ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

気持ちに余裕・・③

2012-10-25 16:19:52 | ひとの幸福
気持ちに余裕のない心境は急いでいる時にも多い。

急いで気持ちに焦りが出ているという状態はナニカをしたいという欲求に囚われていると言える。

あの電車に乗りたい・・でもまだコレが終わってない・・ジリジリと気が焦る・・

あの電車に乗りたいという気持ちに関心が行っている。

その願いに執着している、とも言える。


願ってもそれをすぐ忘れることがその願いが叶う法だと若い女性向の本にあったが、

それも同じことを云っている。

あの電車に乗れなかったら・・というような不安に駆られていると、

いましているコレに向かう気持ちに集中できないのは当然だ。

ひとは同時(同一瞬)に二つのことは思えないように出来ている。

ナニカ思っているその瞬間に、別のことは思えない・考えられない。

今しているコレに集中できないとそれに集中出来ている場合より、余計時間がかかるのは当然だ。

結果的に電車に間に合わない場合もありうる。

あの電車に乗りたいという願いに囚われていると、願いが叶わない。

何故、ひとは簡単に願いに囚われてしまうのかというのはいろいろと書いてきた・・・
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気持ちに余裕・・②

2012-10-25 13:35:36 | ひとの幸福
“私の”が付くと気持ちに余裕がなくなる・・ということが考えられる。

私の子供・私の仕事・私の家族・私の持ち物・・・

私の・・が付くと『願いが強い』・・ということが言える。

隣の子の成績があまり良くなくても気にならない。

願いが強いので、それに執着する。そういう意識のカラクリがあるのかと思う。

昔と比べて物理的世界が進歩してきた事を見れば、

願いが叶うことを強く欲する。

が、それに執着するとはどういうことか?

願いが叶うことがわかっていれば、願いに執着することは無い。

願いが叶ってない状態が多いから・・か。

欲しい欲しい欲しいと思う、ということはそれが叶ってないということ。

叶ってないということは叶うようなことをしてないから。

物理的に進歩して来たのは、願いが叶うようなことをして来たから。

願いの実現方法を知っていた、と言える。

物理的世界が進歩して来たように頭を使えばいい。

こういうものがあったらいいなぁ・・

“そういうものになるようになるように”頭を使ってきた。

そうやってこういう物理的世界は進歩して来た。

心理的世界もそうやって進歩するはず。

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気持ちに余裕・・

2012-10-25 10:28:18 | ひとの幸福
「気持ちに余裕がある時はそういう対応が出来るんだけどね~」・・

・・というような言葉をよく聞く。

私も、「うん、そうだねぇ」と相槌を打つ。

うん??気持ちに余裕のある時ってどういうことなんだろう?

今までこういう?を持ったことがなかった。

どんなことでもやはり、うん?とか不思議とかが浮かばない限り、

そこで止まるわけ・・だ。

当たり前のことになってると、それ以上の進展が無い。

これも『無知の知』といえる。どういうことか、わからないとわかった。

・・・脱線でした。

「気持ちに余裕がある時」・・とはどんな時か?・・

焦ったりしていない、急いでいない、

反応的言動をすぐにしない、まるで他人事のように対応している、

・・こんな言葉が浮かんだ。

まるで他人事のように対応する・・これって、ちょっと考えてみると、

例えば、中学生くらいの子供を持つ教育ママ的な人が子供の良くない評価ばかりの成績表を見たとき、

他人事のようにそれを見る・・時はカッカしない、のではないか。

・・・ということはどういうことか?

