ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

いろいろな現実

2013-07-31 09:11:43 | 本を読んで
やはり養老先生の「かけがえのないもの」という本の、

「かけがえのない身体」という5章の中の言葉・・

「・・・脳がもっている大きな作用で私が非常に重要だと思っているのが、

『現実とは何かを決めてしまう性質』です。

(平たく言うと、このことはこういうことであると捉えてしまう性質、かと)

動物もまったく同じです。動物もまた世界をそれなりに把握していて、

自分が把握している世界こそ現実だと思っています。

人間もそうで、これが現実だということは、

人間自身が決めているのです。

その場合の現実とは何かといえば、

人間が何かをするときに影響を与えてくるものすべてを言います。」

・・以上引用。

枯れ尾花を幽霊と思って、逃げて転んで足を折れば、

その人にとって幽霊は現実。

そういう意味の現実というのは動物にも存在していてとても重要なことで、

何故それが重要なのかというと、

そのことが「現実は人によって違う」ことを意味するから・・と彼は言っている。

「現実とは、何かを“決めてしまう”性質」と彼は言っている。

“決めてしまう”・・というこの表現。

それは“決めようとして”なくても、

“決めてしまう”という無意識的な作用を言っているのかと思う。


この章の最後の「自然の身体を取り戻す」という項に、

人によって現実が違うわけだから、そのままではどうしても争いになる。

極端な場合は戦争になる。けれど、

私たちがひとによって現実は違うことをはっきりと認め合うことが出来れば、

少なくともそれで殺し合いをする必要はなくなる。

こんなふうに彼は言っている。

全くその通りと思う。


私がここで毎日同じようなことばかり書いてるけど、そのことと、

彼のこの発言は違う表現だけど、同じと思う。

いろんな、そのように在る姿を、在ると認め合うことが出来たら、

少なくともそれで殺し合いをする必要はなくなる。

そしてこの後に続く彼のコレ・・

「しかし、、多くの人が正義なり真理なりという、

いわば抽象的なものに対してこの現実感を付与したままであれば、

なかなか解決は出来ません。」

・・これが『自分の考えが正しい』と突っ張るもの。

コレは無意識的に作用するから難しいのかと思うけど、

そう在る自分に気付くこと以外に解決方法はありません、ということなんだろうなぁ。

自分が誰かの言動に不機嫌、不愉快な気分になったときは、

必ずといっていいけど、これがある。









言い訳みたいになったわけ

2013-07-31 07:11:27 | 実例体験観察
「うちの妻はお風呂が短くて10分もしないうちに出てくる」

の言葉を聞いてすぐに、

「10分なんて短くないよ。うちの夫なんか3,4分で出てくるよ」と私。

(またこのように反応した自分だった。)

そうしたら、その人は「いや、ナンタラカンタラ・・」と

10分が短いと感じる言いわけのようなことをすぐに発したのだった。

(言い訳なんかをさせてしまった。)

