ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

秋葉原無差別殺傷事件・死刑

2022-08-01 17:46:59 | 新聞を読んで
もう1週間も前かもしれない。

なんだかんだと日が過ぎてやっと今日出せるかな、この文章。

その事件の犯人が刑で殺されたらしい。

この前平野啓一郎という作家の「死刑について」という本を

読んだせいか、こんな表現になった。

所謂、先進国では死刑制度を止めた国が多いらしい。

私もこの本を読む前は人を殺したら死刑になっても仕方ないだろうと、

なんとなく思っていた。

そう、まさしく、なんとなくだ。

日本でも、冤罪というものが数々ある。

時の権力で罪のない人が殺されることがある。

死んでも死にきれない、ということだろう。

絶対そんなことはあってはいけないことだ。

死刑になりたいから、人を殺したというのを

最近何度か聞いたことがある。

死刑制度がなくなればこういう事件は起こらないだろうなぁ。


死刑にされる前、加藤というその人は

何を思ったろう・・・・・

以前、池田晶子さんと、死刑判決を受けた人との対話の本を読んだことがある。

ほとんど内容を忘れてしまっている私だけれど、

その死刑囚は確か死刑を受け入れていたと記憶してる。
 
この人にとって、死刑は必要なのか、死なずに済んだら、、、

と読んだ当時思ったことがある。

いや、この人にとって、などと考えることなどないのが、

死刑制度というものなんだろう。

人を殺したら自分も殺されるのは当然だという考えか。
 
あんな悪いことをしたから、死刑になるのだ、

だから、悪いことはしない方がいいのだ、

みたいな思いに、人をさせる為にその制度があるんだろうか。

そして、それの元は、

ひとは脅せば何とかなる、という考え・・からか・・・・・

日本人はそれが当たり前と思っている、ということか・・・

私もなんとなく死刑もありか、と思っていたのだから、

そうだったのだと思う。

死刑制度というものは簡単に言えば、仕返し制度かなと思う。


勿論、なんの落ち度もないのに大事な人を殺された

被害者遺族にとっては、、、自分もその立場に立ったら、、、

殺されたなんて、とてもとてもとても受け入れることなど出来ないのは当然だ。

それは本当にそう思う。


死刑制度を止めた多くの国は死刑制度を止めることに

反対する人の方が多かったよう。

それでも、死刑という制度を止めた。

多数決・・・というのも恐いものがある。

けれど、国のトップの一部のひと、だけで舵を取られるのも恐い。

今のプーチンみたいに。

難しい。

なんか、どうしようもないような気持ちになりそう。

こんなふうに思うのは、この世界をなんとかしたい、

なんとかしようという発想からだろう。と、思う。

この複雑なる世界を自分がなんとかしようなんて発想は

無理難題。

自分には何も出来ない・・・

どうしたらいいんだ・・・と途方にくれるけど、

世界がなんとかなることに繋がる小さな小さなことを

していくことか。

この事件を起こした加藤という人は

当時、彼のいろんな気持ちをなんの否定もなく、

聴いてくれるような人が確か一人も居なかった、

と、本人が思ってた、というような報道があった気がする。

一人でも、彼の言葉や行為に、そうか、そうなんだ、と聴いてくれるひと、

そんな人がいたら、事件は起こらなかったかもしれない。

ひとの話を聴けるひとになること。

ひとの心に寄り添うことの出来るひとになること。

たった一人のたった一回のことでも、

世界が変わる小さな小さなきっかけになりうる・・・・