気持ちの余裕がない時の心境では客観的にそれを見ることが出来ない。

客観的に見られない・・とは・・その成績表を見る時、それが「私の子供の成績表」としか見えない。

「私の子供」という認識は主観的に見ているということだからね。

成績表の表には何年何組ナンタラナニオと名前が書かれてあるけれど、

そうか、ナンタラナニオ君の成績表だな、と見えない。どう見ても私の子の成績表。

“私の”が付くと「気持ちに余裕がない時」になってしまう・・・。

こういう例で考えてみよう・・

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交換条件 ②

2012-10-23 20:55:28 | ひとの幸福
シツケと称して、アレをするならコレをしてやるよ・・という交換条件でナニカをやらせようとする事、

いわば取引をすることがどういう結果を齎すかについて書いた。

このことは考えてみると、自分が相手をコントロールしているかに見えるけれど、

そういうことをしていると、相手からコントロールされるようになる。

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心と科学

2012-10-23 11:55:14 | ひとの幸福
自分の家の屋根裏に亡くなった義母のへそくり(5000万円の札束)があることがわかった。とする。

事実は何年か前から、それは家に在った。
 
そのことを知らなかった。知った途端、狂喜乱舞 となった。

何故喜んだのか。

札束が在ったから喜んだ、という表現はするけれども、

知る以前は札束が在っても嬉しくなかった。

知らなかったら嬉しくない。

知らない のは 無い と同じだ。 

何が同じかといったら、

札束があってもその存在を知らない時と、札束が家に無い時と、

その意識の状態が、同じだ。

これを癌と知って、苦しむ と言い換えても同じだ。

知る以前から癌は体内に在った。

こんなふうに“それが在ると知る”事で人生というドラマの新しい一幕が始まる。

物理的現象は次々とその関心が向かうことによって起こる。

世の中に不思議なことはたくさんある。

それらが多いほど人間がまだまだ幼稚だということだろう。

現に在る物事はどんなことでも在るには在るだけのわけがある。

そのわけを人間が見出せてないだけであって。

これからを思うと、それはとても楽しいことだ。

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交換条件

2012-10-22 20:36:35 | ひとの幸福
「イブがこんなことするから、お父さんはアレをしてやらない」と、

イブ父がシツケっぽく言っている。

あれっ?と心がなった。

交換条件を出している・取引をしてる・・・そういうふうに聞こえた。

お父さんがアレをしないことをイブのせいにしてる・・とも言える。

こういう経験を積み重ねて、

「あの人がこんな態度だから、優しく出来ないのも当然だ」というような思考をするようになる。

そう言ったら言い過ぎか・・・

度重なるシツケによって、これだけのことをしたんだからこうしてもらうのは当然・・

・・というような思考もすくすくと育つ。

他がどうで在れ、愛する・・という母の子に対するような愛は

こうした相互作用によって、見事に結実しない。
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気持ちを聴く

2012-10-22 16:05:24 | ひとの幸福
気持ちを聴くというような言葉を何度も聞いてきた。

「お腹が痛い」子供が言う。確かにお腹が痛いのかもしれない。

でもその状況でのその言葉は、

お腹が痛いと言うことで他のナニカを表現していることがある。

どんな表現もその表現を通して伝えたいモノがある。

言っている言葉にトラワレがちになるけど、

伝えたいものを受け取りたい。



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言うことを聞きなさい

2012-10-22 16:03:00 | ひとの幸福
「言うことを聞きなさい」というタイトルで去年書いたことはある。

言うこととやることは違う!と突っ張っていた私だった。

何故、このような言葉遣いが日本語には古くからあるのか・・?

人がナニカ言うときに、やるという処で聞いているか・・ということ、

それを云っている言葉なのだ、と思った。

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解明できてないこと?