それから半日も経ってからのシャワーを浴びているときに、

( )の中に書いたように、そんな自分だったことに気づいた。


その人はいつも1時間くらい風呂場にいるらしい。

だから、その人にとって10分は短い。

短いと感じている・・とその人は言ったのだろうに、

私は10分と3分では10分は短くない・・というそんな事を口走ったのだった。


「そんなの短くないよ」と私は彼の感想を否定してしまったので、

彼は否定されると言い訳したくなる、ということになったのだと思う。

彼が否定されたと自分の意識を捉えてはなかったかもしれないけど、

彼はそうなっていた、と思う。

本当に私は口走り女だと思ったよ。

「J」を忘れてる。

仲畑川柳欄

2013-07-30 10:35:06 | 新聞を読んで
毎朝の楽しみ、川柳欄。

思わず笑ってしまう、というのがいい。

川柳は客観視してないと書けないと前に書いた気がする。

それと、まなざしが皮肉っぽいのも多いけど、温かいのも多い。

それに何と言っても、物事を違う立場から捉え書いてるものが多い。

もしもし、それは一方的な見方じゃないですか・・って。

今日のこの句「無駄吠えと言うが犬にも事情あり」安堵の日さん作。

ホント、犬には犬の事情あり、だね~

「『お前には俺がついてる』からやばい」風の又やんさん作。

「ルアーとは魚から見れば詐欺である」別人28号さん作。

ハウスを重油で暖めて、植物に季節を勘違いさせるなんてのも詐欺かな。

それに、よくぞ別人28号なんて考え付いた。

「夫婦って必ず片っぽ現実家」摘んでご卵さん作。

この句は人と人の相互作用をよく表してるなぁと思う。

自然とバランスをとろうとしてしまう、のかと思う。

「痩せてから頻繁に乗る体重計」石井理江さん作。

うんうん、わかるわかる。

こう云う句が生まれるからにはそれ以前に、

太っているこんな自分がある。・・・

痩せたいと思っていながら、食べたいだけ食べてると、

体重計に乗るのが怖い。増えているだろうと思うんだけど・・

はっきりとそれを示されるとショックを受けそうなので、

乗らない、見ないことにする。

自分の重さを受け入れがたいとわかってる。

現実逃避って奴なんだ。でも、

そういう自分(自分じゃないかもしれないけど)を、

温かいまなざしで観てる感じがする。

そういう自分だからこそ、反対のこの句がある。

これも面白い。

「買おうかな言いそなチラシ抜いておく」はにわゆうさん作。

これを創ったのが、夫なのか妻なのか親なのか、わからないけど、

なんでもすぐに欲しがる夫だから、そっとチラシを抜いておく。

そんなに買って欲しくないけど、買うなとも言えない、

優しさを感じる句。

いろんな人が居ない

2013-07-29 16:49:31 | テレビを見て
刺繍をしながらテレビのワイドショーみたいなのを見ていたら、

また、あの殺人事件についてのをやっていた。

何年か前に彼の母親が死んだ時に、

葬式を家族だけで行ない、そのやり方がその地域では常識的ではなく、

周囲の人はそれに対して反感を持ったよう。

それが一つのキッカケでもあったよう。

都会に暮らしていた団塊世代の彼。

そこだけに住んでいる地域の彼より年配なひとたち。

そういう二通りの人しかいなかった。

母親の葬式はキッカケでその後、今回の出来事に繋がる、

いろんなキッカケがあったんだろうと思う。

始まったものは終わりが無いって、昨日書いた角田さんの小説のなか。

亡くなったひとたちのドラマは終わった。

彼とその地域で生きているひとたちのドラマはまだ続く。

そしてこういう報道を見聞きしてるひとたちにも、

無関係じゃない。





人為と自然

2013-07-29 16:36:48 | ひとの幸福
よく「自然と人為の調和」というようなことを云う。

これは山や川や海や人間以外の動物や植物なんかの自然物と、

人間が行なう行為、行動とが調和している状態のことを云ってるのかなと思う。

今、養老先生の「かけがえのないもの」という本を読んでいて、

『自分の事がわからない』という章に『意識と無意識』の項があり、

そこにこういう文章があった。

「・・・そういうふうに、我々自身には、

脳も含めて知っている部分と知らない部分がある。

意識は何をしているのかといえば、

自分の脳が何をしてるのかということを知っている。

その知っている部分を脳、

知らない部分というのを自然、と私は読んだのです。

これは意識と無意識と言い換えたほうがわかりやすいと思います。」


一番上に書いた自然と人為の調和というのもあるけど、

養老先生のこれを読んで、別の「自然と人為の調和」が浮かんだ。

自分の脳が何をしてるかを“知らない部分”が自然であり、無意識で、

自分の脳が何をしてるかを“知っている部分”とは脳であり、意識であると、

養老先生は言っている。

何故、私は「自然と人為の調和」という言葉が浮かんだのか・・・

そうなった自分の意識を観察してみる。

書いてみるね。


腹が立つのは意識的に腹を立てようとして立つわけじゃないし、

ケーキや饅頭を見てぱっと美味しそう!と思って食べたくなるのも、

梅干を見て口の中につばがたまってしまうのも、

無意識的に起こる。いわば、自然とそう“なってしまう”