それなら私でも少しは出来るかもしれない。

私がやれる方法はそれかな・・・と思うよ。




「菌の声を聴け」毎日新聞書評から

2021-06-27 10:33:09 | 新聞を読んで

昨日の毎日新聞書評欄に「菌の声を聴け」という本が出ていた。

その欄の一番最初にその本のことが。

とても興味深く面白かったよ。

自然の中から調達する菌でパンやビールを作っている人が書いた本のよう。

自然の中から調達する!?菌・・・

蒸した米を竹筒に入れてひたすら「降りてくるのを待つ」

・・・のだという。

麹菌はいつもやって来るとは限らず、黒いカビしか降りて来ないときもあり、

どうもそれは農薬の空中散布や車の排気ガスが関わっているらしい。

そういう経験なんかで大切なことは、環境を整えること、菌がやって来る器になることだという。

菌も含め、生き物全てそうなっているのだなぁと思う。

人間だって勿論そうだ。

かつて、私は環境です、という言葉を知ったけど、そういうことだ。

菌についていろいろな経験を経て、

「・・・発酵の失敗は、必ずしも一つの要因に還元出来ず、

大きな視点から複雑な絡まり合いを見ていかなければならない・・・

発酵は『因果』ではなく、『縁起』で捉えるべき」

との文章にそういう分野になんの知識もない私だけど、

うんうんと頷く私だよ。

「菌のあり方は人間のストレスとも呼応し、

スタッフの精神的な調子が崩れているときは青カビが出たりするのだという。

菌はまるで精霊のような存在だ」

・・・こんな文章もあった。

 

うちでカスピ海ヨーグルトをずっと作ってずっと食べているけど、

欲しいという人にそれをもらって貰うことがあって、

どうしても出来ないという人もいたことがある。

室温とか消毒とか(私は面倒くさいからしてないけど)時間とかをちゃんとしても、出来ないこともあるよう。

うちでも一度、出来なくなってしまったことがあり、その後、

又友人にそのヨーグルトを頂いて、作ったことがある。

出来なくなった時も同じようにやったつもりだったけど、

他の何かそうならない、発酵に至らない訳があったんじゃないかと思った。

上に紹介した文章のように、何か精神的なストレスが

動的平衡のバランスを乱した、というか、そういうことだったのかと思う。

「・・・発酵の失敗は、必ずしも一つの要因に還元出来ず、

大きな視点から複雑な絡み合いを見ていかなかければならない。

発酵を生み出す『縁起』に目を凝らしたとき、

セオリーとされてきた枠組みが崩れ、新たなイノベーションが起こる・・・」

とあった。

たった一つの原因で何かが起こった、みたいに観てしまうことがあるけど、

その一つの他にも認識出来てない何かが起こって起こって・・・

生き物はその時そうなっている。

少しもじっとしてない。

・・・生きてるものは動き続けて変わり続けていく。

私の肉体がその動きを止めた時、ドクターが死亡届け?をかくけど、

何で死んだか正確な事実なんて、わからないんだろうなぁ。

息が止まった、ということがわかるんだろうけど。

そして、

土葬にしたら、

土の中でその物は瞬間瞬間周りの菌を含めて生きてる物と関わり合って

変化し続けていつか土の一部になって、

その時も他の何かと関わり合って永遠に生きて行くのかもしれないね。

火葬でも同じことだろうね。

全てのものは形は変わるけど、生き続けて存在し続けて行くのではあるまいか・・・・・

なんだかこんな展開になってしまったよ。

在るものは無くなることはあり得ない・・・

だって在るんだから。

前にこんなことばかりここに書いていたね〰️

 

 


