ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「思わず」

2012-01-31 15:36:36 | 言葉
日本語には面白い表現がある。

“思わず”そうした。

“自然に”そうした。
 

思わず、思ったのだろうと思う。

やろうと思わないのに自然にそうしてしまったんだろ。


こういう表現をする時は咄嗟の時が多い。

前方から車が突進してきて、「思わずハンドルを左に切った」とか。

本能、自然の意志かな。

ハンドルを切ろうと意識的に思って、切ったんじゃない。

顕在意識で「そうしよう」とか表現するのは

「明日は遠足だから早く寝よう」のような、

・・前もってわかる事柄についての計画のようなものであって、

今ここという時点、ではあり得ない。


日本語は本当に深い。

理をわかってる。


手段

2012-01-31 15:31:53 | ひとの幸福
慢性鼻炎のせいでか、鼻がむずむずして痒くなる。鼻水が出る。

すると鼻をかむ。かむことで何を実現したいかといえば、

楽になることだ。


昼ごはんの後、食器を片付け、洗う。

それをすることで何を実現したいかといえば、

夕飯を作るときに流しがきれいになっていること。

(その方が作業がしやすいから)

使った箸や茶碗を夕飯が出来て食べる時にすぐ使えること。

すぐ洗わないとガビガビになって、

余計洗うのに手間がかかることになり、

楽じゃなくなるから、未来の自分が楽になること。

流しがグジャグジャになっているより、

綺麗になっている方が見るとき気持ちがいいこと。等など・・

・・そんなふうに“なる”ために洗う。


その後、米を研ぎ、炊飯器にセットした。

それをすることで何を実現したいかといえば、

米を浸水すると浸水しないよりご飯が美味しくなること。

美味しくご飯を食べられること。


昼飯後、郵便局にエクスパック(宅急便みたいな奴)を出しに行った。

娘が裏フリースのズボンを欲しいので

使ってなければ送ってと言っていたので、

使ってなかったものを送ったのだった。

それをすることで何を実現したいのかといえば、

娘が快適に過ごせること。


いろいろ振り返って思い出しても、

ひとつひとつの行為、思い為すことは、

みな自分や他が楽に快適に幸福になること。

防潮堤を造ることも、

ひとが快適に生き続けることを実現したくてそうした。

それがそうなったかは別にして。

どんな行為も究極の目的はひとが幸福になることだろ。

どんな行為の先にも幸福がある。

どんな行為もそのための手段。

その手段が幸福になるという目的に向かっているか、確認するのは大切。


そういう

2012-01-31 10:25:35 | 言葉
「そういう」=「然ういう」

こういう漢字を使うらしい。へぇー!

この「然」は しかり。その通り。そのまま。然諾・当然・自然。

自然はそう生っている。そのようになっている。

宇宙や自然は何故こうなっているのか、

という疑問がどうしても出てくる。

例えば、植物が二酸化炭素を吸って酸素を出している。

動物、人間は酸素を吸って二酸化炭素を出している。

あぁ、そうかと思う。

でも何故そんなふうにうまい具合になっているんだろ?

自然や宇宙の現象がこうなっているのかについても、

その元にはなんらかの意志、意識があるんじゃないか・・・

(勿論人間の意志じゃないよ)

と思ってしまうのは当たり前という気がするんだけど。

どうしてもそういうふうに思ってしまう。

大いなる意志、サムシンググレイト、という言葉もある。

それを神という言葉でいうひともいる。

そうだなぁ、とも思ってしまう。

湯川博士の文章にもそんなのがあったと思う。

アインシュタインも「自然」に対しては深い敬虔の念を持っていたみたいだ。

だから「誰も見ない月は無いというのか」と言ってしまったんだろな。

そういう気がする。

西洋の国の科学者は当たり前のように神という言葉を使うらしい。

自然、宇宙を探求していくと、

神という存在に行ってしまうという感想を持つ人は多いみたいだ。

自然や宇宙は人間が創れない。

自然や宇宙は「そういう」ふうになっている。

そういう 然ういう・・

うまいことなってる。やっぱり・・・

なんで“然ういう”ことに“なってる”んだろ・・・???