それを私は「自然」と呼んでみる。「無意識」と呼んでみる。

こういう「自然」と人為を調和するとはどういうことか・・

ケーキの例で考える。

美味しそうなケーキを見たら、食べたくなる・・という自然に対して、

けれど、今は食べないという意志が働いて、

食べたいけど食べないという行為行動を選択することなんかは、

自然と人為の調和・・といえるんじゃないかと思ったんだ。

食べたくなって、よし食べようとその意志を自覚して食べるのも、

やはり自然と人為の調和かなと思う。

何にも考えずただ食べたくなったから時も場合も考えず食べるというのも、

もちろんあるし、それはそれでいいけど、

そういうのは自然と人為の調和と呼ばないな、と私。


腹が立っても、腹が立つのは自分の自然・無意識に

何かのプログラム・見方があるからだと、

自覚納得して、自分の自発的自由意志によって、

相手に攻撃を与えたりしない、という選択肢を選ぶのも、

自然と人為の調和といえる。

意識と無意識の調和と呼んでもいいな。

以上、本日の時点での私の解釈でありました。

えーーっえーー!・・とうんざり・・

2013-07-29 13:14:27 | 実例体験観察
昨日は朝起きてから、畑に行ったり、その後もなんだかんだとずーっと動いていた。

疲れのピークにある昼前、弟がもうここに着くというのを夫から聞いた。

それを聞いたとたん、「えーーっえー!もう来るの?」が出た。

弟と一緒の昼ごはんの支度をすぐにしなくちゃなんない、と意識がなったからだ。

可哀想なのは弟。

もう来たの、なんて思われて。

夫はうんざりした私を気遣って、昼飯を作るの一緒にやるから、と。

でも、「えーーっえー!」とうんざりを発したすぐ後に、

今のこういう疲れ状態のときに(すぐにやらなきゃ)って思っちゃった自分だったこと、

弟が一緒なら普段よりちょっとましなご飯にしなきゃ、

というのもあった自分だったこと、

そういうのがあって、こうなったんだなと気付いた。

なので、少し体を休めてから動こうと思って座っていたら、

弟のかばんから次から次へと食べ物が登場。

結局、弟が持って来てくれたいろいろなすぐ食べられる物だけで昼ごはんになった。

まぁ、それで終わったんだけど、

もし食べ物がかばんから登場しなくても、

弟が居るからってご馳走にしなきゃならないということないし、

と思えたし、

すぐにやらなくったっていいんだし、と思えたから、

子の経験が出来てよかったなぁと思った。






ひとはたくさん居る

2013-07-29 11:07:52 | テレビを見て
殺人事件の報道で思ったけど、

十何人かの集落、というのはきついだろうな。

その他大勢というあまり関係ない人が居る都会なら、

こういう事件は起きにくいのかと思う。

謂わば、都会は関心が向く対象が多いから、気が紛れたり出来る環境といえる。

十何人かの集落には多分小さな子供や若い人はいない。

そこは生まれてからずっとそこに暮らしていた人も多いかもしれない。


喫茶店や映画館や食堂やデパートや大型スーパーや、

本屋さんや様々な店のある街にはいろんな洋服、いろんな格好で

歩くいろんな人たちがいっぱい居る。

大勢の人が居るのを見るのは疲れることではあるけれど、

いろんな人が居る、という認識を当たり前に得られるからいいなと思う。

