ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

「動的平衡 2」 ②

2012-04-30 13:20:57 | 本を読んで
「操作的介入はいっとき生命を人間の都合に合わせて改変できたように見えるかもしれない。

しかし時間が経過すると、その改変の効果は消え去り、あるいは

大きなリベンジ(報復)として出現する可能性がある。」・・福岡さんの文章。

これもひとの意識作用とぴったり同じことを云っていると思う。

子供が親から命令され、指図され、いやいや服従して、そのいっときは事柄は進んでいるように見える。

しかし時間が経過すると、その効果は消え去り、あるいは

大きなリベンジ(報復)として親殺しや無差別殺人として出現する可能性がある。

勿論、何年もの時空のなか、様々な相互作用でそうなる場合もある、

ということではあるけれど。

まぁ、こんな例はわかりやすいから出しただけだけど、

それほど大きなリベンジではなくても、

自己に発し自己に還る、のは理の当然なんだろうと思う。

意識(顕在・潜在全部含めて)という存在は生命そのものだと思うよ。










「動的平衡 2」 ①

2012-04-29 15:12:59 | 本を読んで
生物学者の福岡伸一さんの「動的平衡2」を読んでる。

「1」が図書館になかったので、「2」を先に読んでいる。まぁ、いいかと思って。

予想してたように?面白い。

最初の方に「世界のあり方としての動的平衡」という言葉があった。

まさしく世界は動的平衡という在りようをしている。

動的平衡を別の表現で言うと、不安定の安定 という表現もあると思う。

自然は勿論、人間界も。人の意識は動的平衡という在りようをしている。

意識界は自然な動的平衡だけでなく、

下記に抜粋を書くけれども、その操作的介入による動的平衡も多分にある。

以下、抜粋。

「遺伝子組み換え技術について、

それを安易に作物や動物に応用することを美しいとは思えない。

動的平衡としての生命は文字通りダイナミックに平衡を求め続けて変化している。

操作的介入によって、干渉を受ければ、その干渉に抵抗しようとする。

押されれば押し返して来る。沈めようとすれば浮かび上がろうとする。

それが動的平衡であり、そこには時間の関数としての動きがある。

操作的介入はいっとき生命を

人間の都合に合わせて改変できたように見えるかもしれない。

しかし時間が経過すると、その改変の効果は消え去り、

あるいは大きなリベンジ(報復)として出現する可能性がある。」

・・抜粋、以上。

操作的介入によって干渉を受ければ、その干渉に抵抗しようとする・・・

押されれば押し返して来る・・・

まるで人の意識のことを云っているようだね~

量子力学でいうところの、観測することで観測されたものに影響を与えてしまう、

というのとも全く同じことだ。量子ゼノン効果と同じ。

自然の斉一性で同じ作用をするんだと思う。

生命・自然・意識 みな一緒だ。

私たちの意識という存在も人工的に創ったものではない自然そのものだから。