スナック菓子の食べ過ぎは・・・

2021-05-12 16:10:08 | 新聞を読んで

昨日の毎日新聞で、コロナ関連でもあるけど、

人は理性では動かず、直観で動くものだ云々・・・

という学者の文章があった。

え〰️と、東京大大学院・奥原剛准教授、ヘルスコミュニケーションを研究するひとらしい。

面白かった。

なるほどと思った。

「スナック菓子の食べ過ぎは脂質、糖質、塩分のとり過ぎになるから

健康によくない」と理性に訴えても効果は乏しいけれど、

「スナック菓子一袋には約30グラムの油を一気飲みしたのと同じになります。飲めますか?」

の方が効果的、とあった。

人の判断や行動は99%が直観で、

理性の力はたったの1%だといわれるらしい。

ふ〰️む。なるほど。

私たちは人間である前に動物であるため、直観で感じる快の不快をもとに行動するもの。

人に対してどう訴えていったら、コロナ禍が

収まる方向に行くか、というテーマでの記事だけど、

日常の人と人とのコミュニケーションの極意でもあると思ったよ〰️🎵


世代交代が社会変える

2021-03-15 15:49:02 | 新聞を読んで

一昨日だったか、毎日新聞の「時代の風」欄。

総合研究大学院というところの大学長の長谷川眞理子さんの。

世代交代が社会変える が大きなタイトル。

オリンピックのナンタラの会長だった森さんの女性蔑視発言について何だかんだとあって、森さんは辞職した。

森さんは何でこうなるのか、わかってなかったんだろうなぁ・・・と、私も思った。

顕在意識じゃなくて、潜在的な価値観が女は男より下というのが森さんにはあった。

森さんを一方的に責められない、と思った私だ。

森さんの発言は昭和のものだとかのことを立憲民主党の人が言ってたね~

本当にその通りだとは思う。

森さんも私たちも知らぬ間にいろんなその時代の価値観を植え付けられている。

今の若い人もいろんな今の価値観を知らぬ間に持つのかと思う。

顕在意識では妻や娘や孫娘を女だからと言って差別したりは

森さんもしないだろう。

私も女性解放運動に関心を持って、勉強会とかに参加したこともある。

差別待遇に怒ったりもした。

そういう自分が何処かの窓口の人に男を出してほしい、なんて思ったこともあるんだ。

なんてことだろう!と自分でも思ったよ。

毒されてる、とも思った。

自分の毒に自分が毒されてる。

明治生まれの祖母、大正生まれの母に育てられた私だ。

学校の先生然り。

そういう気風、そういう社会のなかで育てられた私だ。

反発しながら、そんな人間観にどっぷり浸かって育って来た。

横書きに、世界観 思春期に形成 とあった。

そうだろうなぁと思うよ。

紀元前の粘土板に書かれた記録にも、

今の若者は、という記述があるという。

基本的な価値観、人生観は思春期頃までに経験したことに基づいて作られる、という。

森さんは83才。彼の世界観は戦前のもの。

そう、あった。

そうなんだと思う。

良くも悪くもなく。

・・・こう言ったら、否定されるかな。

でも、潜在意識はしぶとい。

でも、変えられる。 

高校生の時、クラスに朝鮮人の友達が居て、親しくしてた。

彼女が「頭ではそう思ってなくても朝鮮人を差別する心があるでしょう?」と詰めよって来たことがあった。

私はそんなの絶対無い!と言ったことをよく覚えている。

けれど、

その時、私の奥深くに朝鮮人差別意識があったこともよく覚えている。

それが今は絶対と言えるけど、そういう意識は皆無だ。

社会が変わったからか、

私の中でなにかそうなることがあったからなのか、

多分、社会が変わったからじゃないかと思う。

朝鮮人への差別待遇や蔑視は実態が自分の知っている生活のなかではなかったから。

社会は必ず変わっていく。

そんな大きな波に私たちは、

同調しながら、

抵抗しながら、

それを共に創っているのだろうと思う。

 


危うい集団思考

2021-02-16 13:52:55 | 新聞を読んで

今朝の毎日新聞の火論。

大治 朋子さん(専門記者)を読んだ。

集団思考に陥りやすいグループとは、

強い結束力を持ち、

外部からの影響を受けにくく、

支配的なリーダーがいて、

多様な選択肢を検討する手続きを持たない・・・

などが特徴。

こういう集団は、自集団を万能と思い込み、

自分たちのモラル(倫理観)に信念を持ち、

外部の人々を見下し、

疑問や異議を持つことを自己規制し、

満場一致が何より大事と考え、

反対者には圧力をかけてしまいがち・・・・・

 

こういう集団思考は組織委の森喜朗会長の問題、

ひいては近年の日本政治にも通じるがある云々・・とあるけど、

自分が居たところも幾らかは例外点があったかもしれないけど、

まさしくそうだったと思う。

自分も勿論そのうちの一人だ。

何故そうすることが出来てしまったのか。

 

集団は嫌いだった自分だったが、

理想的な世界を現実のものにする方法はこれだと、

他に方法はないと、

そんなふうに思った。

まぁ、そんな思いを持ったにせよ、浮かんでは消える思考を常に見張り、

観察し、それはどうなのか、を問い続けるべきなのに、

あれ??ちょっとぉ・・・が心に浮かんでも、それを無視してしまった。

制御装置が故障してしまった・・・

何故???

 

そこで自分が感じた違和感を無視した。

何故無視したか?