殺人事件

2013-07-29 10:01:14 | テレビを見て
十何人かの集落のうち5人が殺された事件があった。

ここのところ、毎日のようにテレビや新聞で取り上げられてた。

みんなそれを知って驚く。

なんで驚くのかといえばそれが稀有なことだからだろうと思う。

毎日殆どの人が殺したり殺されたりしてたら、

そんなこと当たり前ということになるのでニュースにならない。

情報として世に出るという事は、

情報として世に出ないそれ以外の無数の出来事があるから。


この世にはいろんな出来事が無数に在る。

在るものであっても、「在るよ」と表現されることがないと、

無いかのように意識がなりがち。

こういう事件は事実としては稀有であるのに、

情報として表現されると、ひとは関心を向けてしまって、

憂えたり、嫌な気分になったり、する。楽しくはならない。

知らぬが花という言葉があるけど、まったくその通りと思う。

「月と雷」

2013-07-28 15:14:46 | 本を読んで
角田光代さんの小説「月と雷」を読んだ。

娘からのお勧め。

以前やっぱり角田さんの「八日目の蝉」も彼女の勧めがキッカケで読んだ。

これも途中で嫌にならずに読めた。

同じ本を読むと、読後感想を話せるのでいいなと思う。


「あんたね、何かが始まったらもう、終わるってこと、ないの。

・・・東京に来ようが父親が居なくなろうが、逃げようが追いかけようが、

始まったら後はどんなふうにしてもそこを切り抜けなきゃなんないってこと。

そしてね、あんた、どんなふうにしたって切り抜けられるものなんだよ、

なんとでもなるもんなんだよ。」

・・・これはこの小説に出てくる直子さんの最期に近い時の言葉。

直子さんというのは不思議な人で、

いわゆる当たり前の暮らしが出来なかった人。

あちらこちらへ流浪の民みたいに動いていたような人生で、

それでもいつも誰かが住まいや食べ物を用意してくれた。

周りの誰かが、何故そうしてくれたんだろうかと直子は考えると、

奪われる何も持っていなかったからという言葉が浮かんだ。

「この人は弱い、自分よりはるかに弱い、庇護せねばならない、

だから愛することができる、愛しても傷つけられることはない、

そう男は信じたんじゃないか・・」

そして気が変わると、

どこか別のところに向かって、自分からそこを離れる。

これが直子。

このブログ読む人は小説のこんな少しの引用で、

何をどう思うっていうんだろうね~


ま、いいか、思ったことを書いてみよう。

この小説の主人公泰子は、

所謂普通の人が当たり前にやるような、

結婚して、子供が出来て、

結婚した男は必ず毎日家に帰って来て、

大晦日には紅白歌合戦を見て、

お正月には御節を食べて、子供の授業参観に行ったり、

節約したり、ローンで家を買ったり、

・・そういう普通の暮らしを当たり前な顔をして、当たり前にやることを、

なんだか遠いものを見るように思ってしまっていて、

自分がそんなふうに思うようになったのは、

幼い頃、いきなり家に現れ、いきなり去って行った直子と智という親子のせいだ、

としたいんだけど、

それは出来ないんじゃないか・・と思うようになる。


泰子が婚約破棄した男は、その晩、ヤケになって、

よく知らぬ女と寝て、子供が生まれることになり、その女と結婚した。