けど、意識という作用が少しだけ違うところがある。

少しだけ、と書いたけど大きな違いだ。

防潮堤の話(1/14ブログ「ツナミちゃん」)でも書いたけど、

ひとの意識という存在は、他者が介入しようとしても、

それを抵抗するという方法ではなく、

介入を受けないことも出来るようになっている。

発する側が命令的意識で発しても、それを命令と受けとらないことが出来る。

人は唯一、認識する自然だから。

祖父母と母

2012-04-28 16:40:10 | 日々の暮らし・思い出
母の事を書いたら祖父母のことを思い出した。

子供の頃、父方の祖父母と両親と私たち兄弟で住んでいた。

中一と中二の時と、祖父母が続いて亡くなった。

祖母が亡くなったとき、母はかなり泣いていた。

祖父の時はそれほどでもなかった。

その違いにへぇー!と思ったことを憶えている。

なんでへぇー!だったかといえば、祖母はとても感情的で、

所謂強い、きついと言われるタイプだったので、

母はずいぶん辛い目にあったんじゃないかというのがあったからだ。

祖母に比べると祖父はとても理知的な人で、

博文館日記という日記帳をずっとつけている几帳面なタイプだった。

カッとして怒るというようなことは一度も見たことがなかった。

大人になってから、母にあの涙の違いはなんだったのか、聞いたことがある。

どういう言い回しだったか憶えていないんだけど、

私の受け取ったものは・・・祖母は思ったことをそのまま出して、

裏表がなかった。そして喜怒哀楽が激しかった。

かなり恐い人だったけど、信頼関係があったようだ。

私にもそういう記憶がある。

それに比べると祖父は思ったことは顔に出さない、慎重な感じの人で、

母は心底打ち解けられなかったのかもしれない。

祖父と祖母が何かを言っていた場面が印象的に残っている。

祖母が立って、わぁわぁと、あーだった、こうだったと喚いている時に、

祖父は正座して「いいえ、それは違います。何故ならあーだこうだ・・」

そんな感じの受け答えをしていた。

祖父母同士は仲は悪くなかったみたいだけど。

祖母は在りのままで居たんだろうな。

新緑

2012-04-28 14:51:39 | 日々の暮らし・思い出
新緑が本当に綺麗。今日はいい天気。

さっき少し車で出かけた。目的地に着くまでの景色が最高。

新緑。もくもくと新しい芽が成長して山をとりどりの緑色に染めてゆく。

行きと帰りとで色が変わったような気もする。

一年のどの季節も好きだけど、一番はやっぱり春だ。

いろんな植物が一斉に目に見えて生長し始める。

それに圧倒される。

この新緑をあと何回見るのだろう。今まで見てきた回数より少ないだろう。

多分それほど多くない数字だ。

桜より新緑の方がそう思うかもしれない。わたし。

この部屋から温かそうな日差しが見える。

モッコウ薔薇がほぼ満開。のら猫が時々通る。

夫が昨日、明日からゴールデン・ウィークだよ、と言った。

それを聞いてすぐに、私たちはゴールデン・・えーっと・・イヤーかな?