何よりも自分を大事にすることをしなかったからだ。

自分が自分であることを大事にしなかったからだ。

 

 


リスク愛好的・・・!?

2018-09-03 17:51:35 | 新聞を読んで

昨日の毎日新聞の書評欄、「経済学者たちの日米開戦」

副題 秋丸機関「幻の報告書」の謎を解く

というのを読んだ。

石油 日本が1に対し、 英米が777・・

というような数値がはっきりとわかっていた日本。

日本側は英米についての正確な情報を掴んでいながら、

何故開戦という選択をしたのか?

それについて、行動経済学の知見はこう教えると・・・

「現状維持の選択肢と開戦の選択肢が並ぶとき、

国際環境の変化などによるわずかばかりの可能性がある場合、

人はリスク愛好的な方を選ぶという。

開戦を選ぶのだ。

 この世には身悶えするような真理があるのだ」

こういうふうな最後の文章だった。

リスク愛好的という言葉は初めて聞いた。

投資なんかの世界でこの言葉があるようだ。

現状維持なんかじゃ嫌だ、勝負したい、勝ちたい、

簡単に言えばそういう気持ちで開戦を決めた、ということなのかと

私は受け取った。

陸軍という軍隊の一番偉い人が決めた。

軍人は勝負するのが仕事だから、勝ちたい勝ちたいが強くて、

そっちに舵を切ったんだろう。

負けた場合のことなんか考えられないんだろう。

勝負のことばかり、

勝ちたいばかり、

の人たちに国の舵取りをさせてはいけないよね~

 


大人の発達障害の人、十人に一人!?