2012-10-22 14:35:19 | ひとの幸福
小麦粉を丸めた錠剤をこれは凄くこの症状に効き目があります・・

と信用がおける医師が言って、

それを聞いた患者はその気になって、飲むと症状がよくなる、というもの。

科学的根拠が無い・・ということになってるらしいけど、

いろいろな新しい発見や考察はいつも最初は科学的根拠がない!と言って、

馬鹿にされ、白眼視され、迫害される。

地動説しかり、エジソンの電気の発明しかり、飛行機しかり・・・

こういう白眼視・迫害は単に人間がまだ未熟だということ。

解明できてないことなんて、山ほどあるはず。

現象を見聞きして、不思議だな、と思うことが在るのは、

いまだそれがそうなる仕組みを人間が解明できてないということ。

そういう実例が在る・・・っていうのには、

そうですか、としか言いようがない。

科学的根拠はあるので、現象が起こるわけですが、人間はまだ見出せてません。

こういう表現の方がふさわしい。


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人間の子供

2012-10-22 12:58:52 | ひとの幸福
昨日は一日友人の子供1才9ヶ月と付き合った。

この頃の子供をその子供のするがままにしていたら、

子供はすぐに怪我をしたり、すぐに死んでしまうかと思った。

当たり前のことかもしれないけど、実にそう思った。

危ない所でもそんなことわからないから、関心の向くまま突っ走る。

危ない所、なんて書いたけど、

その子供にとっては“危ない所”なんて認識はないのだから。

車、道路、店、池、海、動物、全て恐いもの無しだ。

分別が無いとはこういうことなんだろう。

何が危険かを子供の潜在意識のプログラムにインストールする時期でもあると思う。


下条信輔教授の『まなざしの誕生』にもあったけれど、

赤ちゃんはヒトとして扱われることでヒトになって行く。

人間はこころ・気持ち・認識を持つものとして育てられればヒトになる。

狼として育てられれば自分は狼だとなる。

これは狼少女の例なんかで明らかだ。

~として扱うことでひとはそうなってゆく。ピグマリオン効果。

ヒトが他の動物に比べ、何故、極端に未熟で生まれて来るのかは・・

人間として扱われる、という体験をしないと人間には、なれないからで、

その体験期間がどうしても必要だからなのかと思う。

そんなふうに未完成で産まれて来ないことには人間になれない。

三つ子の魂百までもという諺があるけど、本当にそうなんだろうと思う。

もし人間が産まれてすぐに馬やキリンのように立てたり歩けたりしても、

認識経験がないから、当然分別も無いわけで、

勝手に動き回りすぐに危ない目に遭ってしまうだろう。


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ものの見方

2012-10-20 21:37:52 | ひとの幸福
娘を見るとき、私には「私の娘」としか見えない。

だが、その人物は他の人から観てはナンタラさんとかであって、「私の娘」とは見えない。

私はその人を娘と 思っている のではなく、

娘と見ているのだ。

事実のその人物は一人だけど、

“その人” は見る人の数だけいる。

娘の友人からすれば、「友達の・・」としか見えないだろう。

私はその人を「私の娘」という見方で見ている。

そういう「ものの見方」で見ているわけだ。

「ものの思い方」とは言わない。

なにかというとすぐ怒る傾向がある木村さんという人がいたとする。

或る人はその木村さんがすごく苦手で、苦手な人としか見えない。

私が娘を見て、その人物は 私の娘 としか見えないように。

いくら苦手意識を克服しろ、なんて言われたって、そう見えるものは見える。

幾ら苦手じゃない、と思い込もうとしても無理。そんな言葉は効かない。

だって、私の娘を「わが娘と思うな」と言われても、

そう思えないのと同じで。

木村さんはその人にとっては「苦手な人」に“なってる”