振り込め詐欺

2012-01-30 15:04:40 | ひとの幸福
例えば孫(ホントは違う)から、

自分の不注意で事故に合ったけど、

会社に内緒に済ませたいから、お金がいるんだ・・とかの言葉や、

「おばあちゃん、今困っているんだよー」

・・というような言葉を「問題」と捉え、

では・・送金する・・というのが「問題解決」ということなのかな。

困っているという言葉を聞いて、

可愛い孫が困っているなら、それを解決してやりたい

・・という心情になることを利用しているんだろうな。

問題だと捉えなければ、

解決しようという考えにはならない。


「おばあちゃん、事故を示談にしたいんだ」


「あー、そうなの。 大変だろうけど頑張ってやりなさいね。じゃあね。」


なかなかそういうおばあちゃんはいないのかもしれないね~

相対絶対

2012-01-30 11:17:09 | ひとの幸福
「朝焼け小焼けだ大漁だ

オオバいわしの大漁だ

浜は祭りのようだけど

海の中では何万の

いわしの弔いするだろう」

・・という金子みすずの詩がある。


勝負 なんてものはまさしくそういうもので、

勝者がいるということは必ず敗者がいる。

身長が高いと言えるのは低い人がいるからで、

みな身長が同じ高さの2メートルだったら、

2メートルの身長は高いとは言わない。

所謂相対的(物事が他との関係や比較の上で成り立っていること)

になっているのが今の世界。


「絶対」は比較や対立を超えた存在であること。

他の何ものにも関与・制限されないこと・・広辞苑より。


相対じゃない「絶対」は、

今のこの世でどんなふうに出現しているのかと考えると・・・


「超訳 ニーチェの言葉」にあったけど、

「愛が働く場所」以下

善悪の彼岸 それは善悪の判断や道徳を完全に超越した場所のことだ。

愛から なされることはすべて

その場所で起きている。

だから愛の行いは一切の価値判断や解釈がおよばないものであるのだ。

以上。


それはある種の母の愛に似てる。

木語②

2012-01-30 10:46:52 | 新聞を読んで
先週の「木語」からなんだけど。

孔子の子孫が「法治など英国人の遺物だ。

法で秩序を維持するのは香港人に自覚がなく、

人間のレベルが低い証拠だ」と言ったそうで、それはその通りと思った。

法治 というのは法で治めるという意味と思うけど、

人間界を権利義務観念を使った法律でうまいこと治めようということ。

さっき書いたけど、自然は権利義務なんてない。

虫や花や雲や大気や地球や太陽や月や星に向かって

権利や義務を言う人はまさかいないだろ。

そんなこと言わなくったって、花は戦争もせず生きてる。

花も虫も雲も地球も月もみんな自分の分をわきまえて自然に生きてる。

自然は美しい。

人間も自然からの贈り物という存在なんだろうけど、

不自然なことしてるから美しくない面が現われるんだろな。

自分の分をわきまえずに、

自分の分を越えて、他に干渉するのは不自然なことなんだろな。


権利 義務

2012-01-30 10:11:11 | ひとの幸福
権利、義務という言葉があるけど、

基本的な欲求の食欲、性欲、睡眠欲については、

食べる権利、食べなくてはならない義務、

セックスする権利、セックスしなくてはいけない義務、

眠る権利、眠らなければいけない義務、

・・というようなことはあまり聞かない。

食べる権利 という言葉は飢えに苦しむ地域では聞かれることはあるけど。

(こういうのは地球人の意識が未熟で低いレベルだということを表わしてると思う)

けれど、ひとは食べる時に食べる権利があるからと思って食べてない。

食べる義務があるから食べるという感じでもない。

ただ、食べたいから食べるんだと思う。自然なこと。

この人とセックスする権利があるという人も

広い世の中にはいるかもしれないけど、

セックスしたいというのは自然の気持ちだろ。

寝るのも権利や義務じゃない。自然。

排泄もそう。排泄する権利があるからするのでもないし、

排泄しなくてはいけないという義務でするのでもない。

自然。

自然なことには権利だ義務だって言わない。

当たり前だって言われそうだけど。


欲求とは「~したい」という気持ち。

どんなことも基本的には~したいからする、

~したいと思わないからしない、

ただそれだけでいけるといいなと思う。

そういう行為の仕方はみな快適と感じるんじゃないかな。

お金儲けが絡まない趣味をやっているときに、

ひとが殆ど不愉快にならないのは、

やりたくてやる以外に理由がないからだろう。

権利や義務が出てくるといきなりギクシャクする感じになる。

ちゃんとそうなるわけがある。

 