その子供がこの世に存在するキッカケの一つが、

泰子からの一方的な婚約破棄。

それがなければこの子は存在しない。

そういう場面も出て来た。


それで、(何がそれでか?)最後の方の泰子の心模様。

「私たちみんな、子供みたいに、見知らぬところへ連れていかれてるのだ

と泰子は思う。

社会の内側にいようが、外側にいようが。

だれかによって。

なにかによって。

もしかしたら、会ったことも無いだれかの、無意識の気まぐれによって」

「・・・はじまってしまったこと(出来事)は湖面に広がる波紋のように、

幸も不幸も撥ね付けるほどの勢いで、

ただ、こんなふうにはじまり続けるだけなのだ。」

泰子は直子たち親子を自分が起こす出来事の原因にできないと思ったのだと思う。


なんらかのキッカケで娘がこの小説を読み、

娘は何らかのキッカケでそれを私に話したくなり、

私に勧めたくなり、

それを聞いて私は読みたくなり、

こんなものを書きたくなり、

なりなりなりなり・・・でこうなった。

この世という時空はどの時をとっても、もの凄い波紋だらけで、

一時も止まってなくて・・・

動的平衡と動的非平衡の連続で終わりが無い。

こんなことをこの小説を読んでも思った。

ただ自分が管理してるこの意識・意志は自覚していたいよ。










医療 と 不安

2013-07-27 15:07:16 | 日々の暮らし・思い出
新聞の番組欄を見ると、最近医療にまつわるのが多いなぁと感じる。

この頃はほとんど見ない。

そういう知識ばかり増えてもなぁ・・みたいな感じ。

不安を煽るようなものもあるんじゃないかと思う。

テレビ局が医療側と結託してるわけじゃないと思うけど、

見て楽しくなるような番組がいいなぁ。

せっかくの夕飯後のゆったりした時間なんだものね~

退化か進化か・・

2013-07-26 15:14:53 | ひとの幸福
今の世界では「人の為に」という思考はなくてはならない。

貧しい人たちの為の政策、

食べるものが少ない地域への食糧援助、

戦争紛争をしている国の子供たちの保護援助はなくてはならない。

いま、法律がなくてはならないのと同じで。

今はその両者ともが必要。

ちょうど去年の今頃、福岡伸一ハカセの「せいめいのはなし」を

読んでいろいろと考えていたけれど、

その対談の中での養老孟司先生の言葉で、簡単に言うと、

・・モグラが地中で暮らすようになって、

目が要らなくなったので退化したという考えがあるけれど、

進化というスタンスで考えると、

目が見えなくなったことが目が見えるよりも有利になったときに

それが選択されることになったのではないか・・・

・・というのがあった・・と記憶してる。

それと同じで、今の世では法律が必要だけれども、

戦争紛争各種トラブルなどない完全幸福な世界になったら法律が要らなくなる、

というより、

法律が在ることより無いことの方が人類にとって有利、快適に暮らせる、

と実感できるようになると、

勝手に行動しても則を超えずといった論語みたいになって、

法律は自然消滅する・・ということなんじゃないかと考えたことがあった。

(ネットで調べたらこうだったよ・・「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず。」)