2017-08-15 15:54:25 | 新聞を読んで

今朝の東京新聞の、心と体すっきりナビ というのに驚いた。

産婦人科医師の伊藤加奈子さんという人が書いたようで、

発達障害という病気は先天的な特性で、

知的障害を伴わないことが多く、明確な治療法はない、とあり、

アスペルガーとか注意欠陥多動障害ADHDとかそういう障害を持った大人が

10人に1人ほどの割合でいると言われている、とあった。

そんなに多いのかと驚いた。

昔からそういった先天的な特性を持った人がこういう割合でいたのだろうか・・・?、

そういう人は変わりものと呼ばれ、馬鹿にされたり、

その言動を責められたりしてきたんだろう・・と思う。

知り合いにそういう特性を持った人もいる。

優しいいい男だ。

自分の娘もかなりな確率でそういう人なのかもしれないと思う。

昔からそういった人はそのくらいの割合でいたのか・・・

天才といわれる人はそういった人だとも聞く。

それとも数十年前から増え続けてきたのか・・・

10人に1人というのはかなりな数字だ。10%。一割。

2,3軒に1人はいるということになる。

いろんな特性を持った人がいるのが当たり前だし、

その方が結果的に社会は豊かになる。

今の時代、これからの時代にはこういう人が増えていった方がいいんじゃないか・・・

そう思ったってなるわけじゃないけど、

そういった人が多くいるということが何か、

大きな意味を持つような…そんな気がするんだ。


「日常愛とは生活様式への愛着です。・・・・・」

2015-05-17 13:20:44 | 新聞を読んで
それの続き・・・

「戦争や災害の後、人は失われた日常に気づきます。

平和とは、日常を取り戻すことです。」

今日の毎日新聞社会面。

この前亡くなった詩人の長田弘さんが亡くなる前日に語った言葉だという。

「長田弘さん、死の前日、最後の言葉」という大きな見出しがあった。

「・・パトリオティズムというのを

日本では何か高揚したナショナリズムのように受け取っているけど、

欧米では生活様式への愛着を指す言葉で、

愛国心と訳すのは正しくない。・・・・

パトリオティズムは宏量(こうりょう)だが、

ナショナリズムは狭量だ。」

・・・こういう文もあった。


なんだか読んでいて涙がこぼれた。

一人一人が当たり前な毎日を暮らして行けることが平和。

戦争や災害だけじゃなくても、

心はすぐに当たり前じゃなくなるわたし。

でも住んでいる日本は戦争をしてないから、じっくり立ち止まることもできる。

戦禍の中だったらそれどこじゃないだろう。


長田さんの斜め横顔が写っていたけど、

とても翌日死んでしまうような顔をしてないと思った。

「・・・こういう確固とした日常への愛着を、

まだ、ずっと書き続けたかった。」というのがあった。

もうこの人生は終わりなのだとその横顔は知っていたんだろう。

そんなふうに思って亡くなって、あの世に行って、

あの世からこの世はどんなふうに見えるんだろう・・・

いつまでそんなことをしてるのか・・・って思うのか・・・

そんなこと一切思わないのか・・・

この世への愛着、生活様式への愛着、それは何処へ行ってしまうんだろう・・・

本当にわからない。

若松英輔氏の言葉「多層的な世界を単層で語ると・・・」

2015-04-29 09:31:06 | 新聞を読んで
テレビのキャスターやコメンテーターと言われる人たちは

いろんな事件・出来事に対して

正義の旗を振りかざして簡単に咎めることが多い。

こういう風潮のことだと思うけど、若松氏はこういっている。

「本当の意味の批判をする人は

『批判対象がなければ自分の頭にこの考えは浮かばなかった』と知っている。

ですから批判から高度な対話が始まる。

でも最近は相手を封じることを「批判」と呼ぶようになってしまった」

この話の後に、山折氏が

「話を単純にし過ぎる人も多いですね。・・・

イスラム国のことも全否定して済むだろうか。・・・全否定したら後は戦争だけ。

この単純さを日々見せつけられ、

世界が単色になっていきり立っている」

と言い、その後に若松氏のこういう発言がある。

「多層的な世界を単層で語ると、私たちの世界は大きく誤ります。

日々のニュースは、ときに単層で伝えざるを得ない。

それを補う知識人までが単層的に語ると、

世界は本当の意味で暴力的になる。」

これを読んで、本当にそうだなぁと思った。


「ガンジーは語ることより沈黙が強いと気付いていました。

という若松氏の言葉があったけど、

沈黙はなぜ語ることより強いのか・・・・・?