と言ってしまったけど、毎日が日曜日だと、そうは言わないだろう。

ゴールドと言えるからにはその日以外はシルバーか、銅かアルミか、ということで。

それでなきゃ、この一週間がゴールドじゃない。

サラリーウーマンだった頃、ゴールデン・ウィークは本当に嬉しかった。

あの嬉しさはもう味わうことは出来なくなった。

母の意志

2012-04-28 11:30:45 | 日々の暮らし・思い出
シキタリや習わしはやらなくてはいけない、というようなことを義父は言う。

95才の義父にとっては絶対やらなくてはいけないことなんだと思う。

義父が(やらなくてはならない)と思っているそのことを、

私は(やりたい)という気持ちでやっている。

習わしだからやるというより、

それをその通りすることで義父や地域と調和したいというのがある。

したいのは調和が生まれることであって、習わしじゃない。

その習わしを否定するのは調和という感じじゃないし。

なので、成り行きによってはすぐにでも習わしは止めることが出来る。

実家の母は祖母が亡くなった時に、

祖母が入信して、家族でやっていた信仰をすぐに止めた。

祖母の存命時、その信仰を心からしていたのか、どうなのか当時の母の心はわからない。

小学生だった私には真面目にやっているように見えた。

大人になって母を観ると信仰を熱心にするというタイプの人じゃないように見えた。

わからないことだけど、それをすることで、

姑である祖母と調和してやっていきたいという意志を表わしていたのかなと思う。

ひとによっては、そういう姿を見て、じゃあ、それまで嫌々やっていたのか・・

・・なんて思う人もあるかもしれないけれど、

そうとも言い切れないものと思う。

わからないことではあるけれど、当時の母はそんなふうには見えなかった。

やる前に・・・

2012-04-27 10:47:49 | ひとの幸福
何日か前には白米砂糖コーヒーやめる件で思ったことを書いた。

それをやってみないと、どうなるかわからないから、やってみよう、

やってみてどうかを知りたいのでやりたくなる・・

・・そういう気持ちになったことを書いた。

白米砂糖コーヒーが身体によくないからやめる、という発想や、

ダイエットで食べるのがよくないからやめる、というような発想は、

だから、そうしなくてはいけない、そうするべき・・という考えに行き着く。

ひとが思わず“やらなくちゃ”という思いになるのは、

そのことをやる前から良い事・悪い事と無意識のうちに決めている状態、と言えそう。

そりゃ、今までの経験でそう思ってしまうというのは当然かもしれないけど、

その時々の気持ちの在りよう、刻々と変化する周りの状況なんかで、

以前の同じような現象とは違うかもしれない。

まだやったことのない事をやる前に、

よいとか悪いとかわかるということはおかしいと言えばおかしい。

こういうことが仏教でいうキメツケなのかもしれない。

無意識のうちに“やらなくちゃ”が出てくるのは、

本来の人間の自由性から外れるものだから、

苦しい、ストレスになるのは理の当然と言えるのだろうと思う。


同じ「やらなくてはいけない」という表現であっても、

それが意識的な思いの場合は自覚があるから、ストレスや苦しみにはならない。

苦しみ、ストレスは無意識的に思ってしまうことから始まるものと思う。

そう思っていることに自覚や納得が無い場合に起こる。

保身・安全

2012-04-26 11:17:09 | ひとの幸福
今までずーっと顕在意識だの無意識のうちにだの、潜在意識だのと、

七面倒くさいことを考えて来た。

昨日の「決める」を書いて思ったけど、

顕在意識の役割って身の安全・損得を第一に考える、そのことなのかと思った。

「頭で考えれば不利に思えても、あえて(敢えて)やる」というような表現は、

損得抜きでやることなんかを言うのだろう。

しいて・おしきって という意味の「敢えて」という字が「勇敢」の「敢」なのも面白い。

川で溺れている子供をみつけた時に、危険をかえりみずにすぐさま飛び込んでしまうのは、

顕在意識で思う暇もなく、やってしまうことだろう。

その時は 考える、ということが無い。

考えるとやらない。自分の身が心配だもの。

考える間もなく飛び込んでしまうのは、

自分と溺れる子供がイコールになっている、謂わば自他一体になっている、

・・顕在意識に邪魔されてない境地からなのかと思う。

損得を考えてしまうという顕在意識の奥には、

自他一体の境地があることがわかる例かもしれない。

(でも、つい言いたくなっちゃう・・・

考えずに飛び込む“のがいい”・・わけでは絶対にないです。)


一昨日の整体師さんが書いた文字「自我一体の理」の自我一体とは

自=観察者である自分で 我=実行者である自分や他者 なのだと思うけど、

自=観察心  我=顕在意識・・・とも言えるかな・・・・

決める

2012-04-25 15:16:03 | 実例体験観察
一昨日、白米・砂糖・コーヒーを止めてみると決めた。

またいつか再開するかどうか、今のところはわからない。

そういう日が来ることになるかもしれない。ならないかもしれない。

都合、場合によっては口にすることもあるだろうとは思う。

全く口にしない、というわけじゃないことはわかっている。融通はきく。


けれど、こんなふうに、

一昨日“決めた”ことで昨日の行動、今日の行動がある。

“決める”ことで(未来)が画期的に変わる。

“決める”という事はかなり革命的なことなのかと思う。


(こうしたい)という思いと(そうしたらこういうリスクがあるから・・)

という二つの思いの重さを天秤にかけて、

重くなるとそっちの方をすることになる・・云々を書いたけど(1/26 ブログ)