・・・そういうことをブログに書いたけれども、

「人の為に」という思考もそれと同じなのではないか・・と思った。

「人の為に」という思考が無いことの方が、

人にとって有利、快適に暮らせるということが人類の殆どにわかるようになると、

そのような思考は自然消滅する。

それまでは有効であったとしても。

国境という概念も同じなんだろうと思う。

国境という概念が在ることより、無い方が人にとって有利、快適に暮らせると、

殆どの人がわかるようになったら、自然消滅するのかと思う。

山岸さんの文章で、法律も在る間はそれを無視しないとか云々とかの、

正確な言葉は忘れたけれども、

あれもそういったことを云っているのかと思った。

DJポリス ③

2013-07-26 10:44:26 | テレビを見て
昨夜のクローズアップ現代を見て、「調和」という言葉が浮かんだ。

そのDJポリスの姿は「調和」を表している、と思った。

そしてそこに居た人々全体が調和した。

合気道も思い出した。日本神道も思い出した。

合気道は相手の攻撃を撥ね付けず、すっと受け入れる体勢をとる。

合気道は勝負がない。

相手のどんな攻撃も攻撃にさせない。

加害しようとして来る者を加害者にしない。

すべてのものが互いにその個性を生かし合いながら、

共に繁栄して行くというのが日本神道の精神。





DJポリス ②

2013-07-26 10:33:44 | テレビを見て
DJポリスが日本が勝ったことを「本当は自分も喜んでいる」

というようなことを言った、とか確か昨日の番組であった。

日本が勝ったことを喜んで騒ぎたくなるのもわかる・・・

「共感できて初めて話し合える」

簡単な言葉だけど、コレは黄金の言葉だよ。

街頭で騒いでいるというその事を否定することなく受容できてこそ、

騒いでいる人の耳にその後の言葉が伝わる。

最初から撥ね付けられたら、聴く耳を持てなくなる。

それは人間の在りようとして当たり前。

在る姿を非難されることは存在を否定されることだから。

国と国の話し合いの場でも同じことかと思う。

どんなに大問題と思えても、

共感できて初めて話し合うということが可能。

共感なしでは話し合いにならず、討論で終わってしまう。




DJポリス

2013-07-26 10:21:00 | テレビを見て
昨夜のNHKクローズアップ現代。

「共感力をビジネスに利用する」

「人を動かす原動力としての共感力」

こんな言葉が出て来た。

利用する、とか、動かす、とかの言葉に引っかかる人も

なかにはあるかも知れないけど、

こういうことがこの番組で取り上げられるというのがいいなぁと思った。

面白かったのは2002年のサッカーワールドカップの街頭での騒ぎのときと、

最近のそういう場面とでは、ポリスマンの様子が変わってきたという奴。

このポリスマンは以前ニュースだかなんだかで見たことあるけど、

「DJポリス」とネーミングされてるらしい。

2002年、警察は、静かにしろ、騒ぐと許さないぞ、やめろ・・

・・こんな感じだったのが、

最近は、そこに居る人々が“自ら~したくなるような”声かけをしている。

威圧的でなく、穏やかでユーモアがあって謙虚で。

変わってきたなぁと嬉しい。

国家権力である警察が一部であってもそんなふうになって来ているというのは、

歴史的に言ってもすごいことなんじゃないかと思ってしまう。


番組に出てた司会者の話し相手になっている人が、

なんでも共感というわけには行かないけど・・云々と言っていたけど、

それは同感という言葉の方が相応しいのかなと思ったよ。

いつも見てるわけじゃないけど、

この番組では問題視してることばかりが材料になっているので、

司会のナンタラさんはストレス過剰にならないかしら??!

って思っちゃってるんだけど、

昨日はなんだか明るい顔で嬉しかったよ。


親の夢

2013-07-26 09:55:37 | テレビを見て
今朝の「あまちゃん」も面白かった。

水口さんのハンガーを握り締めてしまった場面も受ける。

それに対し「馬鹿じゃないの」と淡々と言う太巻さんも受ける。

番組を見てない人はこんなこと書いてあったって何のことだかわからないね~

ま、いいや、流してください。

今日感じたのは、もっと別のこと。

“自分が果たせなかった夢を子供に託そうとする”という思いについて。

こういう言葉は他のドラマやなんかで聞いた事があるけれど、

自分に関してはどうもぴんと来ない。

そういうことを思う人がいるのかもしれないし、それはそれでいいんだけど。

実際多くの人がこういう思いを持つんだろうか・・???

私が鈍感なのか・・・

「託する」はたのむ。あずける。ことづける。かこつける。ことよせる。口実にする。

夢なんてひとりひとり違って当たり前・・とどうしても思ってしまう。

自分の夢の実現を子供にたのむ・あずける・・・

それを感じた子供が親と共にそれを実現したいと思うということはあるかもしれない。

そういう親の思いと子の思いが一致してれば、

何も言うことはないし、いいんじゃないですか・・という感じ。

そういう思いを親からあずけられた子供は、

いや、それには関心ありませんということもあるだろうな。

はい、しっかりあずかりますということもあるだろう。

あずかったけど、それは捨てることにしましたというのもあるだろう。

どうなるにしろ、子供の意志で決まるんだろうな。