多層的な事実を前にすれば、

起きた事を良い悪いと簡単に語りえないとわかって、

沈黙しかない・・となるんだろうか。

実際、何かを話したり、何かしてるとき、

何も言葉が返って来ず、いいも悪いもない感じで

じーっと見つめられるだけ・・そんな対応されると、

人は誰でもそのとき、内省的、内観的になるんじゃないかと思う。

暴れているイスラム国の人たちの前で何もせず、何も言わず、

みんなでただじーっと見つめている・・・

それをいつもそうする。ずーっとそうする。

そういうふうにしたら、イスラム国の人たちは

どう感じ、どう考え、どうなるのか・・・・・












ガンジーの非暴力

2015-04-28 09:44:45 | 新聞を読んで
続きでありますが・・・

新聞の「若松英輔の『理想のかたち』」を読んで・・・

若松氏の発言の一つで、

官邸前デモで数万人が叫んでも、なぜか力を感じられなかった・・・

あそこで、一人が「みんなで黙ろう」と言い出したら何かが動いたかもしれない。

言葉より沈黙の強さを示せたらいいと思いました・・

・・・というのがあったけど、ほんとうにそうだなぁと思った。

たくさんの人がシュプレヒコールみたいのやってる姿って

なんだか滑稽。

私もうんと若い頃労働組合員というのだったことがあるけど、

叫んだりするのがすごくイヤだった。

あほらしかった。

こんなことして効果あるのかなって思った。

でもそれを口に出したことはなかったなぁ。

その前、そういう叫ぶという方法がイヤでもあったし、

対立するというのがイヤで組合員にならなかったんだけど、

組合員ではない=会社側の人 というわけでもないと思って、

労働争議が起きたとき、組合に入ったことがあったよ。

大勢で、ナンタラを許さないぞぉ~なんて叫んでいるとき、

微妙な気分を感じている人って結構いるんじゃないかなぁ・・

そういう微妙な気分を感じている、そのことをもっと大事にしなきゃいけないよねぇ・・

そんな小さな(思い)から世界は変わって行くんだよねぇ・・・

『はじめに神の思いがあった』

2015-04-28 09:22:08 | 新聞を読んで
三日前、土曜日の毎日新聞の文化欄。

さっき「若松英輔の『理想の形』というタイトルで、

宗教学者の山折哲雄さんとの対談を読んだ。

遅いねぇ、今日はもう火曜日だよ。

その日新聞を読んでなくて、今朝、納戸に行った時、

夫が育苗の箱の下敷きとしてそのページを使ってあったのを見た。

ちらっと見て、読もうかなと思ったんだ。

夫がそんなふうに使わなかったらこうして読むことにはならなかったねぇ。

私にとってそれを読むことが、それほどの転機というわけでもないけど、

ほんのちょっとしたことでちょっとした展開がある。

人生は面白いと感じる瞬間だ。

ま、これは余談であります。

その話の主題というわけじゃないけど、

山折さんが引用してた話で、

聖書のギリシャ語原典では、あの有名な「はじめに言葉ありき」が

「はじめに神の思いがあった」だそう。

それは「はじめに言葉ありき 言葉は神であった」が

「はじめに神の思いがあった」ということなんじゃないのかなと思ったよ。


宇宙そのもの、自然そのものには言葉はない。

ただそれが存在するだけだ。

けれど、それが存在され得たその前には神の思いがあった、

ということなんじゃないかなぁ・・・

(思い)は言葉。(思い)は波動。

寝付けないとき、頭にいろんな思いが浮かぶ。

全部それ、言葉によってだ。

変な例だけど、わかりやすい。


『初めに言葉ありき 言葉は神であった』・・・

創造主は神ということなんだけど、

人も創造主だ。だって言葉を持ってるからね。

人間界の現象面のどんなこと、どんな物でも初めは(思い)だからねぇ。

(思い)が無くて、始まったものなんかない。

なので、まず(思い)の方をチェックしなきゃ、

『理想のかたち』は始まらない、ということなんだねぇ。



「事件なぜ起きたか『先生』と考えたい」

2015-03-16 13:37:30 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞。

社会面で、『地下鉄サリン事件20年・林郁夫受刑者の自供引き出した捜査員・

退職後も文通かさね・という見出しの記事があった。

林受刑者はサリンを地下鉄にまいた実行役の一人で、

また彼だけが無期懲役で他のメンバーは死刑に決まったようだ。

真相解明に協力し、真摯に反省をしていると評価されそうなったらしい。


取り調べの最初の頃の林受刑者は

「警察とオウム真理教との戦い」と対決姿勢だったという。

林受刑者と同い年だった捜査員はマインドコントロールを解こうと、

学生時代に見た映画や音楽の話をしたり、

かつては慶応大医学部卒の心臓外科医師として患者から頼りにされていたはずだと考え、

「先生」と呼んだりしたらしい。

「容疑者に『先生』とは何事だ」という異論もあったけれど、

この捜査員はそれを貫いたらしい。

そんな感じで取り調べをしていたその日その晩、

「先生、今日はこの辺にしよう」と告げて調べを終えようとしたら、

「話があります」と林受刑者が切り出し、

地下鉄にサリンをまいたと言ったそうだ。

一緒に取り調べをしていた捜査員は

「先生うそだろ」と絶句したという。

この捜査員は管轄が違って、応援の立場の捜査だったので、