ウォーキング②

2012-01-30 09:32:23 | ひとの幸福
行き着く先が見えない方が「遠い」と思わないで済む と書いた。

それは、遠い と思うと気持ちが萎えるから・・

なんで萎えるのかといえば・・

そこまで行かなくちゃならない、としてるから・・


遠い と思うと楽しくなる、という場合もあるかもしれない。

なんで楽しくなるのかといえば・・

行き着くまでたくさん道中が楽しめるから・・


同じ“遠さ”でも捉え方が違うね~


でもマラソンの場合一直線だったら

その道中があまり楽しめそうもない気もする。

曲がりくねってる方がやっぱり楽しそう。


どっちにしろ、行き着く先がわかってないと、

どっちに向かって歩いていいやらわからないので、

行き着く先をはっきりさせて、それに向かって

好き好きに歩けばいい、ということで。

ひねくれてる

2012-01-30 09:10:17 | ひとの幸福
子供の頃、5月5日が「子供の日」なら、

その日以外の日は大人の日なのか、と思った。

敬老の日以外は敬老じゃない日なのか、なんてことも思った。

こういうこと言うと、あんたは素直じゃないと言われた。

ひねくれてるね~とも言われた。

そうか、こういうのはひねくれてる、と言われることなのかと思った。

自分がひねくれてるなんて思ったことなんてなかったけど。


こんなふうに思ってしまう癖が私にはあるみたいで、

やっぱりひねくれてると言えば言えるのかもしれない。


仕組み③

2012-01-29 15:11:28 | ひとの幸福
すべては時空間全部ひっくるめて繋がってる。


私の両親は仲が悪かったように見えた。

とても仲良い夫婦には見えなかった。

二人の心の奥底はわからないけど。

あの父があのような在りようの父でなかったら、あの母じゃなかった。

又、あの母があのような行動をする人だったので、

あの父はあのような行動をしたのかもしれない。

持ちつ持たれつという言葉があるけど、

二人の関係は二人が共に創っていたと思う。

その二人だけで創ったものでもない。

同居していた祖父母や叔父、近所、親戚・・の一瞬一瞬の在りよう、

それらの人が育ったそれまでのプロセス、生まれつきの個性、

時代背景、家計という経済状態、日本の経済状態、世界情勢、ぜ~んぶの時空間

・・そういうものとも共に創った二人の関係かな~と思う。

そういう二人の影響を一番受けたのは私たち三人の子供かもしれない。

三人の兄弟の「親」はその二人だけじゃなくって、

全部の時空間の存在なのかもしれない、なんて思っちゃうよ。

となると、全ての人の「親」とは全部の時空間の存在ということになる。

こういう私の感想が妄想か妄想でないかは、

これを読む人が自由に決めてくださいな。


誰か一人がその時していることを「悪い」って征伐しても、

全体に繋がってるので、根本的な解決には至らないのは当たり前だし、

そうなってる仕組みを解明することなのかな~と思うな。

その一番の基は人の意識の解明かなと思うよ。







今しようと思ってたんだよ・・と・・

2012-01-29 14:58:29 | ひとの幸福
ひとから何かをやってと言われたときに、

「今やろうと思っていたんだよ」というセリフ。


「はい だけでいい」と子供の頃注意された。

「口答えするな」 と祖母からよく言われた。


「何かをして」と言われて、その何かをするんなら、

返事は「はい」だけでいい、というのもその通りだ。

こちらがするつもりだったか、

そうでなかったかは相手に関係ないと言えばいえる。


また、この言葉のように、

「~して」と、言われないでやりたい、自発的にやりたい、

となってしまうのが人の本性なので、


そういう言葉を発したくなるというのもありかな。


仕組み ②

2012-01-29 09:10:11 | ひとの幸福
震災からこっち、よく

「共に生きよう」といった類の言葉を聞いたり見たりする。

そんなことを思う人が増えたのかもしれない。

でも、考えてみれば 人は共にしか生きられないものだね~

共に生きることしか出来ないもの。

いいにしろ悪いにしろ。

人もどんな生物も世界も宇宙も“共に在る”という状態になってる。

絆 という言葉が流行ってるけど、