あれは“決める”ということなんだろうか・・・

違う気がして来たぞ。

あれは決めてはいないんじゃないか。

あれは計算づくというか、損をしたくないという思考が基になっている。

謂わば保身。身体の安全を第一に考える顕在意識のすることだ。

勿論それが悪いわけじゃない。

頭で損得を考えて、こうしようあーしよう、となるのと、

一昨日の“決めた”のとでは違う。

頭でどっちにしようかと迷って、こうしようと思ったわけじゃない。

飛び込む、そういう感じだ。

損得考えずに思い切って飛び込む。という表現が相応しいかも。

いま、ここで「思い切って」と書いたけど、

好きなスイーツを食べたいという思いを切ろう、

・・なんていう思考は働かなかった。

「思いっきりやる」という言葉は、

何かの思いを無意識のうちに切って、それをやる、ということなのかもしれない。

又、やる、ということの結果は、やらないとわからないことだ。

(やる)時の気持ちも、「やらなくちゃ・・」と「やりたい一心・・」

とでは結果もプロセスもかなり違うものになるだろう。

やらないうちになんだかんだと迷うのは・・・保身が一番のネックなんだろな。

四の五の言わずにやれ!というのもそういうことなんだろう。

“決める”ということは「もうどうなってもいい」・・

・・と開き直る・観念するのと同じ作用を心に及ぼすんだろう。

「よし!やる」と「どうなってもいい」でいろんな場面を越えて来たなぁと思うよ。

砂糖抜き!?