苦手な人と“思っている”・・なんてレベルじゃないんだ。

こういうのが見方であり、人間観である。

その時その時のただの感想とは違う。

ものの見方こそ、その人の人生を創り、世界を創る。

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なんで私がやらなくちゃいけないのか 

2012-10-18 21:09:27 | ひとの幸福
なんで私がやらなくちゃいけないの?・・

これもよくある。そして大体そういう時は不愉快。

ひとは元来自主的、主体的に行為したいものなので、

やらされるという思いには耐えられないように出来ている。

なので、こういう思いが湧いてくる時は不愉快に決まっている。

なんで私がやらなくちゃならないの、と思うことが嬉しくてたまらない人はいない。

今、言っているのは気持ちのことなので、

しなきゃならないの?というのが言葉だけで、喜んでいる場合はある。


動作的に同じ行為であっても、ひとによってその思いは違う。

その作業は男がやるべきもの・・というような判断があって、

その判断が絶対正しいになっていると、どうしても不愉快になる。

正しくないことを言ったり、やったりする人はダメだ、という見方があるから。

ひとは元来、真善美を求めてしまうものだから、そうなりがち。

けれど、本当の正しさはいつでもどこでも誰にでも当てはまるもの。

地域限定、時代限定、人種限定、などの正しさは本当の正しさではない。

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観察力とプログラム

2012-10-18 14:17:40 | ひとの幸福
例えば、「ねぇ、今お金持ってる?」と自動販売機の前で言われる。

その言葉を理解するのは3、4才児でも出来る。

あなたは現在お金を持っていますか?という意味だ。

暮らしの中ではこういう時、

その言葉を聞いて、「はい、持ってます」と答え、それでおしまいになることはない。

その人はその時お茶を飲みたかったのだけど、コインがなくて、

隣にいた私にちょっと貸してという意思があった・・というようなことかと察することが出来る。

どういう意図でその人がその場でその言葉を発したか・・

そのひとのその時の言葉の奥にある意志を “感じ”取っている。

「あるよ、幾ら要る?」なんてすぐに対応している。

自然に観察し、対応している。

何故そういう言葉の奥にある意志がわかるのかといえば

そういう場合にお金持ってる?と聞かれることはお金を使いたいということ・・

・・というようなプログラムが潜在意識に既にインストールされているからである。

それまでの人生の体験による観察によって創られたものだ。

小さな子供にはそういうプログラムはインストールされていないので、

お金持っている→持ってない・・で、終わりになる。

けれど、大人のそういうやり取りを何度もじっと観察し、自分のものにする。

(潜在意識にインストールする)

子供はこうして大人になるんだけど、

子供の潜在意識の材料・プログラムは全て周りを観察したもので出来ている。

そういう意味で子供は周囲の大人で創られている、と言っても過言じゃない。

どんな人間になったらその子が幸福か、描いて、そうなるようになるように行為することかと思う。

子供や小さな人はそれをじっと見ている。
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やってみてどうか・・の連続

2012-10-18 10:59:55 | 日々の暮らし・思い出
ここに来て分別の無い3才のイブと付き合っていると、

新しい体験が出来る。

叫んだり、泣いたり、ごねたりするので、

こちらがどういう自分で、どうしたら、イブはどういう態度になるのか・・

を観ることが出来る。

こうやってみたら、どう出るだろう・・

それもやった直後だけでなく、その後の時間も・・どうか・・

娘とナンタラカンタラ話をしながら、やっている。

やってみて、あーしたから、こうなって・・・だからこういうことなんじゃないのか・・

こうしてみたらどうだろ・・いや、あれがこうだったから、こうなったんで、

あれがこうじゃなかったら、また違うんじゃないか・・云々かんぬん

そんなことを話していながら、毎日過ごしている。

やってみて、どうなるか観るの前には必ず、「こうなることを描いて」がなければならない。

子もりだけに限らず、庭の片付けやら、植木の配置換えやらも、

ここで娘とやっているんだけど、

庭にしても、コレコレの庭にしたい、というのを描かないと、

こうしてやってみようが出てこないのは当然だ。

コレコレになるように、こうやってみよう、あーやってみよう、が出てくるわけだから。

描きとは願いが実現された姿だ。当たり前か・・





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不愉快になる場合

2012-10-17 15:23:57 | ひとの幸福
(そんなこと なんでやらなくちゃいけないの!)

・・というような思いが浮かぶ時は必ず気分が不愉快なもの。

どういう状態のときにこう思うのか?・・・

それをやることにガテンが行かない場合、なんじゃないか・・・

ガテンが行かない・納得できない・なるほどと思えない・・・

そう思うことにはやる気が起きないのは誰しもかと思う。

人は誰も、有意義なことをしたい、と思ってしまう。

何の意味も認められないことをするのは苦痛だ。

ひとは元来、誰でも役立つことをすることに喜びを感じてしまうように出来ている。

(なので穴を掘っては埋め戻し、又穴を掘るというような刑罰が

一番服役者に苦痛を与えるという話を聞いたことがある。)

このことから考えられるのは、

ひとはそれが自他にとって役立つ・有意義と認められる場合だと、

やらねばならないという思考ではなく、

やりたいという思考に自然となる、ことを示している。

有意義だと認められても、凄く疲れていたら、なんでやらなくちゃいけないのか?が出てくるが、

それは「今やらねばならないのか?」ということだろう。

疲れがとれてからならオーケーとか。

状況が許せばオーケーとかもそうだろう。

ナニカをやれと言われた場合、状況に関係なく、ガテンや納得が行かない事には、

ひとは「やらねばならないのか」を発するもののようだ。

自他にとって意味のある、ガテンの行く、なるほどと思う、ことなら、

ひとはやりたい気持ちになるもの。

それが自然の姿なのかと思う。

それが人の心にナニカがあって、それを止めてしまうことがあるようだ。



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