事件の核心を知る信者を担当するとは思ってもいなかったし、

林受刑者のような幹部は直接の実行役とは考えにくいと思っていて、

だからたいした情報は持ってないだろうと思っていたらしい。


死刑と無期刑の違い・・・・

捜査員が別の人で「先生」などと呼ばないで、

最初から(こいつはサリンをまいた実行役に決まってる)なんて決めつけて、

そういう心の状態で取調べをしていたら・・・

もしかして林受刑者は捜査に協力しなかったままで、

死刑という結果になった・・かもしれない。

まぁ、こんなのは私の勝手な見解で、

どうこういうことはないんだけれども、

こんなふうな小さな心の動きが、

人の人生の岐路を作用することがある・・んじゃないかと思ったのだ。






「終わらぬオウム事件」・・・凡庸な悪

2015-03-15 10:07:47 | 新聞を読んで
『終わらぬオウム事件』今朝の毎日新聞に特集記事があった。

オウム真理教事件に興味のある私だ。

見出しに「『悪』が生まれた瞬間」。

中に「凡庸な悪」という言葉があり、

ナチス戦犯裁判を傍聴したアメリカの哲学者が言った言葉だという。

“思考を停止した平凡な人間が巨大な悪を引き起こす状況”をそう呼んだという。


何故自分の思考を停止させてしまうのか・・・

『これがいい』・・・これだ。これに憑りつかれたらそうなる。

これが正しい、これがいい、という価値観に憑りつかれたら思考は止まってしまう。

それは思考を止めるスイッチボタンだ。

そのスイッチを入れてしまうと後は自動的に作動する。

スイッチがオン状態だと、

自然に浮かんでくる自分の気持ちやその時の感情は無視される・・・ことになりやすい。


思考は感覚を始まりとするもの。

そのスイッチをオフにしないと自動的に思考は停止状態になる。


そしてそういう“これが正しい”という強い価値観を持つものが集団になると、

オウムみたいになる。

集団の力は恐い。

だって周りがみんな自分と同じ“これが正しい”という価値観の人ばかりだと、

自分を疑うことがなくなる。

いや、その中でも疑うことはあるかもしれないけど、

多数に流されてしまう・・・

その経験があるから思う。


流されてしまうような弱い者は流されないために、

集団から離れているのが賢明な気がする。

家族も集団だし、学校も会社も集団だけど、

頑なな集団には気を付けた方がいいね。

あらあら、今日はこういう展開になったわ。

何もしない生活

2015-03-04 16:50:27 | 新聞を読んで
私が出かけている間の毎日新聞に養老先生の「さかさま人間学」があって、

夫がそれを切り取っていて見せてくれた。

『何もしない生活』というサブタイトルだった・・と思うんだけど、

この、『何もしない』って、流れに逆らって何かを、変えようとしない、しようとしない・・・

そういうことかなと思った。

年を取ると・・というような記述もあったかと思う。

自分の周りに起こること全てにそれを出来るなら、凄いことだなと思う。

変えようと意識的に思ってないのに、

他を変えようとしてる行為を無意識的にしてしまうことがあるから。

無意識的だから、その瞬間は気付いてない。

その時に不愉快になってた自分を後になって思い出し、

流れに逆らっていた自分に気が付く。

他を変えようとしてではなくて、結果として他が変わるようにと、

行為したりするのは不愉快感がないから、それと違うのは後になってわかる。

「気分」というものは本当に凄い役割を持ってるよなぁ。


『私はシャルリー』だそうなんだけど・・・

2015-01-15 20:52:54 | 新聞を読んで
「私はシャルリー」というのがパリで流行っているらしい。

イスラム教盲信者を風刺する週刊誌の会社へのテロに対しての抗議活動で生まれたらしい。

そのニュースを見るとどうも落ち着かない。

暴力はいけない、というのはよくわかるし、本当にそうだなぁと思う。

表現の自由を!とフランス人やいろんな人が叫んでいるけれど、

何のための表現の自由なんだと思ってしまう。

表現の自由を守るために戦争になってもいいんだろうか・・と思っちゃう。

戦争になってもかまやしない・・・そんな自由なんだろうか。

相手のことなど眼中にないその自由を行使することで、

相手に何が生まれるのか、世界がどうなっていくのか、

考えているのかなぁ・・と思ってしまう。

テロをする人にもそれは同じことだけど。

でもそれをやめてもらうのに、その方法では無理と思うよ。

世界が自由なるものになるために、風刺し、

私はシェルリーと叫ぶことが有効なんだとはとても思えない。


本当の自由は勝ち取るものじゃない、元々人間に備わっているものと思う。

それを自分の中にみつけさえすればいいのかと思う。

・・・これは脱線だけれども。


風刺漫画というのものは、ヘイトスピーチというこの頃よく聞くものと、

対象を否定しているという点で、一緒なんじゃないかと思う。

風刺を洒落た表現だなんていう風潮があるみたいだけど、

風刺ははっきり言って、からかいだ。

それを書く人、見て喜ぶ人は、

その絵に出ている人より自分の方が偉い、程度がいいと高みに立って居る。

その絵に出ている人たちがどうしてそういうことをするのか、なんて考えてみようともしない。

“自分が正しい”に決まっているから。

それこそがテロや戦争の元だよねぇ。

表現の自由なんてそういう本当のことを曇らせるんちゃうかなぁ。