2012-04-24 14:29:31 | 日々の暮らし・思い出
昨日の整体師さんが言うには、私の身体は腎臓が疲れ気味らしい。

胃と腸の働きも弱っているという。

それに脚がむくんでいるらしい。これを聞いたのは初めてで、びっくりした。

私は子供の頃から脚が普通より太い。

劣等感をずっと持ってた。いや、今も劣等感を持ってるかも。

小学校からずっとむくんでたのかしら???これは冗談なんだけど。

冷え性なのも整体することでわかるそう。凄いなぁ。

胃腸の働きが弱っているというのもそうかと思った。

ここのところ我ながらよく食べるなぁという感じで、

大便もトイレのたまり水の中で沈むことが多い。

幾らか前まではずーっと浮いていた。

大便が浮くのはいいことらしいと聞いたことがあるけど、

そうなんだと実感する。

身体が栄養を充分吸収してカスしか出ないということなのかな。

そうそう、その話ではなく、

白米と砂糖が一番の身体の大敵のようで、この話は聞いたことがあるのだけれど、

美味しいし気にしていなかった。

身体も冷え性だし、大便も重いし、よし、白米と砂糖とコーヒーを止めてみようかなと思った。

それらが大敵だから止める・・という感じじゃない・・感じ。

決めたキッカケはそれを聞いたからだけど、

それが良いことだからやる・・んじゃない。

それをやることが私の身体にどう作用するのか、どうなるのかは

まだやってないのでわからない。

こうなるのではなかろうかという・・・まだ予想の段階だ。

なので、わからないからやってみたい・・・どうもそういう感じだ。

だからワクワクする。整体の後、昨日の昼ご飯から始めたよ。

(決める)ということを(する)のは気持ちがいいもんだ。

それにかなり自然に意識的になる。

さっきの昼ご飯の時も、義父用に出した甘い煮豆にパッと箸が行きそうになる、

・・すると、アッ、今 止めてるんだっけ と思う。

食べちゃいけないから・・という思考は浮かばない。

決める、決心する、って以前もその作用について書いたことあるけど、

かなりのもんだね、これは。

ワクワクしてやるのは、(こうしなくちゃならないからやる)のとは正反対だからかな。

それに、考えてみたら、毎日同じように過ごしていると思っても、

この世には全く同じことなんてないのだから、

いつだってわからないからやってみよう、なのかもしれないなぁ。

さてさて、これからどうなりますやら・・






「十二因縁」

2012-04-24 11:33:44 | 言葉
仏教のことは殆ど知らないと言ってもいいくらいだけど、

ちょっと知るだけでなかなか興味深いものだと思う。

玄有さんの本で知ったけど、

仏教で「十二因縁」とは人の苦悩が成立して変化する姿を12につなげて言っている、

そのことらしい。

その中に「行」がある。

それは目も耳も心が求めている方向に合った材料を集めていることだという。

表現を変えれば、

私たちがが五感を通して得ている情報は客観的ではなく、

既に「行」に染まっている、という。

つまり客観的に入ってくる情報は存在しないと仏教は言い切っているらしい。

情報は主観的なものだということを云っているんだろう。

「行」の奥にあるものを「無明」というらしい。

それは「アーラヤ識」と云って、膨大な、という意味だということ。

ようするに潜在意識の一つの層のことなんだろう。

これから適当な材料を探して来ることが「行」ということのようだ。

私がよくこのブログで言っていることは、

仏教で言ってることと同じなのかと思った。

情報は五感を通してしか認識出来ないものだし、

見るという五感の一つで言っても、

私を産み育ててくれた人のことを私の目は、

母だというふうにしか見ることが出来ないのも、

そういうことだろうと思う。それは既に客観的とはいえない情報だ。

空から見るみたいに客観的に見れば(ある女の人)だろう。

「六根」というのが既に「行」でそまっている、というふうに仏教では言うらしい。

仏教で「六根清浄」という言葉があるけど、それは・・・

以下ネットから・・・「「六根」とは、

人間が迷いを生ずる原因となる眼、耳、鼻、舌、身、意の六つの感覚器官。

六根は人間の認識の根幹である。

それが我欲などの執着にまみれていては、

正しい道(八正道)※を往くことはかなわない。

そのため執着を断ち、魂を清らかな状態にすることを言う。

そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、

味わわない、触れない、感じないために

俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。」

・・・以上引用。

「六根清浄」が山ごもりで実現するなら結構なことだと思うけど、

なかなか難しいんじゃないかと思う。

「不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、

味わわない、触れない、感じないために・・・」

これはガンジーの三猿の話と似ているね~。

でも、「不浄」と見たらそれは既に「行」に染まっている、と云えるんじゃないかな。

やはり、事実はどうなのか、客観に立つとどうなのか、

それが六根清浄への道のような気がする。

哲学的思考も有効なように思う。


(八正道とは・・

釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳のこと)

「自我一体の理」

2012-04-23 20:51:31 | 言葉
今日整体をやってもらいに行った。

その整体師さんは知り合いの知り合いで初めて会った人だったんだけど、

いろいろな話をしてくれた。

彼女が書いた「自我一体の理」という言葉を見せてもらった。

今まで「自他一体の理」というのは聞いたことがあったけど、

「自我一体」とはどういうことかと思ったら、こういう文章があった。

「とらわれている(私)を(私)が大きな愛でつつみこむ」

この( )は私が付けたんだけど、

在るものを在ると受け入れる、否定無し ということと同じだろうと思う。

前者のとらわれている私 が実行者の私で、

後者の私 が観察者の私 ということなんだろう。

観察者 は 大きな愛そのものだから。


また、考えてみれば、自他一体 と言っても、

この「他」は自分が捉える・認識する・観察するところの「他」でしかありえない。

「他」も「我」も 観察者から観察される実行者であることに変わりはないね~。


今日は彼女からいろんな話が聞けて楽しかった。

果報は寝て・・

2012-04-23 11:55:12 | 日々の暮らし・思い出
昨日、娘との話の中でこういうことがあった。

娘の夫がある時、「何か」をしていて、それを娘に隠すような素振りをしたらしい。

それまで、その「何か」を娘が否定の気持ちでやいのやいの言っていたから、

彼はその「何か」をしていた時に、

娘が見ていた事を知り、それをごまかしたみたいと娘は笑いながら言ってた。

娘はその「何か」に対して見方が変わったので、

その事を否定する気持ちがなくなっていたから、笑って私に話したのだ。

否定する気持ちは消えていたにもかかわらず、

彼にとっては娘から否定されていた行為は消えていない。

娘の今までの態度が現在のその姿の夫を創った・・・

目の前のひとは自分の過去の意識をも映す。

そんなことを二人で笑いながら話した。

「その人は死んでも行為は残る」という山岸さんの文章があったけど、

こういうことなんだろうと思うよ。


原因と結果の因果律で自然界は勿論、この人間世界の現象も起こっている。

「果物」と「結果」、こんなふうな「果」という字の使い方に本当に感心してしまう。

「果物」って大体は木の実だけど、種から育って実になる。「結実」する。

私たちの行為も「実」なんだなぁと思うよ。結実したもの。

そしてそれが「種」にもなる。

めぐり合わせがよい実もよくない実もあるんだろうけど、

めぐり合わせがなかったら、よくない実もならない。

今という時点でよくない「実」だと思っても、

めぐり合わせでそうなったということ。

めぐり合わせって相互作用のことだろうと思う。

今日したことがいつどんなふうな結果になるのかわからないけど、

どの時空も相互作用というプロセスの途中経過点なんだろう。

えーっと、「果報は寝て待て」・・というのは、

まだかまだかと待つとなかなか来ないという量子ゼノン効果を云っているのかと思った

・・ということも書きたかったことだったんだ。

待ってなくても結果は必ず出るもんだね~。


お経

2012-04-22 19:32:50 | 言葉
「観音(かんのん)」という言葉がある。「かんのんさま」なんて言う。

家の近くにも皆が「かんのんさん」と言ってる小さなお社がある。

「観世音」というのと同じ意味らしい。

仏教の梵語から来てる字らしい。お経でもよく出てくる。

どうしてこういう字なのかずっと疑問だった。

私の好きなお経の出だしもこれだ。

「観世音 南無仏 予仏有因 予仏有縁 仏法僧縁 常楽我浄

朝念観世音 暮念観世音 念々従心起 念々不離心」

おおっ!憶えてた!我ながら凄い!

10年位前に暗唱して覚えた。

きちんとその意味を知ってたわけじゃないけど、

なんとなく伝わって来るものがある気がしていた。

でも、観世音という文字が何を表わすのか知らなかった。

観る 世の中 音 みたいな感じで思ってた。

広辞苑で調べてみようと思って見たら、

観世音=観音(かんのん)で、

その意味は 梵語Avalokitesvara 観察することに自在な者の意 だった。

へー!観音さんって当たり前に言ってるその言葉がそういう意味だったとは知らなかった。


時代の風 ジャック・アタリさん

2012-04-22 14:46:34 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞「時代の風」欄の「『ソマリア化』する世界」を読んだ。

