自分が気になるのかなと思った。

上手く表現できてないけど、

そんなふうに思えたら、なんだかすごく楽になったよ。

不思議だねぇ、心って。