そんな言葉を連呼しようとしなかろうとそうなってるものはしょうがない。

自分以外の他がなければ一瞬だって生きられない。

時空間全部ひっくるめてその繋がりから離れての存在は無い。

こういうことも 仕組み、そうなってる、としか言いようがない。

・・と言えないかな。


共に生きよう は人の意志。

共に生きてる は人の状態。生命の本質。存在の在りよう。

・・・と言ってもいいかな。

なので、共に生きよう という言葉が流行るのはいい兆候かなと思う。



「死にたい」・・

2012-01-28 15:30:40 | ひとの幸福
「死にたい」と思って、そうしようとするとき、

何を実現したいんだろ。

そりゃ、死ぬことでしょう。

でも死ぬことで何を実現したいんだろ?

マジで死にたいと思ったことは一度もないけど、

所謂、悩みがあった時、

そういう思いが続いて疲れたときに、

こういう思いがなくなるのは、

寝るのと死ぬことだなと思った。

死ねば、そう思ってしまう意識そのものがなくなって、

楽になると思っていたから。

でも死んだことが一度も無いから、

死んだら意識が本当になくなるのかわからないと今は思っている。

死んだ人からそういう情報を聞いたことも無い。

死ねば意識がなくなると普通そう云われているけど、

それを今は信用出来ない。

わからないことは信じられない。


ようするに、死にたくて死ぬことで何を実現したいかといえば、

気持ちが楽になりたいこと、かと思う。

この子、この親さえいなければと、

身体障害者の我が子や老齢の親を殺して、

自分も死ぬという無理心中も世の中にあるけれど、

そういうのも、辛い思いをしていることに耐えられなくなって、

その思いを消滅させたいと、

その実現方法として死を選ぶのかな。

本当にしたいのは死ぬことではなくて、

気持ちが楽になりたいということだと思う。

死ななくても、気持ちが楽になる、

ということが実現できたらいいのかな。


仕組み

2012-01-28 09:42:25 | ひとの幸福
カテゴリーの「量子力学」を昨日「量子メカニズム」に変えた。

やっぱり無学な私がそんな学問的な言葉はどうかなって思ったもんで。

それにメカニズムの方が相応しいかなとも思った。

なんとなくメカニズムという言葉の意味をわかってるつもりだったけど、

一応辞書で調べてみた。

仕組みとか機構、心理過程という字が並んでいた。

「幸福な社会になるには仕組みが最も大切で・・」というような文章を

本で読んだ記憶があって、

その「仕組み」ってどういうことを言ってるんだろ?

という疑問がずっーと20年以上私の頭の「わからないもの入れ」に入ってた。

あーじゃないか こーじゃないか いや、こーか、

やっぱりあーか、それとも全然違うこのことか・・・?

量子メカニズム というものがそうなのかと昨日の時点で思った。

心理過程というのもぴったり来る。

また変わるのか、今の時点ではわからないなぁ。


ウォーキング

2012-01-28 09:27:24 | ひとの幸福
毎朝だいたい歩いてる。海岸沿いの山道。

最近は夫も同じコースを歩いてるんだけど、

一人で歩いている時には

隣の集落の長い浜(浜の往復で15分)は歩かなかった。

山道は曲がりくねっているので、

行く先がずーっと見えるということはない。

道が視野から消える。

その山道を抜けると隣の集落の浜が見える。

そこは高い地点なので浜が終わるところまで見える。

行き着く先まで見えると、そこまで歩く気がしなくなっていた。

わぁ、あそこまでかぁ と気持ちが萎えた。

行き着く先が見えないとそんなことを思わないで済む。

浜を歩かずに違う道を歩いて、

結局浜の往復を入れるコースと同じくらいの距離を歩くことになったりするんだけど、

先が見えない道だと

「あそこまで行くのか」ということを思わないで歩けてしまう。

面白い心理だなぁと思う。

マラソンなんかでも、もし道がまっすぐで、行き着く先が見えてたら、

まさか42キロ先までは見えないだろうけど、

走る意欲が萎えそうな気もする。

・・ということは・・


行き着く先が見えるとそこまでが“遠い”ということがわかるのかも。

先を見ずに一歩一歩。

今ここでやることに集中することが、

結果的には行きつく先に着く、ということなのかな。