サブタイトルは「政治の力で市場制御を」で、

市場は世界規模に拡大しているのに国家は国の枠組みの中に、

留まったままでいるという実状からの文章なんだけれども。

その中で「グローバル(地球規模)経済に対応するには、

法の支配を地球規模にまで拡大することだ。

とてもユートピア的ではあるが必要なことだと思う。」

・・という文章があった。

ユートピア(想像上の理想的な社会)的ではあるが・・という文章は、

ユートピアを絵空事、実現しないものとしている見方が多いからなんだろうと思った。

けれど、ひとは想像できる事は創造出来る。

その時点時点で不可能なことは望まない。何度も書いてるけど、

明日火星に歩いて行きたいなんて思うことはないし。


「法の支配を地球規模にまで拡大・・・」これも、

地球規模にまで拡大できる法の支配の「法」とは、

世界中のどの民族、どの国の人も納得できるもの、と思う。

それでなければ成功しないだろうと思う。

誰一人として苦しまない悲しまない「法」でなければならない。

それで、ユートピアということになるのだと思った。


その後で、私には難しいけれど、いろいろな具体的な方法とかが書かれてあった。

国連、安全保障理事会、国際通貨基金、世界警察・・はどうするこうする・・・。

私にはとてもわからないことだけど、

ひとつひとつ解決していくことで世界は変わっていくと示している。

「国家が自国の領土しか制御しないのであれば、何も制御していないのと同じだ」

・・この文章は全くその通りと思った。

世界は一つだから、部分である一つの国家の事だけやってても、成果は上がらない。

人体のヒスタミンとアドレナリン作用(3月6日ブログ)と同じことだ。

部分のことしか考えなかったら全体が迷惑する。

「欧州連合(EU)は『世界政府がどのような機関になるのか』の実験でもある。」

・・・世界政府という言葉は湯川秀樹博士の文章で見たことがあるくらいで、

あまり見たことがないのは私の不勉強のせいだけど、

こういうことを考えている人は世界中にたくさん居るんだろうな。

人はたくさんたくさん失敗してその失敗を自覚できるようになって、変化進化する。

人が創っている世界という生き物もそういうプロセスを経て変化して行くのかと思う。

世界が政治的にも経済的にも実質的に一つになるには、

多くのプロセスが要るんだろうな。

自分さえ、自分の国さえ、よければいいという考えは、

部分的にいっとき成果と思われることが現われるんだろうけど、

それは永続しないものなのは人体の働きと同じことなんだろう。

こういう考えが世界が実質的に一つになることを遅らせるんだろうな。


でも、自分さえ良ければいいと思ってるわけじゃないのに、

やっていることは結果として、周りに迷惑をかけてしまっていることになっている・・・

というのが実状だと思う。

やはり結局のところ、自分の心の状態を知ることがすべての始まりなのかなぁと思う。

当たり前 ②

2012-04-22 10:35:23 | ひとの幸福
(店で物を手に入れるのにはお金を払う)という“当たり前”がある。

こういう考えをしているなんて日常いちいち思ってない。

けれどそういう考えがあるから、お金を払うという現象が起こっている。

お金を払うのは当たり前と“思っている”ということじゃなくて、

無意識のうちに、当たり前と“している”ので、そのことに当然疑問も感じない。

謂わば思考回避状態といってもいいかもしれない。

けれど、思考回避が悪いというわけじゃないし、

思考回避であっても幸福なら一向構わない。

幸福な状態に対してはもう思考は要らない・・のかな?・・

それが(本当の当たり前)ならもう思考は要らないということなのかもしれない。

みんなが皆、当たり前と“している”ことの中で、

(本当の当たり前)じゃない当たり前の一番大きいのは、

お金が要る・・・そのことだろうと思う。

こんなにポピュラーになっている(お金が要る)が、

家族間では(要らない)システムになっているのも面白いことだ。

赤ちゃんは飲みたいだけおっぱい飲んでいるけどお金は払わない。

お母さんもそれを記録しておいて後で請求しようなんて思わない。

貨幣経済社会は世界中のこれまでの人たちがやってみて、考え、

またやってみて、考えして・・来て創り上げた、

今のところより良いシステムなんだろう。

養老孟司先生や池田晶子さんの文章の中に、

「お金は紙や金属であって、それを皆が、お金(いろいろと交換出来る)と思っている、

・・そのことで成り立っているに過ぎない・・・」というようなものがあった。

本当にその通りだと思う。

地球上の人全員が多分そう思っている(そうだとしている)ことで成り立っている。

この“当たり前”なシステムで人類全員が幸福ならそれでいいけれど、

貨幣経済を基にした資本主義社会というのは問題が起こりすぎるくらい起こっているんだと思う。

政治音痴経済音痴な私にはわからないことばっかりだけど、

政治的や経済的に世界がうまいこと行ってないことはわかる。

今までの“当たり前”を外して考えなきゃ世界は躍進しないんだろうと思う。